Black Velvet1、霞ヶ関 中央合同庁舎 某会議室
「ライ。本名、国籍、出身不明。年齢二十代後半から三十代。ブルネットの長髪、グリーンアイズ。左利き。話せる言語は確認できただけで英語、日本語、中国語、スペイン語にフランス語」
「東洋の血が入っているのに間違いはなさそうだが…緑の目とは珍しい。コンタクトか?」
スライドに映し出された画素の荒い資料写真。遠目に写った男は黒いロングコートに大きなバッグを背負っている。スナイパーライフルだ。表情までは分からないが只者ではないオーラを放っている。
会議室には限られた人間だけ。降谷が黒の組織に潜入するプロジェクトは、当然のことながら極秘中の極秘だ。公安、しかも精鋭部隊のゼロに配属となれば潜入捜査は当然こなさなければならない職務だったが世界を股にかけた巨大犯罪組織に全くの新人をというのは異例中の異例で、上層部の反対もそれなりのものだった。一部署どころか警察組織の威信をかけた大博打。しかしそんなプレッシャーも、降谷にとっては楽しめる程度の心地良いものでしかない。
「主に使用しているのはL96A1、立射も可能。最高到達距離は1334ヤードとのこと」
「1300…?ありえない、何かの間違いでは」
管理官が資料を読み上げるのに、別の捜査員が声を上げた。降谷の青い眼はそのまままっすぐ、スライドの中の男を見つめ続けている。手強い相手がいればいるほど発奮できる。そいつらを倒すことで得られるガソリンは、降谷を強く速く走らせてくれるだろう。
「組織には他にキャンティ、コルンというスナイパーもいる。腕は悪くないがこのライには遠く及ばない。ジンやベルモットなどネームドは曲者揃いだがライはまた違う個性を持っているように見えるな。情報屋として潜入するならスナイパーと組むこともあるだろう。降谷、十分に用心した上で奴を探るんだ」
「勿論です」
警察学校を首席で卒業したばかりの若者は、ふた回りも歳上の上司を前にしても微動だにしなかった。それどころかこの状況を楽しんでさえいるような笑みを、そのベビーフェイスに滲ませる。
「前例の無い潜入捜査なのは重々承知です。ご安心ください、僕は諸先輩方の期待に応えて見せますよ」
その不敵さに、精鋭揃いの上官たちさえ末恐ろしい奴だと苦笑するしかできなかった。
2、東都某所
降谷が『バーボン』というコードネームを拝命するまでそう時間はかからなかった。No.2のラムのお気に入りという噂でネームドの中でも特別視されているベルモット──大女優のクリス・ヴィンヤードに目をかけられたからだ。
「こういう華やかな子って組織には珍しいじゃない?私と組んだ方が効果的だわ」
ベルモットは社会的地位のあるターゲット、いわゆるセレブ担当だ。その美貌や知名度を考えれば当然の役割だったが、降谷の何をもって『相乗効果』などと言い出したのかはよくわからない。褐色肌にブロンドブルーアイは確かに目立つだろうが、そこまで稀少な外見というわけでも無かろうにベルモットの読み通りターゲット、特に目上の男性陣にバーボンは気に入られた。
「やあやあ、綺麗な子を連れているじゃないか。クリス」
「バーボン?甘くてスパイシー…君にぴったりの名だ」
政府高官や一流企業の重役たちはバーボンが微笑んでも冷たくしても、「どちらも魅力的だ」ともてはやした。
スパイ活動の中で『色』を使うのは基本中の基本だが、まさか自分にもこういう形で回ってくるとは思わなかった。降谷は細心の注意を払いながら、ターゲットと組織員たちを欺き続けなければならない。ぐったり疲弊するのは当然だった。もちろんコードネーム未満の構成員たちはそんなバーボンを良く思わない。「大女優さまのお稚児さん」「お偉いさん方に悦ばれるテクがあるんだな」などと卑しい揶揄いを受けるのは予想の範囲内だったが、「俺の相手もしてくれよ」などと絡まれるのにはウンザリした。
(殴って黙らせてもコイツは問題ないランクの組織員か…)
そんな風に冷めた眼で値踏みしていると、相手はますます調子に乗ってベタベタと触れてくる。多国籍なメンバーで構成されているといっても九割方はこうした与太者、チンピラに毛が生えた奴が多数なのは潜入してすぐに判明している。だからこそ組織の全貌や、真に何を目的としているのか輪郭がぼやけてはっきりしないのだ。これは長期戦になるぞと胸の奥で溜息をついていると、組織員が「オイ聞いてんのかバーボンちゃんよう?」と苛立った様子でバーボンのループタイを引っ張ってきた。ぼんやりしていたのは事実なので思わず体勢を崩しそうになると、強い力で反対側──後ろにグッと引き寄せられた。胸元に回っているのはがっしりとした腕。レザージャケットから立ち上る火薬とタバコの禍々しい匂い。降谷の全身にビリッと何かが走った。
「俺のだ」
低いのに甘い──ブラックチョコレートのような声色。その場の温度が一瞬で数度下がったように、組織員の男はもちろんバーボンも動けなくなる。前に回った手はバーボンの肩を掴んでいた。すらりと長く、節のかたちまで完璧に美しい指。ふわりとした吐息が金色の髪を揺らす。まるで時間が止まってしまったような静寂。心臓の音だけがドクドクと、降谷の全身に響いている。男はゆっくりと、確認するように「…だろう?」と続けた。右耳のすぐそば、バーボンにだけ聴こえるくらいの小さな囁きで。
「こ…怖い顔すんなよライ、冗談だって!」
男がそそくさと逃げて行くのにハッとして、やっと降谷の思考が戻ってきた。振り向いて確認するまでもない。こいつがライ──組織どころか世界でも類を見ないほどの実力を持った、恐るべきスナイパー。
声だけで圧倒されてしまった事実に悔しくなり、さらにまだ体を密着させられたままなのに気づいて降谷はバッ!と乱暴に男の手を振り解いた。
振り向いた先では夜の化身のように真っ黒で大きな男が、真っ直ぐにバーボンを見下ろしていた。とんでもない威圧感。緑色の眼はスライド写真で見るよりもずっと、深く複雑な色味をしている。危険信号だ──さっき自分の体に走ったのは。バーボンは返す言葉を失い、その場で見上げるしかできない。
そんなバーボンにフッ、と男は唇を緩めた。よほどの驚きざまだと可笑しくなったのだろう。
「そんなに毛を逆立てるな」
猫のような言い回しにカチンときて、さらに降谷は後ずさって男を睨み上げた。それでも男は振り払われた手をポケットに突っ込んだまま面白そうにこちらを見下ろしているだけ。
ありがとう、と礼を言うべきだ。もしくは「いつ僕があなたのものになったと?」と余裕たっぷりに微笑むか。あるいは他のオヤジたちにするように「ご褒美をあげなきゃね」と喜ばせてもいい。
けれどもどうしても言いたくなかった。すっかりとペースを狂わされている。側に居るだけでだ。これは良くない兆候だ。ボロを出す前にここを離れた方がいい。そう、冷たく一瞥して背を向けて──。無言のまま足を一歩踏み出した時だった。ライの薄い唇が開いたのは。
「俺はお前が、何者なのか知ってる」
短い言葉が、降谷の心臓を切り裂いた。跳ね上がる心拍数に、苦しくなる呼吸。表情筋は一切動いてないはずなのに、男は動揺を見逃さなかった。まるで子供にするように眼を細めてみせる。
「何て顔をしてる。気付いているのは俺だけだ…勘違いしているようだが、俺ほどの観察眼を持った人間はこの組織に二人と居ない。そう、お前を除いてな」
冷たい汗が背中を伝った。聞き間違いなどではない。このニュアンス──完全に、バーボンがNOCであることを言っている。どうして?会ったのはこれが初めてのはず、一番行動を共にしているベルモットにだって気づかれていないのに。降谷の脳はフル回転で打開策を探したが、ほんの数秒の持ち時間では不十分だった。
どうすればいい。何のことですか?とシラを切るべきか。しかしこの男に小手先の誤魔化しは通用しないだろう。一秒でも黙ってしまったのが運の尽き、もう取り返すことはできない。降谷は否定も肯定もせず、端的に聞き返した。
「……何が目的?」
バーボンを幹部に突き出せば、ライの立場は盤石になる。けれどそんなありきたりの予想はこの男の前に全く通用しなかった。ピリピリとした空気をものともせずに男はフッと笑う。
「取引のつもりか?俺はどこぞの下衆野朗じゃない」
どういう意味だ。バーボンは視線で、続きを促した。男がゆるりと首を動かすとスナイパーには似つかわしくない腰まである黒髪が揺れる。
「俺は物心ついてからずっと、退屈している。この組織にいるのは他にすることも無いからだ。お前が何者であろうと、退屈させないでいてくれるならお前の方につくさ」
「………」
何を言わんとしているのかわからずに降谷は眉を顰めた。
「俺を使えばいい。きっと役に立つ」
ブルーの瞳を思わず見開く。「何を…」と呟くのが精一杯だった。
「俺は情報屋じゃない。けれどもお前より長くこの組織にいるんだ、少しばかりは知ってることも多いだろうさ。組織が手を染めてきた仕事、息のかかった人物や企業。何より幹部たちがどんな奴らなのか…俺には何の興味もないことばかりだが、お前が知りたいと言うなら別だ」
男の淡々とした調子に反して、降谷の頭には混乱の嵐が吹き荒れていた。馬鹿な。こんな虫のいい話があるか?騙されるな降谷零。馬鹿にされているに違いない、ここで興味を惹かれる素振りでも見せれば一転──笑われるだけならまだいい、明日には自分の死体が東都湾に浮かぶかもしれないのだ。
「…意味がわからない。何を企んでる」
厳しく睨みつけるバーボンに、ライは不敵な笑みを浮かべたままだ。
「言っただろう、俺を退屈させないことが報酬だと。けれど…それだけでは信用できないと言うなら」
金か情報か、それとも──命か?再び降谷の全身に緊張が走った。
「髪を…そうだな、お前の髪に触らせてくれ。それだけでいい」
思わずぽかんと、口を開けてしまった。何かの聞き間違いか?いや確かに髪と言った。暗号や比喩でなければ──
唖然としているうちに大きな手が伸びてくる。避けることもできなかった。ふわりとひと房、耳横の毛を摘まれる。その柔らかさを指の腹で何度か確かめると、男は満足したように手を離した。
「取引成立だ」
そう呟き去っていく男の背を、降谷はその場に立ち尽くしながら見つめることしか出来なかった。
◇
交渉成立、のような雰囲気であの時は終わったけれども真に受けるほど降谷も馬鹿ではない。これが罠でないなどと誰が言えるだろう。一方で半分ほどは、あれは罠ではなくライの本心かもと思えた。いちいち小細工をするようにも、組織への忠誠心があるようにもライはとても見えなかったからだ。
「三十七階、北東の角部屋だ。見えるか」
『ああ』
もちろん公安の上層部にも言えるわけなどない。一度も組んだことのない男に正体?見破られるなんて、大失態もいいところだ。任務は即終了、ゼロからも追放されるだろう。降谷はひとりで、この事態に対処しなければならない。だからちょっとしたブラフを仕掛けて、ライの真意をはかることにした。
「ターゲットはボールルームでベルモットが引き留めている。データを盗み出すには十分な時間だが、秘書や警備員が戻ってくるかもしれない。その場合は援護を頼む。あくまでも威嚇だ、大事にはしたくない」
『…了解』
返事の前に微妙な間があったのは、「大事にしたくない」などと甘いことを言っているバーボンに対しての嘲笑だろうか。どう思われてもいい。お前が使えるかどうか判断する権利はこちら側にある。主導権を譲る気はない。
高級ホテルの最上階、バーボンがターゲットの客室で目当てのデータを自分の記憶媒体にコピーする間、ライを反対側のビル屋上で待機させていた。情報屋とスナイパーが組むにはよくある役割分担。しかしバーボンは予め、ターゲットの警護側にライの動きを密告しておいた。ターゲット側の信頼は得られるし、ライには何とでも誤魔化せばいい。そもそも罠を張っておきながらライがみすみすとやられるなどとはバーボンも思っていなかった。大きな矛盾ではあるが。
予想通りに、ライは仕事を無事終えたバーボンの前に現れた。タバコをふかしながら、悠々とライフルバッグを背負って。黒ずくめのいつものロングコート、裾が汚れている。泥かそれとも赤黒いそれは──血か。獲物を仕留めた直後の猛獣が放つ充足感──圧倒的勝者のオーラを漂わせる男に、降谷の背筋にも冷たい汗が流れる。後から聞くとターゲット側の警護員は三人、腕や脚の骨を折られ病院送りにされたそうだ。ゆっくりと煙を吐き出しながらライは微笑む。黒曜石のように冷たく鋭く──魅惑的な男だった。
「俺を試したな?フ…やはりお前は退屈させない男だ」
ライが怒るどころかさも愉快そうに眼を細めるのに、バーボンも覚悟を決めなければならなかった。
奴と共犯関係になるという覚悟を。
そこからのバーボンの快進撃は目を見張るものがあった。当然だ、ライという組織屈指のスナイパーをいいように使えるのだから。しかもライが秀でているのは狙撃能力だけでなく戦闘力、状況判断、人心掌握や暗号の解読まで──。あまりの多忙に自分がもう一人いればなあと誰しも願ったことはあるだろう。トリプルフェイスを使い分ける降谷も例外ではなかったが、ライはそれ以上の働きをしてくれた。専門分野の全く重ならないエキスパートが完璧なサポートをしてくれるのだ。しかも細かい説明や指示も不要、こんなうまい話があって良いのだろうか?
ライを信用しているわけでは決してない。『退屈させるな』という抽象的な動機でこちらに協力しているのだから、気が変わればすぐに降谷を切るだろう。しかしNOCであると知られた以上、後戻りは出来ないのだ。降谷に出来ることは最善を尽くし、この綱渡りのような状態を維持することだけ。
降谷は数少ない手がかりを元に、ライの素性をあらゆる人脈と方法を駆使して調べ上げたが孤児として組織に引き取られ才能を見出されてスナイパーとしての訓練を受けた、それ以上の新たな情報はほとんど出てこなかった。
ライと組むようになったバーボンを、ベルモットは意外にも歓迎した。
「あの猛犬を手懐けるなんてね…正直あなたがそこまで出来るとは思ってなかったわ」
スイートルームの一室、ライトのついたゴージャスなドレッサーに向かう大女優の背後に周りネックレスの金具を留めながらバーボンはため息を吐いた。
「嫌味ですか?残念ながらそんな馴れ合いの関係じゃありませんよ。ライだってすぐに気が変わるでしょう」
「まさか!感心してるのよ。あの黒い闘犬が何人の脚を折ったか教えてあげましょうか?敵味方関係なくよ。あなたの言うことだけは聞くようになったのなら、これほど良いことはないわ、ベイビーちゃん」
手懐けるといえば聞こえはいいが、こちらだって弱みを握られて脅迫されているのも同じだ。ベルモットは長い睫毛に丹念にマスカラを滑らせながら、降谷の苦々しい心中などお構いなしに続けた。
「あの男は一切誰の指図も受けなかった。私やジンも勝手に振る舞っているふうに見えるでしょうけど一応、組織のためという命題に沿っている。けれどライは別よ、あの男には育ててもらった恩や良心、思想がまるでない。飽きたとかつまらないとか常人には理解できない少しのきっかけで裏切るでしょうね。力を持っている分組織の脅威になり得る、諸刃の剣よ。あなたが抑止できるとなれば、組織はライごとあなたを重用するでしょう」
◇
組織で頭角を現すというのは、仕事が増えるのと同義だ。バーボンは毎日くたくたになるまで奔走することとなった。組織から与えられているセーフハウスは繁華街のど真ん中にあり、雑居ビルの一室を生活仕様に改装したまさに隠れ家と呼ぶに相応しい、広くて殺風景な空間だった。あちこち動くのに都合が良いとバーボンが拠点にしている部屋にいつの間にかライも居着くようになった。
同居、などと表現するほど一緒に居るわけではない。バーボンは朝早くから深夜まで部屋を空けているし、ライもどこで何をしているのか戻らない日もあった。それでもたまに二人がかち合った夜には、同じベッドで眠るようになった。バーボンの横たわっている隣に当然のようにライがドサリとその大きな体を沈めるからだ。
ベッドマットはひとつしかない上、お前は離れて寝ろなどと吠えかかる元気はバーボンに残っていない。
「もうちょっと静かに動いてくれません…せっかく寝かけてたのに」
組織の男の前で無防備に眠るなど本来あり得ないことだが、そうも言ってられないほど降谷は疲弊していた。昼夜問わない組織からの呼び出しに加え公安としての報告義務。ほんの少しでも体を休められるのなら、猛獣の巣でだって熟睡してやる。それに不思議なことに、ライはバーボンに危害を加えるようにはどうしても思えなかった。今もバーボンの文句を受け流し、突っ伏したブロンドの髪をさらさらと撫でている。細く柔らかく指から逃げる感触がライは言葉通りに気に入ったらしく、暇さえあればバーボンの髪に手を伸ばしていた。もう慣れたし面倒くさいので、したいようにさせておく。
「嫌になったらいつでも言え。お前をこき使って疲弊させるだけの不毛な組織なら、いつでもぶっ潰してやる」
「物騒なことを言うな。お前が言うと冗談に聞こえない」
ベルモットが言っていたことを思い出す。ライは諸刃の剣だ。組織に一撃を喰らわす銀の弾丸になりかねない──
そう、もしもライを警察側に取り込めればどれだけ強力な援軍になるだろう。しかしそれは上司に気が狂ったのかと言われかねない、リスクが高すぎる考えだった。降谷はそんな危険な夢想を、プルプルと小さく首を振ってどこかに追いやる。そして隣の男を髪の隙間から見上げた。
「何も珍しくはないでしょ…ブロンドなんて、今まで星の数ほど出会ったでしょうに」
顔もオーラも怖いが、ライは信じられないくらいに整った容姿をしていたし背も高く声も良い。優しいだけの男より危険な男に火傷させられたい、そんな願望を持つ女性にライほどの逸材は居ないだろう。ターゲットや一般人問わず、ライはその場にいる女性の視線を当たり前のように攫っていた。
自分で何気なく言った言葉に、拗ねているような響きが混じってしまってしまったことに気づき降谷は心の中で舌打ちする。ライは当然そんなバーボンの一瞬の揺れを逃さなかった。
「嫉妬か」
「ハァ!?」
バーボンがガバッと勢いよく身を起こしたのは、図星だったからだ。
「誰が誰に嫉妬するって言うんです、バカバカしい。あなたがどこで誰と遊んでいようと何の関心もありませんよ。むしろ安眠妨害されなくてほっとします」
言えば言うほど墓穴を掘ることになる。こういった会話に慣れていないのはもちろんだが、降谷はことライに対してはいつもの冷静さを欠いてしまうのだ。しかしライの表情に揶揄うような色は無く、きゃんきゃんと吠えるバーボンをまるで微笑ましいように見ている。
「お前に妬かれると気分が良いことに気づいた」
あまりにストレートな言いように、降谷も毒気を抜かれてしまう。だから妬いてないって、と言いたくても言葉が出てこない。バーボンの髪の感触を指先で楽しむライの瞳が、あまりにまっすぐだったから。
「俺は綺麗なものになど興味はなかった。人間を含め、この世の物質は元をただせば全て同じ。見え方によって違っているだけだ…でもお前の持っているものには何故か、心惹かれる」
懐かしいものを見ているように細められた深いグリーン。そこにはいつも全身を覆っている不穏なオーラも、女たちを虜にするセクシーさも見当たらない。獰猛な野生生物が警戒心を解いて寛いでいるような様子に、降谷もムキになってしまったのが恥ずかしくなる。
「明日も早いんだろう。もう邪魔はしない、眠れ」
ライはそう言ってバーボンの頭をひと撫ですると、大人しく背中を向けた。バーボンをゆっくりと寝かせるためかそれとも訓練しているせいなのか、呼吸音は一切聞こえてこない。生きているのか死んでいるのかわからないくらいだ。静寂に包まれた部屋の中で、降谷の心臓だけがいつまでもドクドクと音を立てていた。
3、東都湾岸・某倉庫内
「ウォッカ、例のあれはどうなった」
「首尾は上々ですぜ兄貴。機体の点検も終わらせてありやす。後はセキュリティを…」
にわかに信じがたいが、ネームドたちは不定期にこうして集まり情報交換をする。会社でいうところの全体ミーティングのようなものだ。犯罪者といっても所詮は組織に所属する身、縦社会なのも企業と同じ。こうして潜入してみて改めて、警察組織との共通点に気づく。個々の能力もさることながらチームワークも重要。そういう意味で信用できる相手かどうか常に眼を光らせているジンは真面目な性格だとも言える。
今日は湾岸地域の古びた倉庫内が集合場所だった。もちろん隠し撮りするわけにはいかないので、後から公安に報告するために場所や面子、会話の内容を余すところなく記憶しなければならない。積荷の木箱に囲まれた倉庫の一角で黒ずくめの男たちが密談しているさまは怪しいを通り越してまるで映画の撮影かのようで現実感がなかった。
「バーボン、ライの野朗はどうしたのさ。あいつが顔を出したことなんざ過去一度も無いけど、今回ばかりはあんたと一緒だからやって来ると踏んでたのに」
「どうして僕に聞くんです」
バーボンに話を振ったのは目元のタトゥーが特徴的な組織の女スナイパー、キャンティだ。気が強くベルモットとは犬猿の仲らしいが、その理由は知らない。聞き返したバーボンにキャンティの隣に座っているこれまたスナイパーのコルンがポツリと呟く。
「ライ、バーボン、なかよし」
冗談じゃ、と反論しかけた時だった。バン、と勢いよくドアが開く。その場の皆に緊張が走った。ウォッカは広げている資料を集めて隠し、ジンは懐から取り出した銃を構えている。
「なんだ、驚かせないでよ」
女諜報員、キールが息を吐く。真っ黒なシルエットがコツコツと靴音を鳴らしてまっすぐに歩いて来る。ライは当然のようにドカリと、バーボンの隣に腰を下ろした。狭い空間に割り込まれたものだから、バーボンは身を縮こませる羽目になるし半身がほぼほぼライと密着してしまう。問題なのは誰もがその光景を当たり前のように受け止めていて、突っ込んだりしないことだった。
「ライ、チューリッヒのヤマはあたいが頂くよ!どうせアンタ当分は日本から出やしないだろうから改めて言う必要もないけどさ」
向かいからそう声をかけたキャンティに視線をやるでもなく、ライは懐からタバコのパッケージを取り出した。
「ちょっと!ここ禁煙」
バーボンが目くじらを立てるとライはチラリとこちらを一瞥し、無表情のままタバコを元に戻した。
「ほら、バーボンの言うことだけは聞くじゃないさ」
キャッキャ、とキャンティの笑い声が倉庫に響く。しかしライを始め他のメンバーは心底そんなことはどうでもよさそうに、犯罪の打ち合わせに意識を戻していた。人間関係に関心が無い組織の特性がこんなに有難いと思ったことはない。
「あなたたち、本当にデキてるの?」
「デ」
「ライが国外の任務に対して首を縦に振らないのは、あなたにべったりだからって皆の共通認識よ」
キールことCIAの水無玲奈は降谷と同じ立場にある潜入捜査官だ。滅多に組むことはないが、たまに顔を合わせると組織の任務の打ち合わせの振りをしてお互いに持っている情報を交換し合う。当然彼女にも降谷の正体がバレていることは言えない。とんでもない失態だし、同じNOCとして危険に晒してしまう可能性だってあるからだ。
「趣味の悪い冗談だ。あいつは使えるから側に置いてるだけで」
「そうだとしても気をつけるのね。狙撃を含めた総合力でいうとあの男がこの組織のトップだわ。ネームドたちは荒削りで短気なところがある。ライにはそれが無い、戦闘目的に育成されたサイボーグよ」
水無の見立ては正しい。しかし降谷はどうしても、自分の隣で静かに眠る男をサイボーグとは思えなかった。確かに獰猛ではあるが、感情の無い人造人間にはとても思えない。近くで過ごしていればライが何を考えているのか手に取るように分かるからだ。暑い寒い眠い、面倒くさい、これは面倒くさくない等々…バーボンだけにそんな一面を見せるのは何故なのか、知りたいような知りたくないような。
「…あいつが、ライが本当にどこかの捜査官という証拠はないか?」
「だからあり得ないってば。本籍は米国にあるみたいだから洗いざらい調べたけど社会保障番号に口座や保険の記録…公的な記録は何もない。孤児という線で親兄弟のことも調べたけど分からなかったわね。組織が記録を消させてるんでしょう」
倉庫の裏手でひそひそと会話を続けるキールとバーボンに、不意に声がかけられる。
「バーボン、帰るぞ」
これには二人もビクリと飛び上がりそうになった。足音、気配が一切無かったからだ。
「はいはいライ、バーボンを引き留めて悪かったわ。じゃあ来週の件はベルモットにそう伝えておくわね」
キールは組織の打ち合わせですよとばかりに適当なことを言って、背を向けて去って行った。声をかけてきたライもとうに反対側に歩き始めている。
バーボンはまさしく正義の側と悪の側、その狭間にいる。しかし今は悪の方について行くしかないのだと、ライの背中を追って足を踏み出した。