2021.11.18
店舗に潜めた機器の一斉メンテナンスで、明日から三日ほど楽園を閉じる。来主を送り届けたら、初めと終わりにある立ち会い以外は自由時間だ。もう少し一緒にいろとまとわりつくのをなだめながらゆっくり歩いていたせいで、ようやく羽佐間邸にたどり着いた頃にはすっかり夕陽は沈みきっていた。ノックしようとする手に細い指が絡まる。そのまま三回戸を叩く。
「ねえ甲洋、今日、泊まっていきなよ。ショコラのごはんだって済ませたし、水も新しいのに換えてるし、ヒーターのタイマーもかけてあるしさ。あの子の朝ごはんだって、明日、早くに出れば間に合うじゃない。いいでしょ?」
「羽佐間先生に連絡してないからやめとく。ショコラを一人にさせたくないし。それに、親子水入らずの邪魔はしたくないんだって」
「またそうやって混ざろうとしない! いいじゃん、おかあさんの家に泊まってくれたら僕がよろこぶのに!」
「それ以外で埋め合わせるよ」
「僕の心が埋まらないの!」
帰ったら、まずは家を整えないと。明日は念入りにショコラのブラッシングをして、教わった料理の練習をして、それから釣りにでも出掛けようか。夜釣りに初挑戦してみるのもいいかもしれない。
「ねー、僕の話聞いてる!?」
「聞いてるよ。また今度な」
「今日がいいのー!! みんなでごはん食べたいの!!」
羽佐間先生の気配が近付いたら、腕にしがみ付いて離れようとしない来主を引き剥がそう。いつもそう決心しているのに、結局そのままを許してしまう。寂しい、を全身で表してくれる姿は悪くないと、思ってしまっているから。
隣の騒がしさに負けず劣らずの、ばたばたした足音が近付く。家主はなにかに慌てているらしい。
「ああ、よかった甲洋くん! 今から手は空いている?」
「えっ。あ、はい」
コートを羽織るのもそこそこに、羽佐間先生が扉を大開きにして飛び出してきた。この人がこんなにも取り乱す姿、日常じゃ初めて見た。
「よかった! これからアルヴィスに向かうのだけど、その間操のことをお願いしてもいいかしら……?」
「構いま、せんけど、なにかあったんですか? 俺も手伝える事なら一緒に……」
「いいえ、甲洋くんは休んでちょうだい……って、留守番をお願いしておいて言うことでもないんだけど……」
「おかあさん、でかけちゃうの? いつ帰ってくる?」
「そうねえ、どうせだったらきりの良いところまでやっちゃいたいから、明日になるかもしれないわ」
「今夜中には、帰れない?」
「多分、遅くなるし、そうなったらアルヴィスに泊まるつもりなのよ。寝ているのを起こしたくはないからね」
そっかあ、と寂しそうにする少年を優しく撫でる。親子の会話は口を挟む隙もない。来主にくっつかれているのを見られるのは初めてじゃないのに、妙な居心地の悪さを感じる。正確に言うならば気恥ずかしさというか。
「ショコラは帰りに連れて来るわ。預かりっぱなしの操用の合鍵、借りるわね」
「僕の部屋の引き出しに明日あげるねって約束したおやつ入れてあるから、それも持ってきてね」
「ええ。青色のパッケージよね?」
「うん。あたらしいやつ、開けるんだ」
いつの間にそんな取引を。しかも青色って、確か給料袋を抱えて買ってたやつだ。やっぱりこいつ、ショコラと仲良くなってるじゃないか。
「あの、でも俺、一晩お邪魔したら朝に帰りますよ」
恐る恐る間に入っても、目を合わせて話していた二人ともにどうして、の顔で見上げられて、やっぱり胸の奥がむずがゆい。
「せっかくだし、朝ごはんも一緒に食べましょうよ。おやすみも続くと言っていたし、操も喜ぶから。よければうちでゆっくりしていって」
「そーだよ! 担当の人も立ち会いはなくてもいいって言ってたんだし、家族五人でミズイラズしよう」
家族って……俺も?
羽佐間邸に泊まるのを避けているのは、家族の時間に入り込みたくないというのもあるけれど、来主と一晩キスのひとつもなく共に過ごすための覚悟というか、準備が必要になるからで。羽佐間先生は部外者の俺も優しく迎え入れてくれるけれど、そういう、人の家では抱き締め合うのも気が引けるから、なるべく泊まりは避けているんだけど。うまい言い訳も作れていないから、やっぱり不自然だろうか。
情けないから内緒にしていたいのに、気の抜ける会話を聞いていると明かしても平気なんじゃないかという気さえしてくる。絶対に言わないけど。
「ねえ、おかあさん、急がなくていいの?」
「ああ、そうね、そろそろ行きます。それじゃあ甲洋くん、あとをよろしくね」
「お気を付けて」
「ごはん、もう作ってあるから。足りなかったら、冷蔵庫の中身も使って。二人でたくさん食べてちょうだい、ね?」
「行ってらっしゃい、おかあさん。一人で帰りたくなかったら、僕が迎えに行くからね」
「ありがとう。行ってきます」
それじゃあねと手を振って直近の地下入り口へ駆けて行く彼女は、明日、本当にショコラを連れて帰るだろう。ここにいたくないわけじゃない。世話役という、共にいる言い訳をもらって安心したから、すぐに断れなかったのだし。
歓迎してくれるのは、嬉しいけれど。いいんだろうか、本当に。鍵を持ち歩きたがらない来主の為に開けっぱなしの扉をくぐっても迷いは晴れない。二人きりのいつもの普通が浮かばない。自制心ってどう使うんだっけ。
俺の葛藤を知らずか、靴を揃える為に一度離れた少年がまた、隙間をいやがるようにまたしがみつく。さみしさを抱いているのはかわいい。なにもできないところで張り付かれるのは困る。クーはもう眠ってしまっただろうか。
「さみしいなあ。甲洋と一緒に帰って来て良かった」
羽佐間先生の養子になってからは、いつも、彼女が来主を待ってくれていた。待つ側になるのは、そういえば初めてか。母親を待つ喪失感と、帰りを確信するがゆえの寂しさを感じられているならなによりだけど。
「夕飯と風呂、済ませたらすぐに寝ろよ。羽佐間先生、早朝に帰るだろうから」
「甲洋はどこで寝るつもり?」
「どこって、リビングのソファで……」
「え?」
次の言葉が予想できる。言われたら断れないのも。もう一つ扉を開けて、目当ての場所に漂う良い香りに目を向けないで、断られるなんて微塵も考えてない顔をする。
「一緒に寝るんだよ。僕のベッド、その為にちょっと大きいのにしてもらったんだから」
なんだそれは。
「あっ、やっぱり気づいてなかったんだ。広いところに寝たいのもあったけど、甲洋も窮屈じゃないように選んだんだよ。うれしい?」
うれしいですけども。家主不在だからって手なんか出せるわけないのに、なんで今。気持ちをどこに収めろっていうんだ。拷問か?
「ねっ、お風呂も一緒に入れるね。あたためておくから、僕のごはんよそっておいてね」
返事も聞かずに給湯器に向かう。今度は俺の腕が寂しい。自由時間がなくなったのはいい。メンテナンスの手順を知りたかったけど、横槍を入れずに専門家に任せられると考えれば、それも。
もう、抗ったって仕方ない。まずは手を洗おうと、切り替えるためにでかいため息をひとつ吐く。我ながら長く重くて、笑ってしまいそうだ。最初から泊まると決めて、ショコラも連れて来ればよかった。