そのバーの片隅には、ピアノを弾く女がいた。
秋口の乾いた風がちりりと頬を刺す夜、酒の一杯でも飲まねばどうにも落ち着く気がしないほど、珍しく心がささくれていた日の仕事帰りだった。たまたま夜風に揺れた古い看板が目について、ここで良いかとジェイスンは半ば自棄気味にとある店のドアベルを揺らした。
古びた分厚いチークの扉の印象に違わぬ落ち着いたジャズバーだった。店の奥、小さなステージの片隅に置かれたピアノは年代物でよく手入れされているのが判る。目についた瓶の銘柄を適当にオーダーし、ジェイスンは飲み慣れない自棄酒のグラスを呷った。命令口調で二杯目をバーテンに用意させ、あっという間に空になったグラスの中で氷がからりと音を立てた時、ふと、ピアノの音色が薄暗い店の空気に染み透った。
スツールにかけたまま肩越しに振り向けば、背後のステージで金髪の女がピアノを弾いていた。入店時に姿を見た覚えがない。杯を傾けている間にいつのまにか現れて、チェアを引く音すら立てずピアノの前に座ったらしい。
音楽を奏でるためだけにいる幽霊のような女だった。線の細い身体を喪服にさえ似た黒いロングドレスで包んだ女はそれなりの美形でありながら、どこか気味が悪い。陰気で影の薄いピアニストの居住まいにジェイスンは眉を顰めたが、鍵盤の上を白い指が滑るたび、一気に回ったはずのジェイスンの酔いは急速に醒めていった。
緩やかなテンポで奏でられるプレリュードは、西方の著名な作曲家の手になるものだっただろうか。優しく穏やかな印象の旋律に、奏者の感情と解釈がよく籠められた演奏だった。グラスの氷を眺めながら旋律に耳を傾けるうちに、澄みきった最後の一音が響いた。もう一曲弾くのだろうかと思って振り向けば、そこにはもう女はいなかった。
それから数日、ジェイスンは仕事帰りに何かに引き寄せられるように、気づけばその店の前に佇んでいることがあった。女はジェイスンの入店時にはいた試しがなく、いたとしても気づけばステージにいて黙って一曲だけを弾き、いつのまにか霧が薄らぐように姿を消すことがほとんどだった。ジェイスンのグラスが何度空になっても、一度も現れない日も多かった。
演奏の予定をバーテンダーに詰問したこともあったが、バーテンダーも雇われ者の身のためか、驚いたことにピアニストやシンガーのスケジュールを把握していないのだという。きな臭さを感じ、身分を明かしてやや高圧的に問い詰めてみれば、才能はあるが運がなかったり脛に傷を持つアーティストたちにこのバーのオーナーが声をかけてチャンスを与えている、というような内容をバーテンダーは渋々口にした。
その情報で、ようやく腑に落ちた。件のピアニストは陰のある静かな風貌に違わず演奏が繊細で、それでいながら心の内に秘めているのだろう豊かで強い感情が音色から染み出していて、聞くものの心に波のように触れては去っていく。表舞台に出られないことには、何か理由があったのだろう。
卓越した技巧に裏打ちされたその演奏は、聞いているだけで母の腕に包み込まれるような安息を感じるようでも、油断すれば嵐にも似た激情に心を暴かれるようでもあり、不思議な印象だった。ここ最近の演奏は、初めて聞いた時よりそれが特に顕著になっていた。その美貌も相俟って、奏者に深く共感したくなるような、何者にも侵されない孤高の人であるような、ゆえに引きずり下ろして踏みにじりたくなるような──
ジェイスンはグラスの底をカウンターに叩きつけそうになった。
寸でのところで衝動に耐えたが、ジェイスンの手はクリスタルを砕きかねないほど強くグラスを握り締めていた。自分の中に間違いなく掻き立てられた悍しい感情に、反吐が出そうだった。ピアノの音色に誘発されたその相反する感覚に覚えがあることにも、腸が煮え繰り返りそうだった。
善しとする捜査方針の決定的な差によって、袂を分かった同僚。誇り高くも腐敗しきったこの組織の中にいながら穢れなく、ひとりきりでも自らの信念を貫こうとする男。この女が奏でるピアノの音色を聞いていると、もう一月以上まともに話もしていないその男の顔がどうしてか妙に脳裏にちらついた。
ジェイスンは苛立ちとともに席を立った。上着を手に取り、珍しいほど乱暴な所作で袖を通す。その間も女のピアノには微塵の動揺すらなく、いつも通りに冷静に、何事もなかったかのように曲の終わりを迎えていた。
余韻とともに、和音を押さえた女の指が鍵盤から離れた。今までジェイスンどころかこの店の誰のことも一顧だにしなかった孤高のピアニストが、はじめてジェイスンを振り向いた。身支度を整え、あとは店を出るばかりであったはずのジェイスンの動きが止まったのは、そのせいだったかも知れない。
女がこちらを見ている。深いアメシストの瞳に射貫かれたように動けないでいるジェイスンへ、女が口を開いた。
「私の演奏が、貴方を不快にさせていましたか」
「……何だと?」
ジェイスンは女を見た。不躾な問いに図星を指されて思わず飲み込んだ唾が、やけに渇いてべたついた喉を流れていった。
柔らかに問われたその声は、まるでそれ自体が楽器の音色であるかのように澄みきって美しかった。詫びるというよりむしろジェイスンの苛立ちを確認する問いかけに、毒気を抜かれた気分でいると、チェアにかけたままの女が嫋やかに微笑んだ。
「音色に表れた情感は、ある種の人間を癒し、ある種の人間の心を乱す……『私の音』は、そういうものであったようなのです。どうやら私は、そう在れた」
言われた意味が判らなかった。
しかし言い返すこともないまま、ジェイスンは財布から数枚の紙幣をチップ代わりにカウンターに叩き付けると、無言でステージを背にして店を出た。チークの扉の向こうには、この時期では何も珍しくない雪が夜のエリントンにちらついていた。一度大きく白い息を吐き、閉じた扉に背を向けたジェイスンがその店のドアベルを鳴らすことは二度となかった。
ジェイスンが店を出てから、わずか数分で日付が変わった。エドワード・ウィリアムズ急死の報が届く聖夜の、ちょうど一ヶ月前の日のことだった。