薄すぎて伝わらない小話①【特別な依頼】 はっきりと音がするくらい、雨が窓を打ち付けている。ここは地上二十階だから、開けることができない窓しか存在しないが、それは真っ白で全く見えない。時折、ゴオオ、ザァアアと音がして、風も強いのだとわかる。
天気予報で、夜に向けて荒れると言っていたから、ちゃんとそれ用の長靴を用意してきたし、傘も丈夫なものを選んできた。定時になったら速やかに上がり、公共交通機関が止まる前に帰宅の途に付く。それが一番。――しかし生憎、定時はとうに過ぎてしまっていた。いくら備えたとは言えど、帰るまでにずぶ濡れになってしまうだろう。
彼女が今ここにいる原因となった男を睨む。男は悪びれることもなく、手を差し出す。志保は大きくため息を吐いて、彼の手にお望みのものを渡す。解析結果を一枚の紙にまとめたもの。
「データはあなたのアドレスに送ってあるわ」
「助かる。やっぱり君に頼むのが一番早いな」
「全然嬉しくない」
「おや――人がせっかく褒めているのに。おかしいな」
わざとらしくそんなことを言うので、志保はぷくりと頬を膨らませた。
「わざわざ私を呼び止めて頼むことかしら? こんなの、そこらの若手でもできる解析よ」
「君に頼むと前後の説明がいらないから助かる」
「何よそれ」
「君以外だと――これがどんな事件なのかだの、僕の仕事にどう関わるのだの、いろいろ聞き出したがるからなぁ」
降谷は自分の肩を回しながら、はーやれやれと言う。
不思議だ。事件については、解析の中身を見ればだいたいわかる。そうすればこの男の仕事にどう関わってくるのかも、何をこの解析で求めているかも。
「………ふーん」
結局モテ自慢か、と志保は眉を寄せた。この男とお近づきになりたい人が多いのだろう。話をしたいのだ。ただでさえ謎の多い男。だから、細かい事情を気にせず引き受ける彼女を重宝するのだろう。
「ま、とにかく終わったから私は帰らせてもらうわ」
「あぁ、ありがとう」
降谷は頷くと、窓の方を見る。
「外は荒れているから気を付けろよ」
「誰かさんが仕事を頼まなければ今頃私は家でのんびりしているはずだけど?」
「ははっ、違いない」
くくっ、と愉快そうに降谷が笑った。いつもこうやって志保の毒舌を楽しんでいる。
「じゃあ」
ひらりと手を振って、降谷は執務室を出ていった。それを見送った志保は、荷物をまとめ始める。スマートフォンに手を伸ばせば、電車の一部運休情報が流れてきて、彼女は肩を落とした。
執務室を施錠し、当直室に鍵を返却しに向かう。せいぜい非常口のライトしか頼ることのできない暗い廊下。
外の騒がしさはなんのその、建物内はすっかりと静まり返っている。おそらく多くの職員はさっさと帰ったのだろう。残っているのは、当直員たちと、あのワーカホリックの一団くらいのものだ。コツコツと、自分の足音だけを響かせて歩く。ほんのちょっと。本当にちょっとだけ心細くなりながら。
「――志保さん」
「きゃあっ!」
急に背後から呼ばれて、志保は飛び上がってしまった。だがすぐに、声の主の正体がわかり向き直る。
「け、気配消して近付かないでよ! びっくりするじゃない!」
「いや、まさかそんなに驚くとは思わなくて」
先ほどぶりの降谷がそこにいた。
「何よ、もう用は済んだじゃない…! いきなり現れないで…」
「ははは、君も普通に怖がったりするんだな」
意外だ、と笑う降谷に、志保はむっとする。
「で? 何よ、データに不備でもあったって言うの?」
「まさか」
きょとんとした顔で降谷が言う。志保の叩き出した答えに間違えがあるはずないとすっかり信じきっている顔に、逆に志保が閉口してしまう。
「電車の運休が出ていたから心配になってね」
「心配?」
「あれ、君が使っている路線じゃなかったか?」
「…………遠回りすれば帰れないことはないわよ」
「だろうけど。時間かかるだろ」
くるくる、と彼がキーを回す。
「送っていくよ」
「………え……」
志保がぽかんと目を見開く。なんで、と書いてある顔に、降谷は少なからず不思議そうな顔を浮かべた。
「不満か?」
喜ばれるのが当然だと思っているのか。そんな女性しか知らないのか。志保はどうしようもなく面白くなくなる。そこらの女とは一緒にしてほしくない。
「………いいわよ。帰れるわ」
「でも」
志保は自分のスマートフォンを見る。あれから何の通知も来ていない、それ。
必要なときは他人に頼ればいい。それくらい、わかっている。でも、なんとなく、……悔しくて。
「…彼氏が近くまで迎えに来てくれる手はずになっているの。だから気にしないで」
「………」
降谷は一旦黙った。
「…………科捜研の噂のマドンナに彼氏がいたなんて初耳だが」
「噂のマドンナって何よ。…………私に彼氏がいたらおかしいかしら」
「いや。別に」
降谷は両手を上げて、弱々しく笑った。
「……それじゃ。その彼氏に言っておけよ。気を付けて帰れって。君の乗せている彼女は、この東都を…いや、この国を背負う女だからってな」
「…………バカじゃないの」
志保はほんのりと頬を染めて言い、非常灯しか付かない階段を降りる。降谷はその背中を見送った。
暗い廊下に怯えたり、急に現れた気配に驚いたり。そのくせ、安易に甘えたりはせず。常に彼と対等でいたがる。
あの強がりで強情な志保に。
この暴風雨の中の迎えを受け入れるような。
彼女が手放しで甘える相手がいるのかと思うと、なんとなく面白くなくて。降谷は眉間にシワを寄せた。