2021.11.06
尻尾を垂れるショコラを引き受けてくれるのを見送って、待合室のソファに座り込む。体毛は今も豊かだけれど、もう、ずいぶんやせ細ってしまった。離れている間にも順当に歳を重ねたショコラは、おばあさんと呼んでも差し支えない。あとどれほど、そばにいられるだろう。
大丈夫、ただの定期検診だ。健康状態を確かめる為の、早期発見、治療の為の。今日も、彼女はきっと家を恋しがって意気揚々と帰ってくる。怖がる必要はない。
「なに、落ち込んでるの」
ショコラに怯えるくせ、付き添いたがって脚を揺らしていた来主が首を傾げる。狭い待合室にいるのは、俺たち二人だけだ。ひらいたばかりのここも、知識と知恵をフル動員する受付兼看護師と獣医の二人で回しているから、視線を気にする必要もない。
「帰りを待ってるだけだよ」
「診てもらうのはショコラなのに。安心して待ってたらいいじゃない。きみたち、心でつながってるんだっけ?」
「俺じゃショコラの状態をはかれない。予測できないものは怖いだろ」
なるべく、静かに、言葉を紡ぐ。恐怖を伝える事は難しい。そればかりではない感情を、うまく伝えられる気がしない。
「甲洋があの子の憔悴を怯えているのはわかるよ。彼女を大切にしているのも」
右、左と交互に持ち上げていた脚が止まる。言葉を止めて、胸に手を当て、三度まばたきをしてから、俺を見る。彼に伝わっているらしい、俺が隠したがる感情を飲み下そうとするように。
「別の存在の死も、怖いものなの?」
「……ああ、怖いよ。時には自分を失う事よりも。触れられなくなるし、お前の好きな会話だってできなくなるんだから」
「彼女の言葉を、きみは再現できないのに?」
「同じ言語を扱うだけが、交流じゃないんだ」
「ふうん……」
また、退屈を紛らわせるように足首を上げる。三十分も過ぎていない。ショコラが戻るまでにはもう少し掛かるだろう。次に死に連なる言葉を投げ付けられたら、感情をぶつけてしまうかもしれない。
来主の言うように、彼女を失う事を恐れていた。終わりのない命など無いと理解しているけれど、別れは慣れるものじゃない。
「来主、退屈なら、先に帰っても……」
「僕ね、ちょっとだけ、ショコラのきもちがわかるようになったんだよ」
足先を遊ばせてぱた、ぱたと軽い音を立てながら、震える声で言う。まだ、思考の理解できない存在を忌避するのに、なにを言いたいんだと眉を顰めてしまうけれど、構わない様子で言葉を続ける。瞳を見ていられなくて、せめてもの抵抗にずらして唇を見つめる。
「あの子、何度か振り向いていたでしょう。甲洋が待っていてくれるのが、うれしいんだと思う」
実体験に基づく提示、らしい。迎えの俺に付いて歩いた、羽佐間先生に見送られる日も、立ち止まっては、玄関先や、上がった二階の窓に姿を見つけて「おかあさん!」とほころぶ声を上げていた。薄い雲の晴れ間から、澄んだ青空の覗く朝だった。
「ショコラのこと、よく出迎えてあげてたの?」
「いや……俺が迎えられる側だったよ。小さいころは、尻尾を千切れそうなくらいぶんぶん振ってさ……」
「大好きなんだね。きみもあの子も、お互いに」
そう、だろうか。そうならばいい。引き受けると言いながら狭いダンボールに押し込めて、夕飯をこっそり分け与える事しか知らなかった俺を、彼女なりに受け容れてくれているのならば。
……足を回して触れに来てくれた彼女の姿に偽りはない。そばにいられなかった間に厳しく、ショコラを想って躾けてくれた成果を身に宿しながら制御しきれずに駆け寄ってくれた彼女も、俺を好いてくれているならば、嬉しい。
「……ショコラはずっと、俺を待っていてくれたから。やっと自分が俺を待たせる番になって、安心してるんだろうな。何度もいなくなって、呆れさせただろうし」
「ええ? 本気で言ってるの?」
足音が止まる。彼の手元にまで落としてしまっていた視線を自覚して、もう一度目を合わせる。酷く呆れた物言いだったのに、どちらかと言えば悲しそうな表情だ。
「なにか、おかしいか?」
「おかしいって、いうか。彼女とおそろいのきもち、また見つけちゃった。きみ、ほっとけないや」
「なんだよ、人を子どもかなにかみたいに……」
「放っておけないと子ども扱いは、違うんでしょ。甲洋が言ったことじゃない」
「何が言いたいんだよ、さっきから……」
だいたい、話題がすり替わってやしないか。身構えた内容と全く異なるものをぶつけられるのも、戸惑う。
「だから、僕、ショコラのきもちに共感できるって言ったでしょ。おかあさんもきみも、僕を待っていてくれるのを知ってるから、安心して飛び出していけるんだよ」
「……俺も?」
「うん。たくさん声をくれて、僕が傷つくのをいやがってくれる。だからなるべく、痛くならないようにしたいなって思うの。おかあさんだけじゃ、なくて、きみも、僕を待っていてくれてるからだよ」
次の言葉が出なくて、息を吸う。吐く息が音になる前に三時を告げる鐘が鳴る。示し合わせるように扉が開いて、よく知る気配が脚にすりつく。
「春日井さん、来主くん。お待たせしました。ショコラちゃん、今日も元気でしたよ」
「あ……」
高い音を鳴らして呼吸を繰り返すショコラは、今回も退屈な時間だったと訴えるように脚の間に顔を埋めてくる。
尻尾の振り方は穏やかになったけれど、甘え方は子犬の頃から変わらない。なぞるように撫でれば、ならば耳をかけと首を傾げるのも。
「……ありがとうございました。今日も、お世話になりました」
「いいえ。まずは端末に通知してありますので、気掛かりがあれば、いつでもお問い合わせくださいね」
手探りで診療形態を組み立てる最中のここは、家族の元に帰してから残りの事務手続きに入る。ショコラを微笑みながら見つめて扉の向こうへ戻る彼を見送って、乗り上げたがる前足をすくい上げて額を合わせる。
彼女の呼吸が伝わる。触れる鼻先は湿っている。緊張と疲れを吹き飛ばして見えるくらいには、ここに戻る事を喜んでくれている。
「がんばったな。ありがとう」
「おかえりも言ってあげて。甲洋も、言ってもらうとうれしいでしょ」
「おかえり、ショコラ。一緒に帰ろうな」
喉を鳴らして、来主の方を向いたショコラに倣って来主を見る。五センチほど逃げているけれど、ショコラを見つめる瞳からは、楽園でけしかけてしまった日よりも怯えが少し薄れている。
「来主も、ショコラにおかえりって言ってくれよ。お前が待ってたのも、きっと喜んでるから」
「……そうかな。ショコラ、僕がおむかえするの、うれしい?」
立場が逆転したな。機嫌のいい彼女が来主に応える為に明るく一声鳴いても、恐る恐るの目をやめない。体重を預けてくるショコラを抱き上げれば、ソファの端をつけた壁際まで逃げてしまった。
「……おか、えり……ショコラ」
「ふっ、ははっ」
「なんでわらうの!!」
「ふは、だってさ、おまえ……あはは!」
緊張が抜けたら笑うだろう。怒るくせ、壁にますます張り付いてしまった来主があんまりおかしくて、獣医が声を掛けてくれるまで、ショコラを抱き締めたままひとしきり笑い続けてしまった。