「今日で一ヶ月か」
隣で静かに本を読んでいたファウストがぽつりと呟いた。俺はその声に前の賢者さまが残してくれた賢者の書からゆっくりと顔を上げ、ファウストの横顔を見る。ゆっくりと瞬きをしてから、俺も彼に合わせるように小さな声で囁くようにそれを肯定した。それは聞こえている筈なのに、ファウストは次の言葉を中々紡ごうとしなかった。
俺はファウストが次になにを言うのかが気になって待つことにした。待ちながら、ゆっくりと彼のことを考え、思い出す。
魔法使いは言葉を大切にする。彼らは心を大切にするからこそ、自分の心を乗せて形にする言葉を人一倍気を遣って口にする。そんな魔法使いの中でも、俺の知る限りではファウストという魔法使いは律儀な人柄である、と言い切れる。出会って少し経った頃だろうか。東の国にある雨の街へ任務へ出た時に、ファウストと話したことを思い出す。記念日は大切にするのが当たり前だろう、と彼はなんて事ない様子で言っていたっけ。それがまさに、今、俺に向けられているんだと思った。
「君は本当に僕で良かったの?」
静かに本を閉じると、ファウストは言いにくそうにそう口にした。──こんな陰気な呪い屋と一緒にいてもつまらないだろう。そう言いながら視線を左へと移動させる。俺もそれを辿るように視線をファウストから移動させる。おそらく視線の先にあるのは締め切ったカーテンだ。その端からじんわりと太陽の光が滲んでいるのが見えた。それだけでは心許ないため、小さな蝋燭がひとつ、部屋を照らしている。
「俺は、ファウストといると楽しいですよ」
その返事にファウストはふん、と鼻を鳴らした。片手で眼鏡の両方の智を押さえて直す必要のない眼鏡の位置を整える。そんな仕草を見ながら俺は、照れ隠しだったらいいのにな、とぼんやりと考える。
「僕なんかと……君は変わっているな」
ファウストは手の中の本を静かに閉じた。その様子に俺の心臓はゆっくりと早くなっていく。もしかすると、今からファウストが俺とキスをするのかもしれない。ここへ来る前に歯を磨いたから大丈夫。ファウストのことだから、まさか身体を繋げることになるとは思えないけれど、念の為に湯浴みも済ませておいた。なにが起きても大丈夫なように。色々な期待を込めて、俺はファウストの綺麗な──今は暗がりと色の付いているサングラスのせいで分かりにくいけれど、綺麗だということはよく分かっている、ファウストの瞳を見つめる。
そう、こんなに俺がキスだのなんだのと期待するには訳があった。
ファウストと交際を始めて今日で一ヶ月。ファウストとまだ肉体関係は持っていないし、キスもしていない。それどころか、抱きしめられたり手を繋いだりだってできていなかった。
ファウストと恋仲になって一ヶ月が経っているのに、俺は恋人とそれらしきことは一切、なにもできていないのだった。
もちろん、俺は俺なりに行動に移そうとはしていたが、ファウストがさり気なさを装ってかわしてしまうため、未遂になってしまっているのである。
だからこそ、この一ヶ月の記念日は俺にとって重要な意味を持っていた。この日、なにもされなかったとしたら俺の中で日に日に大きくなっていく疑惑が確信へと変わることになる。それは「俺が賢者だから」ということだった。
俺がこの世界へ来たとき、魔法管理大臣がひそひそと話していたことを嫌でも思い出す。──賢者の魔法使いは賢者の言うことしかきかない──もしそれが俺の感情に左右されるのだとしたら、ファウストは可愛そうな犠牲者ということになる。俺がファウストのことを好きになったから、影響されたのかそれとも期待に応えなければならない義務感なのかは定かではないが、彼はその気もないのに俺に無理矢理付き合ってくれていることになる。
もし、今日なにも起きなかったら。俺はひとつのことを決めていた。
ファウストを解放しよう。
きっと俺が言っても、彼は口では抵抗するかもしれないけれど。ファウストが俺を喜ばせたいと思っているのは本心だとは思う。けれど、きっと俺たちはその方法を間違えているのだと思うから。彼を自由にして、俺はこの短い間ではあったけれど「ファウストの恋人」という称号を得られたことを時々思い出しては甘美な気持ちにひたるのが正解だということだ。
その時だった、ぐらりと視界が揺れる。はた、と名前を呼ぶ声のする方へ顔を向けると心配そうなファウストの顔が近い距離にあった。
「晶?」
もう一度、ダメ押しとばかりに俺の名を呼ぶ声はどこか心許ないようだった。突然名前を呼ばれたせいか、すぐ近くに彼の顔があるせいなのか定かではないけれど、とにかく耳のすぐ横にまで心臓が迫り上がってきたかのように心音がうるさくて仕方がない。なんだか顔の辺りもぽっぽっと熱くなっていく。取り繕うように俺が返事をすると、ファウストはレンズの奥の目を細めて心配そうに「大丈夫か」と問いかける。俺はなにも、と言いながら首を横に振る。上手に笑えていたかな。
ファウストの左手が俺の膝の上にある指先を緩く握りしめる。具合が悪いの、その声は酷く優しく俺を気遣う声だった。なのに、俺は場違いなことに頭を巡らせている。
手。ようやくファウストが手を取ってくれた。嬉しい。
思わず緩みそうになる頬の筋肉を意識する。
ファウストは薄らと唇を開くとその合間に右手の手袋の指先を挟み込み、軽く食むと手を引き抜いた。ぽと、と静かな音を立ててファウストの手袋が膝の上に落ちる。俺の熱い頬に彼の指先が触れる。ひんやりとしていて気持ちいい。思わず俺は彼の指に頬を擦り付ける。息を呑む音が聞こえた。俺のものではない。ファウストだ。ん、とファウストが喉の奥で小さく呻く。するりと指先が頬を伝って顎先へと滑っていく。顎下をくすぐるように撫でると親指が下唇を撫でる。それを合図にするように一層ファウストの顔が近くなる。経験のない俺でも分かった。ああ、とうとう俺はファウストとキスをするのだ。息のかかる距離まで近づいて、ファウストは戸惑うように目を泳がせる。二人だけの秘密を作るように、彼は聞こえないくらい小さなため息混じりの囁きで俺に問いかける。
キスをしても?
俺は返事の代わりに少しだけ身体を彼に寄せ、彼の唇に自分のものを重ね合わせた。
ふに、と想像以上の柔らかさを感じ取り、良かった、無事に出来たという安心感とぽかりと空いていた穴が一瞬にして彼への愛おしさで満たされていくようだった。