Recent Search
    You can send more Emoji when you create an account.
    Sign Up, Sign In

    odgr

    @BanriSuzu
    BMB用隔離アカウント。成人腐。ドギー総受。(世界線は全部別)
    色々書きます。

    ☆quiet follow Send AirSkeb request Yell with Emoji ❤ 💜 💛 💙
    POIPOI 111

    odgr

    ☆quiet follow

    4/14発行になるっぽいです。ほんとか。
    マジェ昼の部捜査前の12月、クリスマスチャリティーヒーローショーに出演が決まったことをきっかけに、『演じる』『ヒーロー』というあたりのキーワードからウィリアムズ親子を考えるモクマさんの話です。モクルクです。
    マジェMカのバレとトンチキネームのモブがそこそこ出ます。実在の団体や個人とは一切関係ありません。

    #モクルク
    ##モクルク

    アクターズ・エンパシー 月がきれいに見える部屋は、朝の光もよく入る。
     つまり自ずと目覚めが早くなることにモクマが気づいたのは、そのゲストルームを選んで借りた翌日の朝だった。正確には自分で選んだというわけではなく、広さと個別の洗面室がある方のゲストルームを気に入ったチェズレイが真っ先に部屋を選び、アーロンはアーロンで「詐欺師の近くでさえなくばどこでも良い」というものだから、モクマはアーロンが使わなさそうな方に決めたのだ。部屋は適度な狭さで、その割には窓が大きく、ひとりで過ごす時間も大切にしたいモクマとしては都合が良かった。多少朝が早くなるとしても、気の置けない仲間たちと過ごす時間が増えると思えば、十分にお釣りが来る。
     このゲストルームの窓から、緑の庭木と生け垣が茂る庭が見えるのも良かった。ウィリアムズ家の庭は、父母と子供がひとりかふたりいるような家庭の邸宅と考えるとちょうど良い広さだった。『ちょうど良い』というのはこの家全体に言える感覚で、本来ならば家の主となる夫婦の部屋、子供のための部屋、家族の時間を共有するリビング、ふたり以上での作業が快適に行える動線を想定したキッチン、窓から光が入り清潔感がある広い洗面室とバスルーム、それから、時に大事な友人を招いて快適に過ごしてもらうための部屋──チェズレイに言われて初めて気がついたが、成程ここは、理想と信念を抱いて働くエリート国家公務員の男が、家族と過ごすありふれた幸せを望んで買い求めた『設定』にひどく相応しい造りだった。
     それでもここはずっと、ルーク・ウィリアムズの大切な思い出とともにあった家であることに、違いはない。







     チェズレイの誕生日パーティから、半月ほど経ったころだった。エリントンの著名なホテルで行う捜査の予定に向けて、モクマはアーロンやチェズレイとともにルークの家に厄介になっている。
     チェズレイとの旅の途中で特定の土地に長期滞在することはこれまでもあったが、修行に出されて以来『家』に帰るという経験は、若き日のナデシコに匿われていた時期と父の訃報を受けての里帰りを除けば、ミカグラ島に戻るまでの放浪期間を含めてもほとんどなかったことだった。定められたコンセプトによってデザインされたホテルやモーテル、コンドミニアム等とは在り方が違う。立地から調度、普段遣いの日用品に至るまで、誰かが日々住み続けることによって変化や制約が発生する。それが家だった。
    しかも今のこの家には、得難い関係の個性的な同居人たちがいる。それも、モクマの生活環境には珍しいことだった。そうして、日中は勤め人であるルークを除く三人は、クリスマスに控えている捜査を目標にしつつも、各々常にはない環境を満喫し、概ね自由に過ごしている。
     モクマもまた、知り合った子供に武術を教えたり、世話になっている礼を兼ねた庭仕事をしたり、日中忙しいルークの手がなかなか及ばない場所の修繕や掃除をしながら、気ままな定住生活を楽しんでいた。しかし今日は、珍しく予定が決まっている。モクマは十五分程度続けたストレッチを終え、仕上げに時間をかけて深呼吸した。
     部屋を出て向かったリビングには、珍しく誰もいなかった。三人分の食器を洗った痕跡があったので、三人はそれぞれに──あるいは一緒に朝食を摂り、ルークかチェズレイがアーロンの分の食器を洗ったのだろう。チェズレイだったら、後でまた一悶着ありそうだが。そんなことを考えながら、モクマは冷蔵庫を開けた。
     きれいに整頓された冷蔵庫の中には、ミカグラ風の味噌汁が入った鍋と、作り置きらしい惣菜の保存容器が入っている。中身が判らず勝手に開けるのも気が引けたのと、朝は米と味噌汁で十分だったので、モクマは半透明の容器には触れずに鍋だけ取ってコンロに火をつけた。
     リカルド式の朝食はモクマには重めだが、ルークの家にはリカルドの電圧に対応した炊飯器があるため、いつでも温かな米が食べられるのはありがたかった。どの国に滞在していた時だったか、旅先でのタブレット通話で「たまにマイカの食事を思い出すよ。おにぎり、美味しかったなあ」とルークがこぼした瞬間に、チェズレイがにこやかにルークとの通話を続けながら一切手元を見ずに最新型の炊飯器の配送をエリントン宛に手配していたのを思い出す。実物にお目にかかることになるとはその時は思っていなかったが、今は大変にその恩恵を受けている。
     温まった味噌汁の鍋から出汁の香りが立ち上り、モクマはコンロの火を止めた。この家のキッチンには、基本のミカグラ料理が出来る程度の調味料が揃っていて、これもチェズレイの差し金かと思っていたら、意外にも調味料や出汁はルークが用意したものだという。エリントンでミカグラ風の料理が流行り始めているらしく、湯に入れるだけで香りの良い出汁が出来るパックやパウダー、フリーズドライの味噌汁もスーパーに並んでいるという話だった。今度試してみようかと思いながら、モクマはスープカップに注いだ味噌汁と米で朝食を済ませる。
     米粒ひとつ残っていない食器を水に浸し、モクマはリビングから近い共用の洗面室に向かった。
    「およ?」
    「あっ」
     誰もいないつもりで、そのまま洗面室のドアを開けてしまった。歯磨きの途中だったルークが一瞬驚いた顔を見せたが、すぐにモクマの姿に嬉しそうに笑った。
    「おはようございます、モクマさん! すみません、すぐどきますね」
    「おはよ、ルーク。お気になさらず、ゆっくりどうぞ」
    「あ、じゃあここどうぞ。ちょっと狭いですけど」
     言いながら、ルークは洗面台の右に一歩避けた。朝日が射して明るい洗面室の大きな鏡の前に一人分の隙間が空き、モクマがそこに入る。
    「ありがと。ちょっとご一緒させてね。歯ブラシ、歯ブラシ、……っと」
     言いながら、モクマは自分用にもらった歯ブラシを取った。ミントの効いた歯磨き粉をほんの少し使って歯を磨き、泡で出るタイプのハンドソープで顔を洗って、そのまま口の周りにふわふわした泡をまんべんなく塗りたくる。カミソリを頬に当てた時、柔らかな笑みを零したルークが鏡に映っているのに気が付いた。
    「どしたの、ルーク」
    「あ。じろじろ見ちゃって、すみません。昔、父さんがこうやって隣で髭剃りしていたな、って思い出して。朝に洗面台を使うタイミングがかぶっちゃった時、こうやって並んで、ふわふわのシェービングフォームで髭剃りする父さんを羨ましく見てました」
    「羨ましい?」
    「なんだか気持ちよさそうだなって。あの泡、ハンドソープの泡と違って固そうでつやつやでクリーミーで、ちょっと美味しそうでしたし」
    「うーん。ルークらしい感想だ」
    「でも、社会人になってから買ってみたものの、残念ながら僕は髭が伸びないタイプだったのか、フォームはほとんど使わなかったんですけど……」
    「髭を当たらなくていいなんて、それこそ羨ましいねえ。おじさんも毎日剃ってるわけじゃないけど。何なら洗顔だって……っと」
     洗面室の外から伝わる誰かの気配を察したように、モクマが口をつぐんだ。モクマは話を逸らし、気になっていたことを尋ねてみる。
    「そういえばルーク、いつもより出勤時間遅くない?」
    「今日は午前中直行する場所があるんで、ちょっと遅くていいんです。と言っても、職場からの電話やメールの対応してたんで、あんまり余裕もなくなっちゃったんですが」
    「朝から頑張っとるねえ」
     照れながら、ルークは手に取った整髪料でキャラメルブロンドの髪をセットし、ストライプのワイシャツの襟と青いネクタイの位置を直した。鏡の中で、人当たりが良さそうな警察官が満足そうに頷く。ほとんど同じタイミングで、モクマも身支度を終わらせた。連れ立って洗面室から出て同じ方向へ歩いていくモクマに、今度はルークが首を傾げる。
    「あれ? モクマさんも外出ですか?」
    「そうそう。ほんの何日かなんだけど、単発のアルバイトが決まってね。これから行ってくるよ。昨日、話がまとまったもんだからさ」
    「昨日……?」
    「言うの遅れてごめんね。アーロンとチェズレイには話したんだけど、ルークは昨日帰りが遅くて会えなかったからさ。実は俺、これに出ることになりまして」
     モクマが懐から一枚の紙を取り出し、ルークに渡した。ルークが紙の皺を軽く引っ張って整える。表面のつるつるしたその紙は、赤と緑をベースにデザインされたカラフルなフライヤーだった。
    「クリスマスチャリティーイベント、ですか?」
    「の、下の方」
     にこにこするモクマに促されるまま、ルークはフライヤーの上で視線を動かした。みるみるうちに、翠の瞳が丸く見開かれる。
    「ニンジャジャンヒーローショー エリントンで」
    「そそ。映画の影響もあってか、こういう案件増えててね」
    「行きたい! 行きたいです! 行きますー!」
     目の色を変えてはしゃぐルークを、モクマはしてやったりと嬉しそうに見る。少し落ち着きを取り戻したルークが、興奮を感嘆のため息に変えて言った。
    「チャリティーイベント自体は、毎年エリントン市がNPOと提携して開催しているんです。クリスマスマーケットやライブなんかは、警備の関係もあるんで知ってましたけど……忙しすぎて、今年の具体的な内容までチェックしてなかった……」
    「ヒーローショーは今年かららしいよ。エリントンパークの特設ステージで、かなり大掛かりにやるんだって。なんか有名らしいアクションチームも参加するとかで……あ、けどね、ルーク」
     どう切り出したものか考えていたが、いいきっかけだったかも知れない。モクマは髭を剃ったばかりのひんやりとした顎を擦りながら続けた。
    「俺、今回は主役のニンジャジャンじゃないんよ」
    「え?」
    「いや、ニンジャジャンなんだけど、そうじゃないっつうか……楽しみにしてくれるとしたら、ちとがっかりさせちゃうかも」
    「うーん……?」
     ルークが腕組みをして唸る。しかししばらく考えてから、ルークは力強く頷いた。
    「……いえ! ヒーローの魂を宿しさえしていれば、誰でもニンジャジャンです! そしてもちろん、モクマさんならどんな役でもヒーローです!」
    「相変わらずこそばゆいねえ。ありがと、ルーク」
    「でも、どうして急にそんな話に?」
    「うん。本当に、昨日の昼に急に決まったからね。ちょっと人助けした、そのご縁で」
    「詳しく聞きたい……でも出勤時間が迫る……!」
    「帰ったらゆっくり話してあげるよ。それに俺も、今日からショーの稽古に行かなきゃいかんから、途中まで一緒だし」
     そこまで言って、急にモクマが照れたように声を弾ませる。
    「っちゅうわけでえ、嬉し恥ずかし同伴出勤だね、ルークぅ!」
    「はい! 途中までですけど、一緒に行きましょう!」
    「……おっさん」
     心底呆れた声に振り向けば、起きぬけのようなぼさぼさの頭のアーロンが辟易とした顔で背中を丸めていた。アーロンから少し距離を取ったその後ろに、対照的に一分の隙もなく身支度を整えたチェズレイが舌なめずりしている。
    「モクマさん。あなた、不安になるほどの無垢に救われましたねェ」
    「救われとる? これ……」
     猫科の大型動物に押さえつけられた獲物のような気分で、モクマは肩を落とした。


     結局、ショーへの出演決定の経緯は途中までしか話せなかった。名残惜しそうに何度も振り返りながら手を振るルークを駅まで送った後、さて、とモクマは周囲を見渡す。
     十二月の平日、人々が行き交う街の上、晴れた冬の空の青は透き通っている。ヴィンウェイほどではないがさすがに少し肌寒く、淡黄色の襟巻きだけは巻いて出てきた。ショーの責任者から教えてもらった特設ステージはエリントンパーク内の病院近くにあるそうで、そのまま歩いていくには少々距離があった。ちと面倒だな、とまばらな髭の剃り残しを撫でながら、モクマは大通りから二本ほど奥の通りに足を踏み入れた。
     モクマは人気のない細い路地の真ん中に立ち、両側に聳える古い建物を見上げた。十階ほどの高さがある煉瓦造の壁のアパートに、路地を挟んで灰色の石造りの建物が向かい合っている。
     準備運動代わりにはちょうど良いか、とモクマは煉瓦の壁の二階あたりを見る。
     モクマの草履の底が、音もなく地面を蹴った。
    「ほっ」
     短い呼吸とともに跳躍する。二階と三階の真ん中あたり、煉瓦の目地のわずかな凹凸に草履の爪先がかかる。振り向きざまに、対面にある灰色のビルの外壁に向かって斜め上に跳ぶ。足がかりになりそうな場所を見つけては対面の建物に飛び移るのを繰り返し、モクマはあっという間に地上から煉瓦のアパートの屋上まで駆け上った。
     草履の裏が、乾いたコンクリートの屋上に擦れる。立ち上がると、一気に視界が開けた。室外機や給水タンクの並ぶ屋上には冬の光が燦々と降り注ぎ、日がよく当たるせいか肌寒さも薄らいで、風も心地よい。手を額の前に翳し、モクマはエリントンの街を眺めた。街を一望する視界の一角、緑が生い茂る広場が目に止まった。広大なエリントンパークを覆い尽くす緑にどこかほっとしながら、モクマは緑を目指して隣のビルの屋上にひょいと飛び移った。
    (広くてきれいで、いい街なんだが。ちと、人が多すぎるんだよなあ)
     朝の通勤時間帯ということもあるだろうが、眼下の往来では車も人もかなりの数が行き交っている。こうして上を通って行ったほうがスムーズだし、静かで落ち着く。
     とはいえ、昨日は地上を歩いていたからこその縁だった。アーロンと庭の植木の手入れをした後、なし崩しに手合わせに付き合わされた。まだ暴れ足りないアーロンからどうにか逃げ遂せ、へとへとになりながら遅い昼飯に繰り出したところ、バイクでのひったくりの現場に出くわした。
     見過ごす理由もないので、すぐさま追いかけた。加速するバイクと言えど、『守り手』から逃げ遂せるものではない。難なく捕らえた犯人を警察に引き渡し、被害者に鞄を返し、さて昼飯だとモクマが立ち去ろうとした時だった。

    ──僕の権限でねじ込むから、アクションショーに出てくんない

     モクマの羽織の袖をがっしりと掴んで離さなかったのは、その被害者だった。やや巻き毛の癖がついた金髪が特徴的な恰幅の良い中年男性だったが、どこにこれほどの力があるのかと思うほど手の力が強い。それほど真剣なのだということが伝わる必死な顔をしていた。
     カケール・スラスラと名乗った彼は脚本家兼演出家兼プロデューサーだそうで、ひったくられた鞄の中には大切なPCが入っていたのだという。それを取り返してもらったことへの恩義もさることながら、追跡で見せたモクマの身のこなしにすっかり惚れ込んだという話だった。
    「ねじ込んだら今懸命にやっている人たちが困るだろう」と辞退しようとしたものの、話だけでもと請われてよく聞けば、彼は一日限りの『変身超忍ニンジャジャン』のチャリティーヒーローショーの責任者なのだという。既に稽古に入ってしまってはいるが、台本を少し書き換えれば既存のメンバーの仕事量にさほど影響なくもう一人分の出番を増やすことは十分可能で、かつ彼が本来やりたかった内容も書けるらしい。何より、MGAのショーで実際にニンジャジャンを演じていた人物が加わることは、ショーマンやアクション俳優を目指す若者にとっても良い影響があるはずだ──と。
     そうして、熱弁に根負けして半ば強引に連れて行かれた先で、座組に引き合わされた。彼の突拍子もない変更は日常茶飯事らしく、しかしより完成度を高めようとして懸命なのが周囲にも伝わっているようで、幸いメンバーは快く飛び入りのショーマンを受け入れてくれた。カケールに名乗られた時には正直内心身構えたが、周りにそれとなく聞いてみれば、評判は悪くない人物らしい。
     飛び移るビルから見える街の雰囲気が変わった。集合住宅が次第に減り、コンクリートやアルミ、ガラスなどの建材を用いた機能的でスタイリッシュな高層建築が増えてきた。街の中心、目的のパークが近いしるしだ。
    「よっ、と」
     人目につきにくい適当な路地を見つけ、下に誰もいないことを確認する。事務所と思しきビルの屋上から、モクマは躊躇いもなく地上に飛び降りた。ほんの数秒重力から解放され、菊色の羽織と襟巻きが下から吹き上がる風を受けてはためく。体重と落下のエネルギーが乗っているとは思えないような軽い音をわずかに立て、狙い通りの場所に着地する。誰にも気づかれていないことに安堵しながら、モクマは着地の時に地面に擦ってしまった袴の膝を払った。







     その日の夜、これまでの経緯と詳細を聞いたルークは、なんとも言えない表情をした。
    「土曜の一日限り……!」
     珍しく四人で食卓を囲んだ夕飯だった。それなら行けるか、でも今は呼び出しが、とくるくる変わる百面相に、モクマは助け舟を出す。
    「配信もあるみたいだから、行けても行けなくても一緒に観よ? ルーク」
    「モクマさん……ぜひお願いします! でも、入院中の子供たちにも目の前でショーを観てもらえるように、っていうアイディアは素敵ですね」
    「うんうん。なんかね、有名なスタントアクション専門会社のひとたちも関わってんだって。格闘や剣術の殺陣なんかも、かなりレベル高いみたいで見ごたえあると思うよ」
    「へえ……?」
     黙ってローストポークを噛み千切っていたアーロンが、少し興味を引かれたようだった。
    「何てったっけ、えーと……なんだかオーガニックな感じのお名前……」
    「あっ! もしかして、《ハーブ》ですか?」
    「何だよ、その吹けば飛びそうな名前は」
     曖昧なヒントですぐに思い至ったルークに、アーロンが眉を寄せる。
    「リカルドが誇る、数々の名だたるアクションスターを排出している老舗のスタントアクションアクター専門会社だよ。Highquality Entertainment actionclub of RECARDO Businesspartners、通称HERBだ!」
    「四文字だからって油断してんな。口に出したら韻がうっすらスレスレじゃねえか。てかアクションクラブのAとCどこ行った」
    「何の話だよ、アーロン。略称は社名によって変わるなんてよくある話で」
    「香ばしいことには間違いなさそうですねえ」
     自家製ハーブウォーターをルークのグラスに注ぎ足しながら、チェズレイが微笑む。食べるだけ食べて、あっという間に話題に興味を失ったアーロンが一番に席を立った。「ごっそさん」と素っ気なく言い残し、さっさとリビングを出ていく。もはやわざとですらあるように、テーブルに残された食器にチェズレイが唇を尖らせる。もうこの光景にも慣れたもので、ルークはにこにこしながら丁寧に手を合わせた。
    「ごちそうさま、チェズレイ。今日のごはんも美味しかった、ありがとう。片付けは僕がやるから、あとは任せてくれ」
    ルークは隣の席に置きっぱなしの食器を、自分の皿に重ねながら言った。アーロンの皿には、食べ残しの欠片すら残っていない。
    「ボスゥ……お仕事帰りでお疲れでしょうに。なんと健気な」
    「んじゃ俺も、一緒に洗おっかね。のんびりしててちょ」
    「では、お言葉に甘えて」
    「もちろん。お任せあれ」
    「明朝のチェックをお楽しみに。生ゴミの処理、シンクの清掃もお忘れなく」
    「おっかない……」
     自分の食器だけはしっかり洗って、チェズレイが自室に戻っていく。モクマが最後に食べ終わり、ルークとふたりでシンクに皿を持って行く。
     しかし。
    「とは言ったものの、いやあ、案の定ほとんどやることないね。食卓に出した皿の分まで計算して、食洗機にこんなきっちり入るもんなんかね……」
    「ですね……でもこの食洗機、すごく助かってるんですよ」
    「そなの?」
     半ば予想してはいたが、シンクの中はきれいなものだった。チェズレイの調理手順は完璧で、調理中の空き時間にできる分の洗い物や、調理台の清掃まで済ませてしまっている。機械洗浄可能な食器や調理器具は、以前チェズレイ自らルークに贈った食器洗浄機の中に既に収まっていた。あとはスイッチを入れればそれで済むので、今使った食器を洗うだけで終わりだった。
     広いキッチンにふたりで並んで、ルークが食器を洗う。隣でモクマが食器をすすぎながら、洗浄機に入れてよい食器とそうでないものを振り分け、入れられない食器を乾いた布巾で拭き上げる。
     スポンジに洗剤を含ませて泡立て直し、食器の糸底を丁寧に洗いながら、頃合いを見計らったようにルークが切り出した。
    「あの、モクマさん。……ハーブ、って言えば、ですね」
    「おお。何か知ってる? ルーク、ヒーロー好きだもんね」
    「あっ。すみません、そっちじゃなくて、香草の方の話でして……こっちに戻ってきてから、家でも作ってみたんです」
    「何を?」
    「あの南蛮漬けです。ミカグラ島で食べた」
     モクマは目を丸くした。モクマの好物で、まだ健在だったマイカの里にいた時に、スイと一緒に作り方をコズエから教わったのだとルーク自身から聞いている。
    「エリントンに帰ってから懐かしくなって、何回か作ってみたんですけど……どうしても、コズエさんから教わった味にならなくて。エリントンでは、ミカグラみたいに新鮮な大葉やミョウガが手に入らないんですよね。ユズも、リカルド産のは香りが少し弱いようで」
    「そうかも知んないね。同じ国の同じ料理でさえ、東と西の地方で調味料の味が違って味が変わったりするもんだから。そもそもの食文化や、採れる食材が違う国なら仕方ない」
    「僕もそう思いました。それで調べてみたら、リカルドにも南蛮漬けに似た料理があったんです。魚を揚げ焼きにして、甘く味付けしたお酢に野菜と一緒に漬け込んで、ハーブで風味を足すっていう……あのレシピとはだいぶ違うんですけど、これはこれで結構いいのでは? って感じに出来た時がありまして」
    「リカルド風南蛮漬けか。そりゃあ気になるねえ。食べてみたかったなあ」
    「……。それが、ですね」
    「うん?」
     言いにくそうな様子で一度咳払いし、ルークが続ける。
    「実は、冷蔵庫の中にその作り置きがありまして……」
    「え?」
    「一昨日の夜、仕事が終わった後に、急に食べたくなっちゃって。深夜営業のスーパーで材料を買って、帰ってから作ってみたんです」
    「早く言ってよ、ルーク! ……あ、でも……」
    「そうなんです。お腹いっぱい、ですよね……」
     ふたりで息をつく。肩を落としながらも、ルークが自分を元気づけるように笑った。
    「あと何日かは持つはずなんで、良かったら食べてみて下さい。冷蔵庫の保存容器に入ってますから」
     あれがそうだったか、とモクマは今朝見た冷蔵庫の中身を思い出す。
    「いんや。せっかく教えてくれたんだ。よかったら、味見だけでもさせてくれんかね」
    「……大丈夫ですか? この間、ちょっと食べ過ぎると胃もたれするって」
    「ご安心めされよ。今日はショーの稽古で久々にしっかり身体動かしてるから、まだ余裕あるの」
    「──じゃあ……洗い物終わったら、用意しちゃいますね!」
     ルークがほっとした表情を浮かべた。他の皿をすべて洗った後、食洗機のスイッチは入れずに、洗って拭き上げたばかりの皿と箸をふたり分用意し直す。ルークがいそいそと冷蔵庫から出してきた保存容器の蓋を開けると、甘い酢の香りが立ち上った。
    半透明の容器の中には、魚を小さく切り身にした揚げ物が彩りの良い細切りの野菜に覆われて薄茶のつゆに漬け込まれている。出汁と酢の混ざった香りは確かに慣れ親しんだものとは少し違ったが、食欲をそそる香りだった。
    「では。いただきます」
     魚を二、三切れと野菜をそれぞれ盛り付けた二枚の小皿を挟んで、向かい合わせに座って手を合わせる。ルークが見守る中、モクマは野菜をたっぷり乗せた魚の切り身を一口含んだ。
    モクマの箸が止まった。目の前のルークの顔が曇る。それを悟らせないかのようにルークも一口食べ、苦笑いする。
    「うまく出来た、とは思うんですけど。やっぱり、ぜんぜん違う味になりますよね。見た目も……」
     モクマは何も言わず、もう一度箸を伸ばした。
    使っている魚は小魚ではなかった。リカルドでよく捕れる、もう少し大型の魚の切り身なのだろう。弾力のある白身を噛めば、口の中に塩気のある甘酢がよく滲む。野菜も、彩りと歯ごたえを考えて選ばれ、丁寧に切られている。
    あの日のレシピに近づけようとしている気持ちが、とてもよく伝わって来た。でも違うものになると判りきっているから、割り切って別のものになろうとしていることも。
    「美味しいよ。ルークが作ってくれた、ルークの味だ」
     精一杯の、心からの賛辞だった。大きめの切り身を取って、モクマは時間をかけて噛み締めた。口の中に、甘酸っぱい出汁の味と香りが染み出す。
    「……モクマさん」
    「南蛮酢も、稽古の疲れに染みるよ。……けど、おじさんとしてはちょっと、お砂糖、もう少し控えめでもいいかなあ……?」
    「えっ、これはさすがにレシピ通りなんですが」
     焦るルークに、モクマは笑って答えた。
    「じゃあ、リカルドのお砂糖が甘いのかもね。国によって、原料や精製方法が違ったりするから。エリントンでよく見るお砂糖って、蜜糖の入ったちょっと茶色のやつとか、さらさらしたグラニュー糖っぽいやつじゃない?」
    「! そうです! お醤油とお酒とみりん、だしはミカグラからの輸入ものなんですけど、ビネガーと砂糖はリカルドのを使ってるんですよね。魚も、切り身が多くて……ミカグラみたいに小魚まるごとって案外売ってないんだって、自分で作ろうって思ってからの買い物で初めて気が付きました」
    「クリスマスまでに、一緒に作ってみない? 行けそうなら、お買い物から一緒に行こうや」
    「……はい!」
     すっかり元気を取り戻したルークが、取り分けた自分の皿に箸を伸ばす。でもやっぱり改良の余地ありだなあ、などとつぶやきながら味わっている様子は嬉しそうだった。モクマは秘かに箸を止め、緊張の解けた様子のルークを眺めた。眩しいものでも見るようだったモクマの目元がわずかに軋んだことに、ルークは気づかなかった。
    (これは、親父さんとの思い出とは関係ないよね?)
    つい、考えてしまった。どんなつもりでここで過ごすか決めて来ていたはずなのに、こういう時くらいはよく似た男を通してここにいない男の面影を見ているのではないと思っていいのだろうか、と勝手なことを思ってしまう。その男と暮らしたこの家で、お為ごかしと優しさの狭間の言葉に心をほどかれながら『似ている』という自分と過ごす時間は、ルークにとってはどういうものなのだろう、とも。
     






    「脅迫のメッセージ?」
     翌朝、モクマが稽古のためにステージに着いた時には、既に雰囲気がざわついていた。
     数日後に本番を控えた現場のそれとは、明らかに別の物々しさがある。カケールはいつものように胸の前で袖を結んだセーターを羽織っていたが、その肩の下では固く腕組みをして考え込んでいた。彼の前では、スタッフがおろおろとしている。
    「落書きがされていたんです。倉庫のドアに」
    スタッフを捕まえて聞いてみたら、そんなことになっていたらしい。モクマはスタッフたちの輪を離れ、プレハブ倉庫に行ってみた。確かに昨日までなかった文字が、サインペンらしき黒のインクでドアに殴り書きされている。
    《偽物め、ヒーローを名乗るな。消えろ》──と。
     戻ってみると、カケールが眉間に皺を寄せていた。
    「昨日最後にここを出たのは?」
    「私たちです」
     道具係がふたり手を挙げた。
    「十九時ごろまで道具の修理をしていたんですが、帰る時に倉庫に鍵をかけました。その時には、なかったと思います」
    「そんで、朝一番に来た衣装係ちゃんがドアにメッセージを見つけた、と……」
     衣装係がおびえた表情で頷く。
    「ある程度敷地を仕切ってはあるけど、倉庫はステージの裏にあるから、誰だって入り込もうと思えば入り込めるんだよねえ。鍵はかかるけど、特設ステージだし防犯カメラがあるわけじゃないから……そうだ、鍵は無事だったんだよね? 倉庫の中身は?」
    「まだ今日は開けていませんが、錠前は異常なかったと思います」
    「あと、実は気になることがあって……」
     先程の道具係のひとりが手を挙げた。
    「ステージで作業していたんですけど、ステージの周辺を時々うろついていた人がいたんですよね」
    「どんな人?」
    「真っ黒なスーツで、ちょっと怖そうな雰囲気の男性で……何かを探すみたいにきょろきょろしてましたけど、私たちがいることに気づいてか、帰る頃にはいつの間にかいなくなってました」
    「ふむぅ……」
     出演者たちの顔に、不安がありありと浮かんでいる。考えた末、カケールは重い口を開いた。
    「何にせよ、一応警察に連絡したほうが良さそうだねぇ。スケジュールにも変更が出るかもだし、ショー自体中止になる可能性もあるけど、観客の安全を思えば……」
     その場にいた全員が、既にその未来を想像したことがあったのだろう。急に重苦しい沈黙が落ちた中、場違いに軽い声が響いた。
    「あのー。ちょっといいかい」
     皆が一斉に振り向く。輪の外側から、モクマが手を挙げていた。一斉に注目され、モクマは照れたように頭を掻く。
    「エンドウさん?」
    「実は。──こういったショーの事情に詳しくて、こういう事態にも慣れていて、ニンジャジャンにもとっても好意的で、非常に信頼できる優秀なおまわりさんを個人的に知っています」







     ルークがステージを訪れたのは、稽古が始まってから一時間も経たないうちだった。
    「すみません、遅くなりました! 現場はどちらですか?」
    「来てくれてありがと、ルーク。早速なんだけど、こっちね」
    「はい」
     ルークが頷く。意識して使い分けているわけではないだろうが、今のは国家警察官の顔だな、とモクマは思った。と感じつつも、色違いのニンジャジャンのスーツのモクマが出迎えた時にルークがとっさに息を飲み込んだのが見えてしまったことには、触れないでおく。
    「このドア、ですね」
     ルークが口元を引き結ぶ。距離を変えてタブレットでメッセージの写真を何枚か撮り、周囲を見渡す。
    「監視カメラは……さすがにないですね。公園に設置してあるカメラに手がかりが写っていたらいいんですが、夜十九時から朝八時頃にかけて誰でも出入りできたとなると、絞り込むのは難しそうですね」
    ルークが唸る。そうなると、パークを行き来する途方もない人数の中から倉庫に近づいた人物を探さなければならなくなる。
    「《偽物め、ヒーローを名乗るな。消えろ》……メッセージの内容については、意味に心当たりがある方はいるんでしょうか」
    「責任者の人が聞き取りしていた時には、その話は出なかったねえ」
     それはおそらく、彼なりの配慮だったのだろう。このメッセージの内容にも乱暴な筆跡にも、怒りが感じられた。メッセージの意味が判るものがいたとしたら、何らかに対してそれほどの怒りを買ったことを告白することになってしまう。
    「書かれたタイミングとしても、どうして今なのか、ですよね」
    「俺宛てだったら判りやすいんだけどね」
     モクマとしては、決して悪い冗談で言ったつもりはなかった。この座組に加わったタイミングと自分自身のしていることを思えば、ない話とは言えない──その程度の、可能性の話をしたつもりに過ぎなかったのだが。
    「……ごめんな、ルーク。ちと卑屈だったね」
     ルークの表情に気づき、モクマは頭を掻いて項垂れた。悲しさと悔しさの綯い交ぜになった顔で押し黙っていたルークが、ふいとそっぽを向く。
    「卑屈じゃなくて、それは意地悪って言います」
     目はまだ物言いたげにしながらも、ルークは警察官の顔に戻って続けた。
    「ひとまず、不審人物については管轄の地方警察にこのあたりの巡回を依頼します。それと、公園の管理者に防犯カメラのデータをお借りしてチェックしてみます」
    「忙しいのにあんがとね」
    「いえ、ほかにも調べたいことがありますから……ところで」
    ルークはドアに再び目を向けた。顎の下に手を宛がい、ゆっくりと言う。
    「このメッセージって、『脅迫』なんでしょうか。確かに、消えろとは言うものの、どちらかって言うと……それに、書き殴りのメッセージ以外には、変化はなかったんですよね?」
    「そだね。倉庫の鍵に何かされた形跡もなけりゃ、当然倉庫の中身も何も盗られてない」
    「とすると、メッセージを伝えるためのドア以外に傷つけたり奪ったりしていないところには、何かの意図があるような気がします。犯人は、ショーを中止させたくないのかも……でも、それだと……」
     ルークが人差し指を唇の下に当て、考え込む。モクマはルークの背中を叩いて、明るく言った。
    「出来ることがあれば、協力させてよ。俺もね、犯人の思惑に乗っかるのは癪だけども、できればギリギリまで中止にしない方向で行きたいんよ」
    「……モクマさん」
    「本番はまだだっちゅうに、リハーサルには大人も子供もたくさん集まって見物してくれてね。何か起きて中止になったら、病院の方の企画もポシャっちまうことになるだろうし、まあ、どうしてもダメってことはあるかも知んないけど、出来るだけ頑張ってみたくってさ」
    「そうですね……。楽しみに待っている小さな子や、大きいお友達もたくさんいると思いますし。何より、僕がニンジャジャンを好きになったのは、モクマさんがきっかけなんです。だから……」
    ルークが顔を上げた。
    「わかりました。僕も、できる限りのことをしてみます。何か関係あるかも知れませんし」
    「がってん承知の助。言ってもらえたら、また一緒に立ち会うからね」
    「ありがとうございます」
     ルークが、ようやく緊張の解けた顔で頷いた。公園管理者に防犯カメラのデータを借りる交渉をする約束をして、ルークは病院へ向かって歩いて行った。


    「私もボスと同意見ですよ。犯人は強い怒りを訴えておきながら、しかしショーを中止させたくはないのでしょう」
     澄ました顔のチェズレイが操る体格の良いプロレスラーが、画面の中でパイルドライバーを繰り出してくる。モクマが知っているプロレス技よりも十回くらいは多く空中で回転し、モクマの操作していた忍者風のキャラクターがスローモーションで地面に叩きつけられ、ノックアウトの頭文字が派手なエフェクトとともにテレビの画面いっぱいに映る。
    「それはそうと、ラウンド・ツーはともかく一ラウンド目の体たらくは何ですか。私をあと体力一ドットまで追い詰めて滾らせておきながら飛び道具で削る様子も見せず、キャラコンをミスして中段からフルコンボを食らって逆転負けなど、なんと慈悲深い。あなたなら二フレくらい見てから余裕でしょう」
    「知らん言語で煽られとる……」
     リビングのテレビの前でコントローラーごと膝を抱えたまま、モクマは肩を落とす。
     ゲーム好きのルークが「みんなでやってみたいんだけど」とある夜にゲーム機を出してきて以来、意外にもチェズレイが一番のめり込んでいる。自分の人生に存在しなかった遊びで、何もかもが新鮮な体験だったようだ。ルークはもとより、ルークが不在の時にはアーロンにまで相手をせがむあたり、本当に気に入ったらしい。モクマはと言えば、自分自身の身体はいくらでも思うがままに動かせるが、操作のルールが決まっているコンピューターゲームはどうしても慣れない。覚えられないのだ。
     しかし、チェズレイが楽しそうなことも嬉しければ、チェズレイに教えられることがあることも嬉しかったらしいルークが次から次へと持っているソフトや昔遊んだゲームハードを出してきて、その結果モクマが一番チェズレイの夜更かしにつきあわされている。キャラクター同士でチームを組んでバトルロワイアル形式で戦うアクションゲームや、キャラクターが乗ったカートでタイムを競うレースゲームなど、すべてが生まれて初めての体験に、折に触れてチェズレイの歯茎がまろび出そうになっていることは、そういった理由でモクマしか知らない。
    「しかし、『偽物がヒーローを名乗るな』とはまた、皮肉な。衣装と仮面をつけて舞台に上がれば、誰もが虚構を演じる者に過ぎないというのに……ともあれ、私も少々調べてみることにします。必要があれば、エリントンの有力な組織にも声をかけましょう」
    「よろしくね。……っていつの間にか牛耳っとる?」
    「暇がありますのでね。……ところで、モクマさん」
     キャラクターとステージをそれぞれセレクトし、試合が始まるまでのロード中に、チェズレイは口を開いた。
    「よもやとは思いますが。その告発、まさかあなた自身のことだと思っていらっしゃる?」
    「いーや」
     モクマははっきりと首を振った。
    「まあ正直、ほんのちょびっと考えないこともなかったが。俺が参加したタイミングでのことだしね。だが、ありえんと思うよ。それに、ルークが否定してくれたよ。そうじゃないって思ってる相手の前で言うのは、卑屈じゃなくて意地悪だって」
    「……フフ」
    「眩しいね。中身がこんな下衆でも、ルークはあんなふうに言ってくれる」
    「筋金入りですよ、ボスは。ファントムにあれだけのことをされ、その本性を知ってなお、慕わしき想いは今でも揺るぎないのですから」
    「『エドワード・ウィリアムズ』って御仁は、ルークにとってそれほどの存在だったんだね。それほどまでに、ルークは大切に、幸せにしてもらっていた」
     時折眩しそうな瞳で、その幻の男に似ていると言われる。その男の本性や本質を知った今でもなお。だとすればそれは、中身も含めて『似ている』ということなのだろうか。
     本当に似ているのか、モクマはこの時点でのチェズレイの評価を聞いてみたいような興味が沸いた。しかし聞けばろくなことにならないだろうという予感もあり、言い出しそびれているうちに、データの読み込みが終わってステージを紹介する演出が始まった。
    「ほらほら、モクマさん。次ですよ、次」
    「明日も稽古だから、お手柔らかにね……」
    「嫌です」
     二重の願いを込めたぼやきは文字通り一蹴された。チェズレイに急かされ、モクマは慌ててコントローラーを握った。







     ちょうど席が空いたので、端の席にふたりで並んで座った。モクマは温かなつけ汁のせいろを頼み、ルークは前から気になっていたという鴨肉と葱のつけ汁を注文した。
     十分もしないうちに、ふたりの前に注文した蕎麦のせいろが置かれた。湯気の立つ濃い蕎麦汁から立ち上る香りに、モクマは嬉しそうに鼻を鳴らした。
    「おお……こりゃ、本格的だね。それでは……」
    「「いただきます!」」
     同時に手を合わせ、木の箸をふたつに割る。嬉しそうに蕎麦をたぐるモクマに、ルークは密かにはにかんだ。蕎麦を箸で取り、ルークもモクマの真似でつゆに少しだけ浸して蕎麦を啜った。
    「これは……あまりにもうまーい! 噛むほどにコシを感じる打ち立ての蕎麦に濃いめの出汁の塩辛さとほんのりとした甘さが絡み合う……! 独特な香りの鴨の脂と焦げ目をつけて焼いたネギの風味が調和し、弾力のある肉はボリュームがあるのに後味がさっぱりしていて、せいろのお代わりが捗ってしまう……」
    「絶好調だねえ、ルーク。……しかしこうなると、お燗が欲しくなっちまうねえ」
    「モクマさん。……実は、あるんです……!」
    「ええっ!」
     わざとらしく驚き、顔を見合わせて笑う。カウンターに立てかけられていたメニュー表を手に取りながら、ルークが続けた。
    「仕事帰りの時は、明日に響くから頼んだことがなかったんですけど。蕎麦と一緒に頼んでいる人がいて、ちょっといいなあって思ってたんですよね」
    「それは! いいなあと思うなら、ぜひチャレンジしてみないといけないね、ルーク!」
    「うっ、ううーん、でも、明日もまだ平日なんですよね……」
    「大丈夫。万が一酔っ払っちゃった時は、おじさんがおうちまで送ってってあげるから」
    「そ、そうですか……? じゃあ、お銚子一本だけ!」
    「大将、おちょこ二つで宜しくぅ!」
     実際、頼んだのは熱燗の二合徳利一本だった。それでも、ここ数年単位で根を詰めて働き続けているルークには十分な量だったらしい。
    「だ……大丈夫、ルーク……?」
    「だいじょぶれす……」
     あまりにも呂律の怪しい答えに、苦笑いするモクマの顔が強張っていた。
    「クリスマスをひとりで過ごすのはぁ、父さんが空に旅立ってしまってからだけじゃないんです……一度だけ、仕事でどうしても当日帰れないって判ってた年があって……その時は、一緒にいられる日に少し早いクリスマスをお祝いして……クリスマス当日まで、家の中にカードやプレゼントを隠したり、ちょっとした謎解きの仕掛けをしてくれて……だから、ひとりのクリスマスも寂しくありませんでした……今年はもっと賑やかでぇ、僕は……なのに父さんは、あんなに大ケガしていたのに、病院でもゆっくりしてなくて……」
    「話がだいぶ飛んどるよ。よっぽど疲れてたんだねえ、ルーク。大将、すまんけどおあいそで」
     店の主人に会計を頼む。ぎりぎりだったが、どうにか手持ちで支払いが出来た。少しだけ迷ったが、帰り道を思うと冷えてしまう方が心配だったので、モクマはカウンターに伏して眠ってしまったルークの首に柔らかくマフラーを巻いてやる。くったりとしたルークの腕を持ち上げ、モクマはその下に身体を滑り込ませた。
    「どら」
     小さな掛け声ひとつで、ルークの身体を難なく背負う。忘れ物がないかを確認し、もう一度しっかりとルークの体を支え直してから、モクマはルークを背負って静かな裏道を歩き出した。街灯もまばらな薄明かりの裏道が途切れ、賑やかな表通りが見えてくる。この姿を見せるわけにゃいかんな、と思い直し、モクマは鋭く地面を蹴った。ルークを背負ったままでも普段とほとんど変わらない身のこなしで、モクマは建物の壁を蹴って交互にジャンプし、いつものように屋上に着地する。そのまま、街の建物の上をひょいひょいと飛び移った。
     意識を失った身体を背負い、冬の夜風を切りながら然るべき場所に送り届けてやることは二度目だったが、いつかのように絶望のさなかにいるわけではない。背中からぬくもりの滲む体の重みを感じながら、モクマは穏やかな顔でエリントンの星空の下を駆け抜けた。クリスマスを間近にした夜景は、今日はまた印象の違う煌めきと美しさを湛えている。
     できるだけ家の近くに来てから、モクマは地上に降りた。いつもより少し柔らかな着地を心がけたおかげか、ルークはまだ目を覚まさない。ルークをおぶったまま手探りでコートから鍵を探し出し、モクマは片手で玄関を器用に開けた。アーロンはまだ帰っていないようで、チェズレイの部屋は明かりが消えていたので、もしかしたらもう眠っているかも知れない。
     薄暗い廊下を通り抜け、モクマはルークの部屋の前で立ち止まる。
    「よっこいしょ。ちょいとお部屋にお邪魔するね、ルーク」
     起こさないよう、明かりは点けないまま部屋の扉を後ろ手に閉じ、ルークをベッドに寝かせた。カーテンが開いたままの窓から射す月の光と街灯の明かりだけで、モクマには十分暗闇が見通せる。
     ルークの私室は物の数は多いが、いつもきれいに片付いている。壁にはポスターやプリントのようなものを何度も貼っては剥がした痕があり、今はニンジャジャンのポスターが貼られていた。本棚には趣味の歴史の本や、国家試験の時のものなのか使い込まれた参考書や問題集が何冊も並んでいる。小物を飾っている棚には、ミカグラ島で手に入れたバスケットボールほどの大きさの丸っこいビースト人形が、本物のバスケットボールの横に鎮座していた。 
     この部屋は、ルークのお気に入りのものや、ルークが大切にしているもので満たされている。ここは、ルークがエドワード・ウィリアムズに引き取られてから、二十年ほどを過ごしているはずの部屋だった。愛しい思い出も辛かった記憶もすべて等しく、ルークが過ごしてきた時間が降り積もっている、ルークの心を孤独から守ってきた部屋だった。今なおデスクに置かれた写真立ての中で微笑む親子の姿に、モクマは目を細める。
     疲労と酒のせいか、ルークは完全に熟睡してしまったようで、コートの袖から腕を抜いてもされるままだった。密やかな寝息を繰り返す口元に、せめてネクタイだけでも外してやろうとして、ふと悪戯心をくすぐられた。
     コートを脱がせる手を止めて、モクマは改めてルークの寝顔を見下ろす。実年齢はチェズレイとおそらく一歳しか違わないという話だったが、寝顔は年齢よりもさらに幼く見えるのは、顔立ちや普段の言動、振る舞いの印象のせいだけではないだろう。
    だが、見た目通りに快活で穏やかな人となりだというのに、時折思いもかけないことをする。
     言いづらいほど核心をついたことを突然ぽつりと口にしたり、嘘が苦手な自覚があるのに、誰かのために嘘をつこうとしたり──あるいは、以前ACE本社ビルでモクマの背中を狙った機銃の前に躊躇いなく躍り出たように、ともすれば命を落としかねない危険な局面でも、自分の命を賭けることを一瞬で決めてしまうこともある。
     そのたびに、心配とは少し違う名のついた思いが、心の底でざわつくのだ。
    「ルーク」
     呼んでも、いつものように答えは返らない。ルークは唇から小さく寝息を漏らしただけで、一向に目を覚まさない。月が陰り、部屋の闇が深くなる。それすらも、モクマの目には何の支障もない。仰向けより少し右に顔を傾ける首筋のラインが、思っていたより細く滑らかだったことも、よく見えるままだった。
     モクマはベッドの縁に腰掛け、眠るルークの顔の真横に手をついた。頭の横のマットが沈んでも寝息のリズムを崩さないルークの様子を確かめ、もう片方の側にも手をつく。眠る姿を跨いで見下ろす形になった。覆いかぶさる影がルークの上に落ち、ベッドマットのスプリングが二人分の重さに軋む。自分でも言葉にならない思いが胸で騒ぎ出すのを感じながら、モクマは次第に顔をルークに近づけていく。
    「そんな無防備にしとると、……おじさん、送り狼になっちゃうかもよー……?」
     そのうち、本当に。
     耳元でたっぷり間をとって囁く。首が締まらないようネクタイを外すだけだというのに、もったいぶって結び目に指をかける。台詞に反応は返らず、どこかほっとした気持ちで、モクマは体を起こした。枕に広がるキャラメルブロンドに手を伸ばし、ぽんぽんと頭を撫でた。
    「なんちゃって。同じ家に帰ってるんだもんね、送り狼も何も」
     そうやって、頭など撫でてしまったのがよくなかったのかも知れない。
     あるいは、別の理由だったのか。それは、呼び起こされた無意識下のひとことだった。







     ステージ前に設えられた客席のベンチはすでに満席で、客席のまわりにも立ち見客の輪が何重にも出来ている。ステージの上や周辺の音声は拾うので、子どもたちの必死な応援の声に、マスクの中の口元が緩む。
     演出の白いスモークが、足元にうっすら漂い始めた。ワルサムライの檄に応え、子供たちが声を振り絞る応援のコールが舞台袖にまで高く響く。
     三回目のコールが合図だった。プロジェクションマッピングの要領で、スモークと角度をつけた照明をカーテン代わりにして、モクマのニンジャジャンは一瞬で闇堕ち衣装のアクターと入れ替わった。
     白い煙幕の中、舞台に右膝と右の拳をつき、俯く。
    「『──光あるところに、闇あり』」
     幾度となく繰り返した口上を述べる。先代ニンジャジャンは、石垣を模した背景の最上段に佇み、こちらを見下ろしている。
    「『──栄華の影には忍びあり』」
     静かなその佇まいにすら、威圧感がある。さすがに、レジェンドと呼ばれるだけのことはありそうだった。
    「『師匠。──あなたから継いだ正義の炎、今一度ご照覧あれ!』」
     言い放ち、忍刀の鞘を払う。同時にロック調のBGMが大きく響いた。先代も刀を抜き放ち、飛び降りる。重力を乗せた一撃を受け流し、一合を打ち合う。瞬間、歌声が重なる。いつもの主題歌ではない、ミカグラの伝統楽器である三味線と笛を使ったメロディに激しく疾走感のあるボーカルが絡み合い、戦闘の盛り上がりを後押しする。
     知らない曲だったが、何故か聞き覚えがある。モクマはインカムに入らないよう、メロディを口ずさんだ。歌詞はわからない。だが、知らないはずのそのメロディは、どうしてか唄うことが出来た。その歌が、ルークが好きな劇場版のクライマックスで流れる映画オリジナルの主題歌だったことを、モクマは後にルークと配信の上映会をした時にルークから聞いて思い出すことになる。
     先代ニンジャジャンが、拳を思い切り引いたのが見えた。
    「!」
     モクマは目を見張った。反射的に両腕を胸の前で交差し、叩きつけられた拳の一撃を止める。骨にまでびりびりと伝わる衝撃の重さだった。
     武器はある程度打ち合える想定の強度ではあるものの、あくまでも芝居の小道具なので、本気で戦えばすぐ故障してしまう。実際に斬り結ばなくともどれだけ迫力を出せるかが演者の腕の見せ所であるのだが、今の先代ニンジャジャンが繰り出してくる拳や蹴りは、的確にモクマの急所を狙っていた。稽古の時の打ち込みよりも、本番の病院での殺陣よりも数倍速い。 
     凌いだと思っても、続けざまに蹴りが飛んでくる。避けたと思えば蹴りは空中で軌道を変え、予想だにしない方向からモクマの死角を狙う。
    「っ!」
     モクマは蹴りを忍刀で受けるふりをしながら腕で弾き、数歩後ずさった。先代ニンジャジャンは逆手で刀を構えている。呼吸もままならない重いスーツで激しい殺陣を繰り広げているのは同じ条件のはずなのに、緩やかに上下する切っ先がリズムを一切崩さないのが不気味だった。
    (別人、……いや)
     不穏にざわめき始めた感情を吐き出すように、モクマは腹の底から息を吐く。冷静さを取り戻し、刀の柄を握り直した。
    (本気を出しただけだね)
     今すべきことを脳裏に描きながら、モクマはステージを蹴った。足場にできる強度の壁は把握している。先代の真横の壁を蹴って宙返りし、後ろに回り込む。空中で思い切り体を捻り、自身の身体で一瞬の死角を作ったモクマの手から苦無が矢のように放たれる。先代は振り向きもせずに苦無を的確に叩き落とした。だが、スピードはモクマの方が勝っている。振り向きざまに斬りつけてきた刀を思い切り伏せて避け、低い姿勢の回し蹴りで先代の足元を薙ぎ払う。影のようにニンジャジャンの衣装に付き従う砂色の首巻きが、弧を描いて翻った。









     モクマは小首を傾げた。ほろ酔いでよく回る舌のまま、機嫌よく続ける。

    「──あの時のお前さん、どんな気持ちだったの?」




    Tap to full screen .Repost is prohibited
    ☺☺☺💴💴💴💴💴💴💴💴💴💴💴💴💴💴
    Let's send reactions!
    Replies from the creator

    odgr

    SPOILERチェズルク版ワンドロワンライ第38回提出作品です。お題は台詞お題の「逃がしませんよ」で。
    暮らドメバレ、チェとルで某スタイリッシュな軟体動物たちでインクを塗り合うシューティングアクションで遊ぶ話です。今回はチェズルクっていうかチェ+ルというか……チェはハイ〇ラントの面白さに気づいたら大変なことになると思う。
    「やばっ」
     現実でルークが発した声に、画面の中の小さな悲鳴が重なる。
     まっすぐに飛んできた弾丸に貫かれ、携帯ゲーム機に映っていたキャラクターが弾け飛び、明るいパープルのインクがステージに四散した。
    「フフフ……。逃がしませんよ、ボス」
     リビングのテレビの画面では、楽しそうに笑うチェズレイが操るキャラクターが大型の狙撃銃を構えている。スナイパー役のチェズレイが睨みを効かせている間に、テーマパークを模したステージがチェズレイのチームカラーにどんどん塗り替えられていく。スタート地点である自陣に戻され、ルークは焦りと感嘆とを長い溜息に変えて唸った。
     夕食後、ルークがリビングで一息ついていた時、そわそわとした様子のチェズレイにゲームに誘われた。一週間ほど前にルークがチェズレイの前でやってみせたゲームをルークの不在時に練習したので、一緒にやって欲しいという。海生軟体動物と人型を自由に切り替えられるキャラクターを駆使して広大なステージ中を駆け回り、カラフルなインクを射出する様々な種類の武器を用いて、ステージのフロアをチームカラーで侵食しあい陣取り合戦をするその対戦アクションゲームを気に入ったようで、仲間たちと同時プレイが出来るように携帯ゲーム機本体とソフトまで買ってきたという気合いの入れようだった。携帯ハードの方は既にルークの自宅のWi-Fiにも接続してあり、インターネットを介した同時プレイの準備も万端だった。
    2890

    odgr

    SPOILER2014.4.14開催、ウィリアムズ親子オンリーイベント「My Shining Blue star」での無配ペーパーでした。雨で外に出られない休みの日、父さんの身の上話したり『父さんの父さん』の話をしたりする親子の話です。実際こういうシーンがあったら、父さんは『ヒーローを目指すきっかけになった人』みたいな感じで己の父親像を語ってくれそうな気もしつつ。市民を守って殉職した警官だった、みたいな…………
    水底の日 雨樋からひっきりなしに流れ落ちる水が、排水溝に飲み込まれていく。
     あまりにも量が多すぎて溢れそうになっているのか、空気を含んだ水が排水管の上で波を立て、とぷとぷという音がしている。まるでプールに潜っている時に聞くような音に、ルークが唇を尖らせた。
    「午後だけど、全然止まないね……」
     カーテンを開けて確かめるまでもない土砂降りの音に、ルークは八つ当たりのようにソファのクッションに背中から重さを預ける。雷こそ鳴っていないが、春の空は昼前ごろからずっと厚い雨雲に覆われていて暗い。それがまた、憂鬱に拍車をかける。
    「久々の父さんの休みだったのに」
    「まあな。だが、外に行けなかったのは残念だが、こんな風に家でのんびり過ごすのもいいもんだぞ」
    3051

    odgr

    SPOILER4/14発行になるっぽいです。ほんとか。
    マジェ昼の部捜査前の12月、クリスマスチャリティーヒーローショーに出演が決まったことをきっかけに、『演じる』『ヒーロー』というあたりのキーワードからウィリアムズ親子を考えるモクマさんの話です。モクルクです。
    マジェMカのバレとトンチキネームのモブがそこそこ出ます。実在の団体や個人とは一切関係ありません。
    アクターズ・エンパシー 月がきれいに見える部屋は、朝の光もよく入る。
     つまり自ずと目覚めが早くなることにモクマが気づいたのは、そのゲストルームを選んで借りた翌日の朝だった。正確には自分で選んだというわけではなく、広さと個別の洗面室がある方のゲストルームを気に入ったチェズレイが真っ先に部屋を選び、アーロンはアーロンで「詐欺師の近くでさえなくばどこでも良い」というものだから、モクマはアーロンが使わなさそうな方に決めたのだ。部屋は適度な狭さで、その割には窓が大きく、ひとりで過ごす時間も大切にしたいモクマとしては都合が良かった。多少朝が早くなるとしても、気の置けない仲間たちと過ごす時間が増えると思えば、十分にお釣りが来る。
     このゲストルームの窓から、緑の庭木と生け垣が茂る庭が見えるのも良かった。ウィリアムズ家の庭は、父母と子供がひとりかふたりいるような家庭の邸宅と考えるとちょうど良い広さだった。『ちょうど良い』というのはこの家全体に言える感覚で、本来ならば家の主となる夫婦の部屋、子供のための部屋、家族の時間を共有するリビング、ふたり以上での作業が快適に行える動線を想定したキッチン、窓から光が入り清潔感がある広い洗面室とバスルーム、それから、時に大事な友人を招いて快適に過ごしてもらうための部屋──チェズレイに言われて初めて気がついたが、成程ここは、理想と信念を抱いて働くエリート国家公務員の男が、家族と過ごすありふれた幸せを望んで買い求めた『設定』にひどく相応しい造りだった。
    20873

    related works