パン工場に見学に行くテデ谷くんの話🧸🍞🥐🥖テデ井とテデ谷くんが共に暮らす森のログハウスに、招待状が届いたのは秋も深まってきたとある午後のことでした。伝書鳩が首に巻き付けたお手紙を開いて読むと、テデ谷くんの青いおめめがますます大きく見開かれました。ココアを入れていたテデ井はそれに気づき、マグカップ片手に近づいてきます。
「いい知らせか?テデ谷くん」
「ええ…ええ!すごいですよテデ井、どんぐり製パンって知ってますか?」
テデ谷くんのきらきらしたおめめとは対照的に、テデ井の緑のおめめがいたずらするように細められます。
「どんぐりなのかパンなのかどっちなのかな?」
「もう〜、テデ井ったら人間の世界にうといテデなんですから!どんぐり製パンはこの日本でとっぷしぇあを誇るパンの製造メーカーです!食パンのラインナップだけでも数種類、ロールパンなどのお食事パンにお惣菜パン、もちろんケーキのように甘い菓子パンまで、この国でどんぐり製パンのパンを食べて大きくならない大人はいないと言われるほどの…」
こういう時のテデ谷くんは水を得た魚のようにいきいきとしていて、テデ井は話の中身よりもそのかわいさで胸がいっぱいになってしまうのですがそんなことはおくびにも出さず「なるほど、すごいな」と相槌を打つだけに留めました。要するにテデ井はテデ谷くんが楽しそうであればなんでもいいのです。
「それで、そんな日本一の会社が君になんて?」
「わが社のパン工場を見学に来ませんか、ですって!なんて素敵なお誘いなんでしょう」
「ホォー」
「日にちは三日後の○時。明日もういちど伝書鳩さんを寄越すのでお返事を持たせてくださいですって!こんなお話を断るテデはいません、そうでしょうテデ井?」
「三日後といえば、○月○日…」
考えこむような仕草をしたテデ井に、テデ谷くんも頭の中で予定をぐるりと見渡しました。
「その日はテデBIの仲間が来日する日だから、俺は外せないな」
「ジョテデさんやキャメテデさんたちですね。それはお迎えに行ってあげないと」
黒のテデ組織を壊滅に追い込み日本で合同捜査本部を立ち上げていたテデ捜査官たちですが、残務処理におおかたの目処が立ったためアメリカやヨーロッパ、それぞれの母国に帰国したのでした。ちなみにテデ井はこちらに残り、テデ谷くんと一緒に残りのこまごまとした仕事を片付けています。それはかなりの特例措置でしたが、異論を唱える者などいません。運命のつがいテデを誰も引き離すことはできないのです。こうしてふたテデは東都の奥まった静かな場所に、スイートテデホームを構えたのでした。
それでも数ヶ月に一度は米国から何名かが来日し、状況を報告し合ったり新たな議題に共に向かうことになります。どんぐり製パンから指定された日にちはそれとバッティングしているのでした。
「ジョテデさんたちと日本チームが合流するのは次の日ですからね、仕事には支障はないでしょう。テデ井はつもる話もあるでしょうしそちらを優先してくださいね。大丈夫ですよ、僕ひとりで行ってきますから。お迎えの車を回しますので、それに乗っていただければ後は景色を楽しんでいるうちに、へいしゃに着きますって書いてあります」
何から何までありがたいですねえ、とテデ谷くんはニコニコ顔ですが、テデ井は怪訝そうにしています。
「誘拐かもしれないぞ。君をパンという甘い蜜で呼び出して」
「そんなばかな、テデ井ったら」
テデ谷くんが笑い飛ばすのに、テデ井はハァとため息をつきます。
「君は自分の価値をいまいち分かっていないんだ。あぶなっかしくてたまらない」
「なんですかそれ、僕を世間知らずみたいに。仮にもしっぽ出しで潜入捜査をやり遂げたふるやれいテデですよ」
テデ谷くんがぷくっと膨らませたほっぺは、それこそ焼き立てふわふわのロールパンのようでした。
「もちろんその通りさ。もしもそれを疑うやつがいたら、俺がテデクンドーで目つぶしをお見舞いしてやる」
「ふふっ、ぶっそうなテデですねえ」
一瞬いちゃいちゃとした空気が流れましたが、テデ井はそれでもなんだか納得しきれないといった顔をしています。テデ谷くんはまるで子テデでもなだめるように、優しい声をかけました。
「そんなに心配しなくても、会社を見学して少しお話して帰るだけですよ。半日もかからない、仕事よりずっと安全で簡単なはずです。なにがそんなに気になるんですか」
「黒のテデ組織の罠じゃないと、どうして言いきれる?悪いやつらが待ち構えていたら…」
あまりの飛躍に、テデ谷くんはおめめを見開いて呆れてしまいました。いくらなんでも妄想が過ぎる。
「そんな手の込んだことをしたりしますか?それこそ住所がわかってるのなら直接狙ってくるでしょう。それに黒のテデ組織員は末端まで捕まえて牢屋に入れたじゃないですか、他ならぬ僕とテデ井の手で」
「…それはそうだが…」
なおも不満そうな様子のテデ井に、さすがのテデ谷くんもイラッときて強めの語気でこの話を終わらせました。
「もう!とにかく僕はこの光栄なお申し出を断る気はありません!喜んで伺いますと返事を出しますし、これに関してテデ井は今後一切口を出さないでください、わかりましたね?」
「……」
テデ谷くんの剣幕に、テデ井はムスッとしたもののそれ以上何も言いませんでした。
その後のふたテデの間には微妙な空気が流れ、ふだんのように食後にはちみつ紅茶を飲みながらお喋りすることも、寝る前にブラッシングし合うこともなく、ぎごちないまま次の日を迎えたのでした。
どんぐり製パンの使いの伝書鳩さんに「イエス」のお返事を持たせた時も、テデ井はちらりと一瞥しただけで何も言わず、ふいと顔をそらすのです。テデ谷くんはますますかちんときて、そっちがその気なら僕だって、と塩対応してやることに決めました。
ふたテデとも強固な意思を持った、自立したテデです。むしろそうでないと捜査官などはつとまりませんし、こうなればもうお互い引っこみがつかなくなるのは明らかでした。
そうしてあっという間に○月○日──指定された日がやってきました。
「俺は先に出るよ。みなが着くのは10時の飛行機らしいから…」
「ええ、お気をつけて」
「……」
トレードマークのジャケットをはおり、そう振り向くテデ井を玄関先まで見送りながらテデ谷くんはぎごちないながらも声をかけました。冷戦中とはいえお見送りせずにいられるほど、テデ谷くんはひどいテデではありません。
そんなテデ谷くんに、テデ井も何か言いたげでしたが少しの躊躇のあと、モフ…とテデ谷くんの頭をひと撫でした後出て行きました。
(何かあれば、テデパシーで知らせるんだぞ。俺はすぐに飛んでゆく)
テデ井の緑のおめめはそう言っていました。どんなにテデ谷くんが頑なでも、テデ井の優しさは出会った時から変わりません。ライテデとバボテデとして敵同士と思い込んでいた頃でさえ、ミルクティーいろの毛並みに泥がつくのを気づかって、暗号の書かれた松ぼっくりをライテデが率先して探したりしていたのです。
ふう、とテデ谷くんがため息をつく暇もなくどんぐり製パンのお迎えの時間になり、りんごんとチャイムが鳴り響きました。
「こんにちは、テデ谷れい様。どんぐり製パンの者です。お迎えにあがりましたよ」
きっちりと運転手の服と帽子をかぶった初老の紳士が白い手袋をした手をこちらに向けて、ぴかぴかの車にいざないます。テデ井の懸念を知っているわけでもあるまいに、身分証もきちんと見せてくれました。
「はっ、はい!どうぞよろしくお願いします」
テデ谷くんはぺこりと折り目正しく挨拶をすると、促されるまま後部座席におさまりました。
「本社へは30分ほどで着きますからね、社をあげてテデ谷さまの到着を首を長くして待っているんですよ」
そんなふうに言われて、胸が高鳴らないはずありません。ふだん乗るテデ用ハイヤーは大きな犬の背につかまって風を切って走ることで、それはそれとして爽快なものですが人間用の車はぴかぴかの革シートにふかふかのテデ用クッション、まるで雲の上に座っているよう。黒塗りの車は制限速度をきっちりと守りながらもあっという間に森を抜け、窓の外に立ち並ぶビル群をビュンビュンと追い越してゆきます。
テデ井とのちいさな喧嘩もすっかり忘れ、テデ谷くんはわくわくと青いおめめを輝かせました。
ハイヤーがどんぐり製パンの大きな敷地に入り、立派な玄関先に横付けされるとわくわくは最高潮になりました。そこには十数人ものスーツを着た社員の人たちが、テデ谷くんを出迎えるためにずらりと並んでいたのです。
「ようこそいらっしゃいました、テデ谷さん」
驚き硬直するテデ谷くんを迎えたのは社長さんでした。以下、こちらが副社長、常務、専務…そばに控えている秘書の女性が腰を折ってテデ谷くんと目線を合わせ、紹介してくれます。
「あ、あの、このたびはご招待いただき…」
いくらテデ界で名を馳せたカリスマテデとはいえ、こんな多数の人間に囲まれることはあまりありません。普段はテデと人間の世界はくっきりと線引きされていて、それぞれの文化としきたりに沿って暮らしているからです。
失礼のないようにと背筋を正して挨拶をするテデ谷くんに、その姿をひと目見ようと集まった社員ギャラリーから「ほんものだわ」「なんてきりっとしてかわいい!」「みて、スーツからこんにちはしているあのおしっぽ!」ときゃあきゃあ声があがります。人間界の中でもテデ谷くんは圧倒的な人気者なのです。本人──いや本テデだけがそれを知らないのですが。
「いやいや、こちらこそわざわざお越し頂いて。長旅でお疲れなんじゃないですか。ぜひ後ほど出来立ての甘いパンを召し上がってください」
「えっ!そんな、車に乗っていただけなので全然疲れてなんか…そ、そうですか…?」
出来立ての甘いパン!その単語だけでテデ谷くんの頭の中がふかふかのパンでいっぱいになりました。なにしろこの大きな本社ビルは製パン工場も併設されていて、すでにパンのいい匂いがそこらじゅうに漂っているからです。
「ふふ、では早速わが社の製造ラインをご覧いただきましょうか」
社長さんに先導され、テデ谷くんはトテトテとその後をついて歩きました。体育館ほどもある製造室はガラス張りになっていて、二階の廊下から見下ろすことができるのです。真っ白な壁と床に並ぶ銀色の機械、その隙間から茶色の生地が見え隠れしています。白衣と帽子、マスクをした従業員たちが出来たパンを運んだり、いそいそと立ち働いています。秘書の女性が見やすいように、テデ谷くんを優しく抱え上げてくれました。
「工場はここを含めて全国に十ヶ所あります。こちらでは約30種類のパンを一日に2万個ほど製造しています」
「すごいですね…!」
「ほとんどの工程はオートメーション化されていますが、検品や機械の調整など人間にしか出来ない役割ももちろんたくさんあります。従業員は社にとって何にも代え難い宝物です…テデ谷さんにとってもそうだと思いますが」
「ええ、もちろんです」
テデ谷くんは部下たちの顔を思い浮かべ、力強く頷きました。いくらテデ谷くんの能力が高くとも、ひとりで悪い奴らをやっつけることなど不可能です。黒のテデ組織ぼくめつという偉業を成し遂げられたのはひとえに右腕であるかざテデを始め公安のみんなやテデB Iの捜査官たち──もちろんテデ井の力があってこそでした。
「……」
深い赤毛に緑の瞳、運命のつがいであるテデ井のことを思い出し、テデ谷くんは胸の中でため息をつきました。
どうしてこんなことになっちゃったんだろう。
日本一とも言われるどんぐり製パンの、工場を見学できるとなればたくさんのアイデアや刺激をもらえると思ったのです。そしてテデ井にもっと美味しいパンを作ってあげられる。だから大喜びでこのお話に飛びついたのに、仲たがいなどしていては本末転倒です。
(ぼくもきつく言いすぎちゃったかな…ううん、でもテデ井も聞く耳持たないから悪いんだ!罠なんかじゃなくこうして本物のご招待だったのに)
プルプルとちいさく頭を振るテデ谷くんに、「どうしました?」と秘書が声をかけてきます。
「いいえ、とっても興味深いです。こんな機会を与えていただき感謝しています」
「そう言っていただけて光栄です。さあ、次はおかずパンの製造ラインへ移動しましょう。テデ谷さんは何がお好みかな?ソーセージ入り、それともカレーパン?揚げたては格別ですよ」
「揚げたて…!」
またしてもテデ谷くんの瞳はこれ以上ないほどキラキラしました。そうしてたっぷりの時間をかけて、製造ライン見学は行われたのてす。
「いかがでしたか、パン作りの現場は」
「ええ、すごく楽しく、勉強になりました。何より出来立てのパンがあんなに美味しいなんて…!」
約束通り、揚げたてのカレーパンとこれまたオーブンから出したてのメロンパンを試食したテデ谷くんはあまりの美味しさにひっくり返りそうになりました。スーパーに並んでいるものも十分に美味しいのに、出来立てときたらまるで別物なのです!カレーパンは衣がカリカリの熱々、中のカレーのスパイシーな香りも引き立っているし、メロンパンもサクサクふわふわで口の中で溶けてしまうようでした。先ほど堪能したその味を思い出し、テデ谷くんはうっとりと呟きました。
「やはり出来立てには敵わないですねえ…」
「そうなんです、出来るだけ迅速に店頭に並べるように流通を見直したり袋詰めの技術の開発に力を入れてはいるのですが」
テデ谷さんに味わっていただけて良かった、と社長はニコニコと続けました。大きな応接室のソファにテデ谷くんはちょこんと収まっています。社長の両横には玄関で出迎えてくれたお偉いさんたちもずらりと並んでいました。
「テデ谷さん、ここからが本題なのですが」
「えっ」
社長が少し真面目な顔つきで身を乗り出したので、テデ谷くんはミルクを飲んでいる手をぴたりと止めました。
「実は、わが社でテデ谷さんのおててを模したおててパンを製造したいのです。そしてそれを全国の皆さんに味わっていただきたい。是非とも開発に加わってもらえないでしょうか」
あまりに突拍子もないお話に、テデ谷くんはぽかんとおくちを開けました。
「お、おてて…?確かにぼくの手のひらはパンのような色ですが…」
「テデ谷くんのおててといえば美味しそう、かわいいと人間たちの間で大人気です。SNSにはパンの写真とともにハッシュタグで『おててパン』とアップするのが大流行しているんですよ!」
「そ、そんな!?」
世にテデはたくさんいるとはいえ、手のひらが違う色になっていて、さらにそれが美味しそうなパンのようになっているテデは多くありません。自分の知らないところでそんなブームが起きていることもびっくりですし、どんぐり製パンのような日本を代表する会社からそんな申し出を受けるなんてとテデ谷くんの頭は混乱しました。
「わが社の理念はパンで人々を幸せにすること。パンで満たされるのはお腹だけじゃありません。疲れた時、辛いことがあった時にパンを頬張ればどんな年齢、どんなバックグラウンドを持っていてもその一瞬は笑顔になれる。テデ谷さんのおててパンでそれがもっと叶えられると思ったのです」
日本のみんながぼくのおててパンを、美味しいと言って頬張る。その幸せそうな笑顔を想像すると、テデ谷くんの心に熱いものが湧き上がってきます。この国ためにと警察官を目指したテデ谷くんですが、こんな方法でもみんなを幸せに出来るかもしれないのです。それは新鮮な驚きでした。
しかし同時に、テデ谷くんの脳裏に浮かんだのは甘くて優しい、あのテデの声でした。
──きみのおててはパンのようだな。こんがりとふかふかで…いい匂いもする。かわいい…
テデ谷くんのおててをもふもふの赤毛で包み、愛しそうに嬉しそうに見つめるテデ井。あんなにも優しく見つめられたり触れられたりすることなど生まれて初めてでした。テデ井はテデ谷くんのすべてを肯定して愛して、宝物のように扱ってくれるのです。テデ谷くん自身でさえ、そんなに価値があるのかわからないものすらも。
心許せるテデ友をみな亡くしたテデ谷くんにとって、こんなふうに大切に思われたり思ったりする日が来るなんてこと、テデ井とこうなるまで想像もしていませんでした。自分はずっと一人で生きていくものだと思っていたし、それでいいと思っていたのです。仕事さえあればそれでいいと──でもそんな頑ななテデ谷くんの心を溶かして、ふたテデで生きていくことの喜びを教えてくれた。
テデ谷くんの青い瞳に、じんわりと涙が浮かびました。それに気づいた大人たちはみんな驚き、そんなにも不躾なお願いだったのかと慌てふためきましたが、テデ谷くんの口から溢れたのは意外な言葉でした。
「あっ、あの…違うんですこれは、とっても嬉しいお話なのですが…」
いつも凛としたテデ谷くんの声が小さく震えています。人間たちは固唾を呑んで、次に続く言葉を根気よく待ちました。誰も急かしたりイラついたりなどしません。テデ谷くんの悲しみは、みんなの悲しみだからです。
ずいぶんと経った頃、おみみまで真っ赤にしたテデ谷くんがもじもじと、蚊の鳴くような声で言いました。
「ぼくのおててパンは、テデ井だけのものなので…」
バターン!と音がしたと思うと社長さん以下、重役の皆さんがその場に倒れているのです。秘書の女性も顔を抑えてうずくまっています。テデ谷くんは皆の反応に驚き、一瞬で涙も乾いてしまいました。
「あっ、あの、どうしたんですか皆さん」
そんなに変なことを口走ってしまったのかとテデ谷くんがきょろきょろするのに、ふらふらと立ち上がった社長さんが何とか口を開きました。
「失礼…ええ、ええそうでしょうとも…テデ谷さんのおてては大切な人だけのもの…そんな当たり前のことにも気づかず無礼な提案をしてしまったことを恥じているのです」
「えっ、いえ、そんな大げさな」
社長をはじめ、人間の皆さんの眼には一様に涙が浮かんでいます。あまりにもテデ谷くんが可愛くて健気で、愛おしくて思わずその気持ちが爆発してしまったのでした。テデ谷くんだけがきょとんとしたまま首を傾げていると、秘書のお姉さんが目尻に浮かんだ涙を拭いながらテデ谷くんに耳打ちしました。
「テデ谷さんのそのお気持ち、テデ井さんはご存知なのかしら?」
「い、いえ…改めて言ったことは…」
「お伝えしてあげたら、喜ぶと思いますよ」
お姉さんはテデ谷くんのもっとも近くにいたので、たまに心ここに在らずだったことで何かを悟っていたようです。さすがの観察眼だな、とテデ谷くんは彼女がテデだったなら公安にスカウトしたのにと少し残念に思いました。
◇
「今日はご足労ありがとうございました。お気持ちが変わったらいつでもご連絡くださいね。何年後でもかまいやしません。ああ、記念に握手していただいても?ぜひそのパンおててで…」
結局おててパン開発は保留となりましたが、そこは一流企業、やり手の社長さんはそう言ってテデ谷くんに名刺を渡し、おててをきゅっと握りしめました。社長さんが「ほぅ…柔らかい、これがパンおてて…」と感嘆の声を上げたので他のお偉いさんたちから「ずるいですよ社長!」「みんな我慢してたのに!」「テデハラです!」と非難が起きました。取締役たちがやいのやいのと騒いでいるのをよそに、「お土産にどうぞ」と大きな袋がテデ谷くんに渡されます。中にはどんぐり製パンの主力商品、おみみまで柔らかいふわふわ食パンに先ほど試食したメロンパン、クリームパンにジャムパン…それにまだ市場に出回っていない新商品など、パンが山盛り入っています。
「ぼく、こんなにも持ってかえれません」
テデ谷くんがそう眉を下げると、秘書のお姉さんは微笑みました。
「ご心配なく、来た時と同じようにお家まで送り届けさせていただきますからね。それに、頼もしい方がいらしてますよ。ロビーでお待ちです」
たのもしいかた?ぱちくりするテデ谷くんのおめめに入ってきたのは深い赤毛の──見間違えるはずなどありません、テデ谷くんが世界で一番愛してやまない、あのテデだったのです。
「テデ井っ…!」
気がつくとテデ谷くんは駆け出していました。立派な応接セットのソファに身を預けていたテデ井も駆け寄ってきたテデ谷くんに気づいてぴょんと床に降ります。そして腕の中に飛び込んできたミルクティー色の毛並みをモフッ…!と抱きしめました。テデ井はテデ谷くんがどんなに体当たりしたとてよろめいたりはしません。
「テデ井、お迎えに来てくれたんですか…ぼく、あんなに嫌な態度をとったのに…」
「それはこちらも同じだ。大人げなかった」
顔を見ていないのは数時間のはずなのに、ずいぶんと長い時間テデ井とお話していないような気がして、テデ谷くんはぐすんと鼻を鳴らしました。そんなテデ谷くんの毛並みを優しく撫でながら、テデ井は許しを乞うのです。
「君をあなどっているとか、みくだしているとかそんなんじゃ決してないんだ。君があまりに大切で、過保護になってしまうだけで…こんなおろかなテデだが、君は好きでいてくれるだろうか」
「…テデ井…」
あのハードボイルドの象徴のような、皆に恐れられていたテデ井が情けなくも眉を下げて、恥ずかしそうに耳まで赤くして──(赤毛だから他の人にはわかりにくいでしょうが、テデ谷くんには分かるのです)
「テデ井はおろかなんかじゃありません。優しくて勇気があって…ぼくに関してだけ心配症なところも、かわいいテデです」
「テデ谷くん…」
ふたテデがもう一度モフッ!と抱きしめ合うと、あたりに大きな拍手が鳴り響きました。びっくりして顔を上げれば吹き抜けになったロビーのそこかしこに社員たちが集まって、感涙しながら拍手をしているのです。
テデが抱き合っているさまは人間からするとあまりに可愛らしく尊い光景なのですが、当事者からしたら恥ずかしい以外の何でもありません。ふたテデはピャッ!と体を離し、その場を取り繕うように毛並みを整えたりしました。
「お、おいとましましょう」
「そうだな…おさわがせしてしまった」
来た時と同じようにハイヤーの後部座席に収まったテデ谷くんですが、朝とは違い隣にはテデ井が居るのです。お土産のパンも大量に!
「皆さんとってもいい人でした」
テデ井はテデB Iのもろもろの用事を終えた後、テデ谷くんを奪還すべく鼻息も荒くどんぐり製パンに乗り込んだものの、社員の皆さんたちに「テデ井さんだ!」「あの!?」と大歓迎を受けて拍子抜けしたと言います。
「どうやらそのようだな。疑って悪かった…さすが君の国を代表するパンメーカーだ」
ハイヤーの心地よい振動に揺られながら、テデ谷くんは今日あった色んなことを順番に思い返しました。
立派なパンの製造ライン、出来立てパンのこれ以上ないほどの美味しさ、そして…
『お伝えしてあげたら、喜びますよ』
自分の茶色いふかふかのおててを見つめながら、テデ谷くんは秘書のお姉さんが言った言葉を思い出していました。
「たくさんテデ井に話したいことがあるんです。そう、まず、ぼくのおててパンは…」
おわり