地獄でなぜ悪い マトリフは暗い天井を見上げる。落ちてきたときも思ったが、ここは随分と深いようだ。
視線を前方へやれば、また先の見えない道が続いている。ぽつりぽつりと蝋燭が灯っているが、その頼りない明かりでは遠くまでは見えなかった。
「大魔道士?」
懐かしい声に振り返れば、驚愕の表情を浮かべたガンガディアがいた。マトリフは小さく手を上げる。
「よぉ」
「何故ここに」
ガンガディアは怒ったようにマトリフに駆け寄ってきた。そのまま身体を掴まれる。思わず痛みを予測したが、そんなものは当然にない。もう死んでいるからだ。
「何故って、オレはクズ野郎なんでね。地獄がふさわしいだろ?」
マトリフはあたりを見渡す。ここが地獄らしいが、案外地味だった。もっと不気味で恐ろしい場所を想像していたのに。
「君は天国に行くとばかり……」
ガンガディアは冷静さを取り戻してマトリフから手を離した。マトリフはずれた帽子をなおすと、ガンガディアを呼ぶように手を振った。
「まあ、そういうわけだからよ、地獄を案内してくれ」
「ちょっと待ちたまえ」
ガンガディアはマトリフの帽子に手をかけた。マトリフが慌てて押さえるより先にそれを剥ぎ取ってしまう。するとマトリフの頭の上には光の輪が浮かんでいた。それは天国に行く者の証だった。
「君がここへ来たのは何かの間違いだ。君は天国行きだ」
ガンガディアは天井を見上げる。高い高い天井のそのまた上に、天国はある。ガンガディアはどうにかしてマトリフを天国へと連れていこうと考えていた。
しかしマトリフはガンガディアの手から帽子を奪い返すと、光る輪を隠すように被った。
「いいんだ。ここへ来たのはオレの意志だ」
「馬鹿な。天国へ行きたくてこの高い天井を目指して登る者さえいるのだぞ。何故わざわざ天国から地獄になど」
「だってあっちには、お前がいないだろ」
マトリフの言葉にガンガディアは目を瞬かせる。まるで急に言葉を理解できなくなったように、ガンガディアは戸惑った。
「私は魔王軍として多くの者を……」
「だから、オレがこっちに来たんだろ」
「何故だ……天国には君を待つ者もいるだろう」
そこでマトリフは痛みに耐えるかのように目を細めた。それはガンガディアにも痛みをもたらす。マトリフには彼を愛して待つ者がいたらしい。
「……だからオレはクズ野郎なんだよ」
マトリフは目を瞑ると口を広げて笑った。
「おめえに会いに地獄へ行くって言ったら、驚かれたし泣かれたし、挙句には燃やされた。ロカのやろうなんて顎が外れそうになってたぜ」
「何故だ」
「なぜなぜってうるせえヤツだな。どこが悪いんだよ、ああ?」
どこがと訊かれてガンガディアは言葉に迷う。口をつぐんだガンガディアに、マトリフは「それによ」と付け足した。
「おめえに言いたいこともあったしな」
「私に?」
マトリフはガンガディアを見上げた。困惑しているガンガディアにマトリフはぽつりとつぶやいた。
「悪かった」
突然の謝罪にガンガディアは目を丸くする。ガンガディアにはマトリフが何を謝っているのかわからなかった。マトリフは今も覚えている手の感覚に胸の奥が冷たくなる。
「おまえはオレが殺しただろ」
マトリフの声は震えていた。ガンガディアにはマトリフが泣きそうに見えた。
ガンガディアは死んだが、それはガンガディアがマトリフより弱かったからだ。そのことをガンガディアは恨んではいない。むしろ晴れやかな気持ちですらあった。憧れ続けた存在は、ガンガディアの理想を超え続けた。
「君は悪くはない」
「簡単に言ってくれるぜ。だがオレのせいだってことには違いないだろ」
マトリフは顔を伏せて肩を落とした。そして小さな声で呟く。
「悪かった」
もう一度同じことを言ってから、マトリフは顔を上げた。
「ってわけだ。とにかく道案内くらいしろよな」
マトリフはからからと笑い飛ばすと歩き出した。湿っぽい雰囲気は既に吹き飛んでいる。ガンガディアはその切り替えの早さに笑みを浮かべた。
「先ほどのしおらしさはどこへやったのだ」
マトリフは行き先もわからないのにずんずんと進んでいく。ガンガディアはその背を追いかけた。