かわいい弟子と「師匠〜!」
元気のいい声が洞窟まで響いてきた。その声の主はマトリフの愛弟子である。私はそっとマトリフを見た。マトリフは読んでいた本から顔を上げると、頬杖をついて不機嫌そうな顔を作った。
「なあ師匠〜いるか〜?」
「うるせえな。いることくらいわかってんだろ」
ポップは何冊もの分厚い魔導書を抱えて洞窟へと入ってきた。魔導書を机に置くと私に向かって人好きのする笑顔を向けてくる。私は小さく手を上げて応えた。
「助けてくれよ師匠〜。この呪文なんだけどさ」
「なんだよ……おめえ、またこんな古代呪文引っ張り出してきたのか……」
大魔道士二人は顔を寄せ合って一冊の魔導書を覗き込んでいる。ポップはパプニカの宮廷魔道士をしており、時折こうして魔導書片手にマトリフを訪ねてくる。ポップは古代呪文を研究しているらしく、マトリフに呪文の助言を求めにくるのだ。短くても数時間、長ければ数日間は二人でああでもないこうでもないと議論を交わす。マトリフは面倒臭いなどとぼやきながらも、この時間を楽しみにしていた。私は二人の邪魔をしないようにとそっと席を外した。
外はいい天気だった。私はマトリフの釣り道具を拝借して海に釣り糸を垂らす。もっともマトリフは体調のせいで最近は釣りをしなくなったから、この釣竿は私ばかりが使っていた。今日はポップのぶんの魚も釣ろう。きっと食事もここで食べていくだろうから。
水面に浮かぶ浮きは波に揺れるだけでピクリともしない。この辺りの海では釣りが難しいとマトリフが言っていた。大渦が近いから魚も近寄らないらしい。それでも釣り糸を垂らすのは、時間を潰すためと、精神を平静に保つためだった。
マトリフの交友関係は広くはない。わざわざこの洞窟まで訪ねてくるのはほんの一握りの人物だ。だがその数人をマトリフは大切にしていた。表面上は憎まれ口を叩いても、本心が言葉通りでないことは明らかだった。特に愛弟子であるポップに気をかけており、多少の無理をしてでも助けてやりたいようだ。
そのことに私は嫉妬している。それほどマトリフから思われることが羨ましかった。だがそんな感情を持つことは正しくないとわかっている。だから釣り糸を垂れて、どうにか感情をコントロールしようとしていた。
浮きは動かない。波は絶えることなく揺らいでいた。
どれくらいそうしていたか、遠くから名前を呼ばれた。見ればポップがこちらに歩いて来ていた。
「釣れたかい?」
「いいや。すまないが夕食は期待しないでくれ」
釣り糸を引き上げれば、餌の取れた針が見えた。針を掴んで餌を付け直す。ポップは珍しくもないだろうに私の手元を見ていた。
「問題は解決したかね?」
「いや。全然わかんねえから休憩してるとこ」
「マトリフは?」
「昼寝するってさ」
それからしばらく二人とも黙ったまま海を見ていた。浮きはちっとも動かない。やがて日が傾いてきた。
ポップはちらりとこちらを見ると、言葉を切り出した。
「あのさ、ガンガディアのおっさんっておれのこと嫌い?」
「……何を突然に……そんなことはないが」
「じゃあいいんだけどさ。避けられてんのかと思ったから」
ポップはニッと笑ってみせた。その笑顔がどうにも眩しく見えて、逃げるように眼鏡に指をやった。
「なぜそんなことを」
「だっておれがここに来るとすぐにどっか行くだろ」
「それは……君とマトリフの邪魔をしないようにと」
「えー、そんなこと考えてたのかよ。全然邪魔じゃねえし。むしろ師匠が気にしてたぜ?」
「マトリフが?」
「これどう思うってあんたに喋りかけてたぜ。ガンガディアのおっさんならさっき出てったっておれが言ったら、なんかぶつぶつ文句言ってた」
「機嫌を損ねてしまっただろうか」
「機嫌っていうかさ、ほら、師匠ってガンガディアのおっさんのこと大好きじゃん?」
ポップがなんでもない事のように言うから脳が理解できなかった。ポップに向き直って聞き返す。
「大好き……誰が誰を?」
「マトリフ師匠が、ガンガディアのおっさんを」
「なぜそう思うのかね」
「なぜって、見てりゃわかるって」
ポップは呆れたように私の膝をぺちぺちと叩いた。ポップがなぜそんな事を言うのか私にはわからない。
「さっきもさ、ガンガディアはガンガディアはって何度も言うんだぜ。おれ途中から照れちゃってさ」
「マトリフが?」
「ガンガディアのおっさんって愛されてんなーって思ってさ」
私は混乱していた。マトリフからの愛を疑った事はない。だが自分にそれほどの感情が向けられているとは思っていなかった。
「あ、引いてる」
浮きが沈んでいた。慌てて竿を引く。確かな手応えを感じた。
その日の夕食は豪勢だった。釣った魚は大変に大きく、三人で食べても満腹になるくらいだった。私はそっとマトリフを見る。マトリフは嬉しそうに魚を頬張っていた。