約束 入るぞ、と声が聞こえたと同時に扉を開く。相手の返事を待たず足を踏み入れる。ブラッドは部屋を見回し、ベッドで山を作っている布を見つけるなりそれに近付いた。気配を感じたのか、布が一度だけ小さく縦に揺れる。
「アキラ」
名前を呼ぶ。布の中から返事はなかった。ブラッドはもう一度「アキラ」と、今度は優しく呼びかけた。山が小さく動く。
ブラッドが黙ってシーツをつまみ上げる。布がずれ、赤い髪が姿を現した。顔は枕に沈められて見えない。しかし、想像はつく。ブラッドは大きく息を吐くと、アキラの肩を掴み、引き寄せた。
「いい加減に機嫌を治せ」
「……」
ようやく見えたアキラの顔はぶすり、と唇を尖らせて不満そうな、けれど悲しそうな、そして幾らか恥ずかしそうな、複雑なものだった。
理由は分かる。元に戻り良かったとサウスセクターのリビングで和やかな空気が流れる中、忘れていた間の記憶があると発言した途端に豹変したアキラは、あー、だのうー、だの言いながらリビングをぐるぐる回り、そして逃げるように自室へと姿を消した。その様子を見ていたオスカーとウィルも理解したのか。ブラッドが様子を見てくると言った時、二人は何も言わなかった。
「忘れていて悪かった」
誰だ、と問われた時の感情は、自分には計り知れないものなのだろう。ブラッドは改めて謝罪した。しかしアキラはブラッドへ恨めしげなジト目を向けると、尖っていた唇を更に突き出してくる。
「……悪かった、って顔に見えねーけど」
言われ、ブラッドは自分の頬を撫でる。緩んだ口元に、なるほど、ポーカーフェイスは保てなかったらしいと納得する。
諦めて肩をすくめると、ブラッドはアキラの反応を思い出して小さく笑みを浮かべた。
「お前があんなにショックを受けて拗ねたことは想定外だったからな」
その言葉にアキラの眉間が皺を作った。これ以上揶揄ってはまたシーツの山を作られてしまう。逃げられないよう抱き寄せれば、アキラは素直にブラッドの膝へと乗った。そして赤子のようにしがみついて、肩口に顔を埋める。
もしや泣いているのかと思ったが、濡れた感触はない。
「……本当に悪かったと思っている。機嫌を治してくれ、レッド」
ブラッドは、そう言って跳ねる赤を撫でながら子供にするよう顔を埋め、背中へ回した腕に力をこめる。密着した体温は熱くて、自分はこれを忘れていたのかと思い返した。
それは、とても勿体無いことだと思う。
しばらくそうしていると、落ち着いたのか肩口に埋めていた頭が少しだけ顔を覗かせた。翠の目は今にも泣きそうなほど揺れているが、きっと泣くことはないのだろう。アキラは訥々と言葉を紡ぐ。
「……ショックだった」
「あぁ」
「ボルダリング行ったのも、ドライブ行ったのも、ホットドッグ一緒に食ったのも、てるてる坊主作ったのも、スーツ買ってくれたのも、無人島や吹雪で遭難した時助けてくれたのも――ぜんぶ、ぜんぶ忘れたって言われて……すげー、悲しかった」
「……あぁ」
震える声。涙を見せずとも泣いているようなものだ。ここまで彼を傷つけてしまった自身を責めながら、ブラッドは力強く頷き、吊り上がった目尻に唇を落とす。
「もう二度と忘れない。約束する」
ようやく機嫌は治ったのか。アキラはすんすんと鼻を三度鳴らして瞬きすると、いつもの調子に戻る。
「次、忘れたら許さねーからな」
そう言って唇を重ね、頬を摘んでくるので、ブラッドはその手を奪うと口元へ引き寄せ
「安心しろ。お前が言ったことは勿論、口付けの時少し上を向く唇も、この熱い体温が外側だけではないことも、二度と忘れることはない」
そう悪戯気味に言ってやれば
「ばっ……!? っ、~~っっっ」
アキラは途端に慌てふためき、両手を上下に振りながら背をのけ反らせる。ブラッドは倒れ落ちていく体を支えて、鼻を合わせながら尋ねた。
「償いとして何か要求があれば聞こう」
ぐぬぬ、と懐かしい唸り声が聞こえてくる。そう言えば、その声も記憶を失っている間は聞けなかったことに気付いた。一年の間に馴染んでしまったそれらを失うことなど考えられない。そう思える感情も、目の前にいるこの男が教えてくれた。
「ホットドッグ奢れ」
「あぁ」
「十個……いや、うーん、二十個だ」
「承知した」
即答するブラッドに、おそらく焦らせたかったのだろうアキラが慌てて「やっぱ三十個」と口にする。
「あと」
「?」
首に腕が回り、引き寄せられた。そのままシーツへと倒れ込むが、アキラは離すことなく、むしろ一層強く抱きしめる。
「もうちょっと、このままぎゅっとしてろ」
囁きに近い小さな声。今度は照れ臭いのか、また肩口に顔を埋めて動かなくなったアキラに、ブラッドは
「……あぁ、わかった」
と、言って一回り小さな体を潰さないよう、優しく抱きしめ返した。