空に君を想う 平和が訪れた。その功労者である勇者がひっそりと訪れたのは魔王軍との最終決戦の地だった。
あの戦いで魔王軍は勇者たちを待ち構えていた。地底魔城のその周囲を埋め尽くすほどの魔物たちを一手に引き受けたのはマトリフだった。その魔王軍の先頭にいたデストロールをアバンは覚えている。そこからどんな戦闘になったのかは、先に進んだアバンには知りようがなかった。ただ勝ったのはマトリフで、その戦闘の激しさは筆舌に尽くしがたいものだったのは変わり果てた地形からも明らかだった。
だが、今その地面が変わっていることにアバンは驚いていた。呪文のせいか、あるいは魔物たちの攻撃で抉れて起伏が激しくなっていた地面には一面の花が咲いていた。それが風に吹かれて揺れている。
アバンはあたりを見渡して、その花畑に寝転んだ姿を見つけた。アバンは花畑を進み、その隣に並んだ。膝の高さほどに咲いた花たちに埋もれるようにマトリフは空を見上げていた。
「ここでしたか」
アバンの声にマトリフは視線をアバンへと移した。
「何か用か?」
「いいえ。パプニカに寄ったら、何処かへ出かけたと言われたので。もしかしてここかと」
マトリフはまた視線を空に戻した。空は青く澄んでいる。
「ここ……きれいに咲いていますね」
この辺りは元から肥沃な土地では無かったはずだ。それがこれほど見事な花畑になっている。それが人為的なもので、ここを訪れると人が他にはいないだろうというのはアバンの憶測だった。だが外れてもいないだろう。マトリフは眉根を寄せてからつまらなさそうに呟いた。
「……師匠の書庫で昔に見たことがある呪文だ」
「植物を操る呪文ですか」
「そんな大層な呪文じゃねえ。ただ花を咲かせるだけだ」
「……彼への手向けですか」
ガンガディアはこの地で死んだ。その遺体が残らなかったのはマトリフの呪文の特性のためだ。魔王との戦いを終えてアバンがここへ戻ってきたとき、マトリフは地面に伏せて茫然自失となっていた。それが使った呪文の強大さだけのせいではないとアバンは気づいていた。
「そんなんじゃねえよ」
マトリフは緩慢な動きで体を起こし、パプニカの法衣についた草を払った。最近変えたらしい髪型のせいで表情が以前よりもわかる。彼が以前と違って見えるのはそのせいだろうか。
「どうせ城の連中に何か言われたんだろ」
「いえ……まあ」
アバンは言葉を濁した。パプニカにおいてマトリフの評判は良くない。仲間であったアバンにさえ聞かせるほどなのだから、パプニカの重鎮はそうとう腹に据えかねているのだろう。
「あいつらの言ってることを真に受けたんじゃねえだろうな」
「まさか」
マトリフがパプニカでまずい状況であるのは間違いない。それもあってアバンはマトリフを探していた。アバンは今思いついたかのように明るい声音で言った。
「また一緒に旅に出ませんか?」
「なんでだよ」
「各地を巡りながら、後進を育てようと思いまして。バルゴート様のなさってたほどの事はできませんが、私なりにやってみようと。そのお手伝いを頼めませんか?」
マトリフは考える間もなく首を横に振った。それだけで何も言わない。そうですか、とアバンは小さく言った。おそらく断られるだろうとも思っていたからだ。
アバンはマトリフを見る。白くて高級なパプニカの法衣は彼を全く違うように見せる。何か大切なものが抜け落ちたような、抜け殻のような彼がそこにいた。
「眠れてますか?」
マトリフの目の下には薄黒い隈があった。それが彼の今の生活を物語っている。マトリフはアバンの問いには答えずに目を伏せた。
「なあアバン」
マトリフは手で目元を覆った。そんな彼の姿を旅の中で見た事はなかった。どんな困難な状況でも彼は前を向いてその優秀な頭脳を回転させていた。だが今の彼にはそれを感じられない。
「オレたちのしたことは……正しかったんだよな?」
その言葉にアバンは胸が苦しくなった。答えようと開けた口は声を発しない。アバンはそのまま無言で空を見上げた。抜けるような青い空がそこにはある。きっとマトリフも同じだったのだろう。答えは変わらない。だがそれを言葉にすることがどうしてもできなかった。
後日、アバンがそこを訪れたとき、花畑はめちゃくちゃになっていた。潰され、枯れた花が無惨に広がっている。残された様子からそれがベタンの跡だとアバンにはわかった。
それ以降マトリフの行方はわからなくなった。パプニカでは姫が誕生したという。その祝いによって行方をくらませた大魔道士のことは誰も口にしなくなった。彼がパプニカにいたことさえ無かったことにするように箝口令が敷かれ、その存在は書物にも記されなかった。