話を聞いてくれないか「やあ、マトリフ」
パプニカ国王は成しうる限りの気軽さで言った。それでも声は気負ったように震えて、どうにも気まずく思う。
「そこにいるんだろう、マトリフ」
国王は岩戸に触れる。ひんやりと冷たい岩肌に拒絶されているように思う。その向こうにいるマトリフに、せめて声だけは届いているだろう。
マトリフが相談役を辞してパプニカを去って十数年が経つ。国王は時折りこの海沿いの洞窟を訪れるが、マトリフはいつも会ってはくれなかった。
少し離れた場所で護衛の兵がこちらを見ている。それに手を上げて、もう少し下がるように伝えた。ここまで乗ってきた気球はもっと離れた場所に置いてある。
マトリフはパプニカの者に会いたくはないだろう。そしてその会いたくない者の中に自分も含まれている。だが国王はマトリフに会いに来るのをやめなかった。
「勝手なお願いだとは重々承知の上で言う。どうかパプニカに戻ってきてはくれないか」
岩戸の向こうから返事はない。これまで何度も同じことを伝えてきたが、良い返事はなかった。それほどマトリフのパプニカへの恨みは深いのだろう。
「先日、レオナが賢者の儀式を受けたんだ」
デルムリン島で行われた洗礼の儀式で、司教はレオナの命を狙った。その時のことを、国王は直接に見たわけではない。だが、知らせを聞いて国王は悔いずにはいられなかった。司教の陰謀を昔に忠告したマトリフの言葉を、信じなかったからだ。
「司教は追放した。遅すぎたかもしれないが」
司教の欲深さを、相談役だったマトリフは幾度も国王に忠告していた。だが、古くから王室に仕える司教を国王は信じていた。その結果、司教は国家転覆を狙ってレオナの命を奪おうとした。小さな勇者がいなければ、レオナは助からなかっただろう。
「マトリフ、聞いているのだろう」
岩戸の向こうにいるであろうマトリフの気配を探す。相談役だった頃は、いつも静かに話を聞いて遠慮のない言葉をくれた。今こそマトリフが必要だった。
国王は岩戸をじっと見つめる。その向こうにいるマトリフを見ているつもりで言った。
「君も気付いているだろう。世界の様子がおかしい」
国王は岩戸に触れる手を握りしめる。
「魔物が暴れ出した。国民が襲われて甚大な被害が出ている」
十五年前に魔王が倒れてから、魔物は凶暴さを失っていた。棲む場所を隔てることで人間との衝突も激減したはずだった。しかし、少し前から魔物は人間を襲いはじめた。
「……アバンと会ったよ。彼は魔王が復活したと言っていた」
魔物に襲われて混乱していたパプニカに訪れたのは、家庭教師だと名乗ったかつての勇者だった。アバンは昔と変わらない眼差しで、魔王に立ち向かうと言った。
「今さら都合がいいとわかっている。パプニカを助けてくれないか」
このままではパプニカが魔物に滅ぼされるのは時間の問題だ。魔物に対抗しうる力は今のパプニカにはない。
「マトリフ!」
「……オレの洞窟の前で何やってんだ」
背後から聞こえた声に国王は振り返る。するとそこにマトリフが立っていた。手には釣り竿とバケツが持たれている。
「……洞窟の中にいたのでは?」
「見りゃわかんだろ。釣りに行ってたんだよ」
マトリフは見せるようにバケツを揺らした。中には数匹の魚が入っている。
「ということは、さっきの話を聞いていなかった?」
「何だよさっきの話って」
どいたどいた、とマトリフは手を振る。国王が一歩引くと、マトリフは手をかざして岩戸に触れる。そうすると岩戸はゆっくりと開いていった。元々はパプニカ王室の隠れ家として保有していたこの洞窟は、譲り渡したマトリフによって手が加えられたらしい。この岩戸もマトリフの魔法力に反応して開くようだった。
「あの、マトリフ」
「何だよ」
「もう一度説明させてくれないか。君も気付いているだろうが、魔物が」
その言葉の途中で、マトリフが手を国王に向けた。呪文の生成が一瞬で行われる。身構える暇もなく呪文が放たれた。
だがそれは国王ではなく背後の海へと向かった。振り返って見ればしびれくらげが凍りついている。魔物に気付いた護衛の兵が慌ててこちらへと走って来ていた。それを見てマトリフは顔を歪める。
「あんなに目立つ気球で来るなよ」
マトリフは森のほうを指差す。確かに気球はその方角に置いてあった。
「狙い撃ちにされても知らねえぞ」
「ありがとうマトリフ、やはり君がいると心強い」
マトリフはその言葉を拒否するかのように背を向けた。引き止めようと言葉を発する。
「魔王が復活したんだ」
「だからどうした」
マトリフはつまらなさそうに呟いた。そのまま洞窟の中へ入ろうとするので腕を掴んで止める。
「力を貸してくれ」
「断る」
「何故だ。君は十五年前、死力を尽くしてくれた」
マトリフは振り返ると国王を見た。その暗い瞳に国王は思わず掴んでいた手を離してしまった。
「オレはもう誰とも関わりたくない」
「マトリフ」
「失せろ。二度と来るな」
岩戸がゆっくりと閉じていく。外からの光が遮られた暗い洞窟の中でマトリフは立ち尽くしている。
「私はまた来るよマトリフ」
マトリフはこちらを見ようとしない。それでも国王は言葉を続けた。
「私は君のことを信じている。君は困っている人を放ってはおけない。君はいずれ悪を挫くために立ち上がる」
光から顔を向けるマトリフの背が小さく見えた。その背にも言葉は届いてるはずだ。
「勇気は途絶えず、正義は失われない。たとえ霞の中を彷徨っても、進むべき道は消えはしない」
岩戸は閉じてしまった。国王は真っ直ぐにマトリフのほうを見つめ続ける。
「私は戦う。最後の一人になっても」
マトリフは何も言わなかった。国王は踵を返して歩き始める。
間違えてしまった道を、今さら正すことはできないのかもしれない。だったら、これからの道を誤らなければいい。
国王は自分が出来る限りのことをしようと決意して陽射しの下を歩んだ。彼を待ち受けたのは短い未来だったが、最後まで諦めずに正しさを求めた。
マトリフはかつては守ろうとした全てに背を向けて洞窟の中で蹲った。そしてパプニカが壊滅しても見て見ぬ振りをした。
その後、マトリフは海の上を飛ぶ気球を見つける。パプニカの紋章が入ったその気球は、今にも海へと墜落しそうだった。