穢れと共に流されるのは雛人形は、その昔。人型として、人の身に降りかかった災厄や穢れを宿して、川に流したとか。
では、穢れを抱えた人形は。誰かの身代わりとなったものは真っ黒に染められて、息絶えるしかないのか。
自分のものではない――罪を背負って。
阿笠邸には似つかわしくない飾り付けだった。三人官女からの上しかない、雛人形。志保はそれを薄目で見つめる。
「哀ちゃんのおひなさまも素敵だね」
「ありがとう。でもやっぱりあなたの家の雛人形がいちばんすごいわ。今度見に行ってもいいかしら」
「うん!そろそろ片付けなくちゃいけないから、明日来て欲しいな!」
「えぇ、わかったわ。早く片付けないと、お嫁さんに行けなくなっちゃうものね」
「えへへ、そうだね」
雛人形を片付けないと嫁に行けなくなるなんて――それは片付けを渋る子供を納得させるための説話だろうなと志保は思う。女性が、誰かに愛されて、貰われることは幸せだと植え付けられた時代に作られた風習にふさわしい。
「まあ、片付けなかったら吉田さんのお父さんは嬉しいんじゃないかしら。かわいい娘にはいつまでもそばにいてほしいでしょうから」
「哀ちゃんってば」
ぷくりと歩美が頬を膨らます。
「――博士だって、同じ気持ちだと思うよ」
灰原は、ふわりと笑った。
「…そうかしら」
阿笠邸に飾られた雛人形は、灰原哀として生きることを決意したことをきっかけに贈られたものだ。複数人から話があったが、こんな大がかりなモノ、複数あっても困ることから、結局阿笠に一任した。これらは、灰原哀のために用意されたものだ。それを思うと、少女はとても複雑な思いを抱く。宮野志保のための雛人形は存在しないのだ。
女子の成長を祝う行事。片付けなかったら、嫁げないという話。昔の考えが深く根付いた慣習。
変、なの。
――どこまでいっても、人は結局、一人で生きるしかないのだから。例え連れ添いがいようといまいと。
そばにいてほしいというのも、そばにいたいというのも、ただのエゴでしかない。結局自分のことしか考えていないのだ。自分がいなくなったときのことなど、考えもしない。たった一人でこの世に残されたことのない人には、想像も出来ない。一方で、あんな心細さなど誰も知らないでいてほしいとも思う。世界は温かいのに無慈悲だ。理不尽だけど愛おしい。だからこそ救われる。この本当の意味がわかる人間がどれだけいるだろう。
誰も頼る人もなく。
誰にも頼られることもなく。
だけど――とても愛おしい。
「――どうして」
「…」
「そんなに睨んでいるんですか」
「別に…」
降谷がやれやれと肩をすくめた。
「もう面談は終わりますよ。もう少しの辛抱です」
「そんなことで、不機嫌なわけじゃないわ」
「ほお。そうですか」
彼は弱ったような笑みを浮かべる。
「あのね」
「はい」
「私が…。ひとりぼっちは寂しいからって。死ぬまで一緒にいてって言ったら。あなたはどうするの」
「君が?」
彼がどことなく目を煌めかせて尋ねる。
「聞き返さないで」
ぴしゃりと言えば、素直に言うことを聞いて、真剣に考え始める。
「はい、わかりました。――そうですね、…嬉しいと思います」
「嬉しい…?」
「だって、死ぬまで君といられるということでしょう」
「……」
ふふ、と彼が微笑む。それは、多くの婦女子を虜にしてきた笑顔だ。そんなもの、いらないのに。彼女は思う。
「あれ。これは、君の望む答ではありませんでしたか」
彼は、演じるのに慣れすぎている。
「えぇ」
「そうか。――また、僕は間違えてしまったみたいですね」
「…違うのよ」
彼女はふう、と大きくため息を吐く。
「だって。それにイエスと答えて。私がいなくなったら。あなたはどうするの」
「……そうですね。寂しくて泣きます?」
疑問形で答えられ、彼女は眉をひそめる。
「そんな――思ってもいないこと、言わないで」
「おかしなことを言いますね。何が正解だったんですか。君は――この世が終わるまで、一人でいたくなかったんでしょう。誰かと一緒にいたかったんでしょう」
「……」
――だから、だ。
誰か。自分を大切にしてくれる人――一番に大切にしてくれる人と一緒にいたかった。いや、自分を肯定して欲しかった。あなたは間違っていなかった。あなたは正しい、あなたは悪くないと言ってくれる人といたかった。
でも、答は、心の中に持っている。
両親の残した小さな欠片。追いたかった。愛おしかった。つながりが、それしか、なかったから。それでも、自分は間違っていた。間違っていなくても、人を苦しめる結果を導いた。あんな薬を作ったために、多くの人の運命が狂った。
この小さな身体に抱えた穢れは真っ黒で、どこまでも広がっていって。
それでも。
いや、それ、だからこそ。
今まで過ごしてきた全てを思うと、少女は思うのだ。
「――私はね」
少女は瞳を揺らして、小さな声で呟く。
「いつか、雛人形みたいに流されてしまいたいと思うのよ」
「また唐突ですね」
「でも、…未練があって」
「何ですか、それ」
「――あなたの、罪も背負いたい」
「あいにく僕は、決して今まで間違った選択をしていません。お気持ちだけいただきますよ」
「それならば。それでいいわ」
聞き流して、彼女は静かに微笑む。決して本心を語らない、彼らしい言葉だ。彼は少しためらいがちに、言葉を続ける。
「それ、まるで愛の、告白みたいですね」
少女は目を瞬かせる。
「勘違いしないで」
「わかってますよ」
「そうね、でも。それ以上に。あなたが。――私より先に死にたいと…、言える人になりたいの」
――だって、それって。
死ぬまであなたといたい、と同異議じゃない?
あなたから『寂しい』を引き出させたら、それは本当にすごいことじゃないかしら。
唖然とする彼を尻目に、少女は齢十とは思えない笑みを浮かべる。
「あなたの死を見送るの、楽しみにしているわ」
「――…君。顔だけは好みなんだけどね」
「それはどうも」
(穢れと共に流されるのは、宮野志保か。それとも灰原哀か。)