くちさみしいと 引き戸が立て付け悪い音をたてながら開いた。ただいまと鳴き声ひとつが同時に上がり込んできて、ばたばたと音が聞こえてくる。音の主は蛇口を捻って、きっと手洗いとうがいが済んで台所で喉を潤し、律儀に待っていた愛犬と共にぺたぺたと廊下を踏んで居間へと辿り着く。
「あれ高杉、来てたアルか」
「ああ、邪魔してる。風呂からあいつが帰ってきたら出てく」
「いいヨ。今日は新八も休みだから席は一つ空いてるネ」
神楽がリモコンを取ると高杉が煙管の灰を懐から出した小さな筒へと落とした。彼女の拳ほど開かれた窓から出ていく煙が、日に照らされて一瞬だけ視界に映る。
片す手を惜しむように見つめる、彼女が浴びられない分だけ陽の光をあらかじめ集めておいたかのような紺碧の瞳は高杉にとっては空よりよっぽど青く見えた。
「珍しいか、このご時世にこんなもんを吸うやつは確かにいねェだろうが」
「……よく知ってるヨ。掃除だって出来るアル。灰を落としてみたくて力加減を間違って壊したことも、真似て咥えて叱られたことも」
青かった瞳がたちまち曇り空に覆われる。濁った灰ではなく、水分をたっぷり含んだ、雨は降らないのにどこか寂しそうな雲。
失ったもののために剣をとり、気に食わなければ拳を握ってきた彼にとってその目は新鮮だった。
唯一こういう態度をとる可能性があるのはまた子ぐらいだったが、彼は彼女がそう振舞いやすいように扱ったことはなかった。女だてらに鬼兵隊幹部として生きるということは、己の弱さに蓋をして生きなければならないということだ。
神楽のようにまた子が感情を表した時、高杉は何かをしてやれたことがなかった。気付かぬふりをし、彼女が自ら隠し方を見つけるよう促すだけだ。
「ねえ、それどうして吸うの」
「どうして?」
「うん、地球に来てはじめて聞いたネ。くちさみしい、って。……お前も寂しかったアルか」
「さみしい、か」
肩を竦めて高杉は笑ったが、自分を見つめる瞳がいたく真剣であることに気付いてすぐに立ち戻った。仕舞い掛けた煙管の口元はまだ傷ひとつついていない。愛用していたものは失くしてしまったから、つい最近買い替えた。
唇で挟み、歯で咥え、灰を吸い込み、肺から吐き出す。
動作ひとつひとつを意識したことがなければ、その理由を考えたことなどあるはずもなかった。
「一度得たもんを手放す時、惜しくなるのが人ってもんだ。口寂しいってのはこいつに慣れちまったやつが離れがたくて言うんだろうよ。……こいつを吸いはじめた理由と直接は関係ねェよ」
「ほんとに? なら、どうして吸いはじめたアルか」
「強いて言うなら、退屈だったのかもな。越えても越えても変わらない夜に、朝に、煙でも吹っ掛けて少しは面白味をつけたかったのさ。そっから先は、大体みんな同じだろう。慣れちまって、気付けば口にしてんのさ」
よかった、と幼い唇が動く。同時に角膜を覆う雲が軽くなった。彼女が煙管を通して高杉ではなく別の誰かを見ているのは明らかだったが、彼は何も言わなかった。彼もまた彼女の疑問に答え、彼女が見せる悲しみを払うことで、慰めひとつしてやれなかった少女への償いのつもりでいたからだ。
「マミーが煙管を吸おうとするとき、体に障るからって私いつも止めてたヨ。でも気が付いたら咥えてて、窓の外に広がっていく煙を眺めながら笑ってた。どうしてって言いたかった。でも……マミーの横顔は綺麗だったネ」
会ったこともない神楽の母親を思い浮かべて、高杉は手元の煙管を見つめた。一時行動を共にした神威と、目の前にいる神楽を産み、育てた母。聞いた話では不老不死の身で過ごし続けていた彼女は連れ合いを得て、現世に別れを告げたという。
煙管を咥えることは、高杉にとってもう習慣と言えた。だが暇がなければ手に取ることもしないし、ふと味わいたくなった時に火を着ける程度で、人の制止を振り払ってまで得ようとしたことはなかった。だがそれがあるとしたら。
「退屈な頃を、思い出したかったのかもしれねェな」
「退屈な頃を? どうして」
「……手放したくなくなっちまったからさ」
彼一人ぐらいなら簡単に呑み込んでしまいそうな丸い瞳が、更に大きくなる。
決して手に入らないと思っていたものを得て、日々それが自分の中で大切なものへと変わってゆく。そうすると準備をはじめるのだ。また何もない日常に戻ったとしても耐えられるように、自ら愛しき者たちに背を向けられるように。
そんなことをしても、土台無理な話だということをきっと、神楽の母も最期の瞬間になって気付いただろう。いや、本当は気付いていたのに、きっと平気だと言い聞かせていたそれが単なる強がりであったことを、死の間際に漸く認められるのだ。
「いい母娘だったんだな。お前たちは」
不思議そうだった神楽の表情が僅かに照れくさそうなはにかみに変わる。すぐに口角は持ち上がり、二つの目は虹のかたちに成って、誇らしげな笑顔が完成する。
「おう神楽、おかえり」
「ただいま。……ねえ銀ちゃん」
「んぁ?」
「高杉を、くちさみしくしないであげてヨ」
「おい神楽」
「用事を思い出したから、ちょっと出かけるネ。晩御飯までには帰るアル!」
ぴょんとソファーから立ち上がると、神楽はぱたぱたと駆けて行った。見えなくなる前に一度だけ振り返り『高杉』と名前を呼んでから『ありがとう』と微笑んで。
どかっと音をたてて銀時が高杉の隣に座った。片手に持ったタオルで頭をがしがしと拭く腕が何度か高杉の肩にぶつかる。着物越しに伝わる体温は、いつもよりも温かかった。
「……俺達が人をはじめて殺したとき」
「なに、いきなり」
「誰も弱音なんぞ吐かなかった。吐けなかった。怯えを晒しちまえばきっと、明日死ぬのは自分になるからだ」
「ま、人を斬ったからってビビっちまう奴に戦場が向いてなかったのは確かだよ」
「また子も弱音なんか吐かなかった。……だが確かに生唾呑み込んで、震えた手を無理矢理抑えて、俺達の顔色伺ってたのを、俺は気付いてた」
開いたままの唇が塞がれて、僅かに甘い舌が口の中をひとなめした。すぐに離れて、残った体温と窓から届いた風の冷たさが思考に落ち着きを取り戻させる。
「ったくよォ、お前がくよくよ人のこと気にする性分かよ」
銀時の言葉もそのままに、高杉は煙管を眺めていた。どちらも口を開くことはなかった。ただ、銀時は高杉のそばを離れなかった。
「今からだって遅くねェよ。人間生きてりゃ泣きたい時も笑いたい時も、いくらでも出てくるもんだ。その時一緒にいてやりゃあいい。気の利いたことなんて言えなくたって、見なかったふりした今までを謝れなくたって、あいつらはお前を恨みやしないだろ」
銀時が立ちあがると、真横にあった熱が高杉のもとから消える。煙管を持つ指に力が籠って、頭上からは銀時の溜息が落ちる。
「……くちさみしいってんなら、俺がいつでもその口塞いでやるよ。だがよ、そうなる前からいつまでもビビッて背向けてたら、お前は戦うことすら出来なくなっちまうだろ」
高杉の潰れていないほうの目が、瞳の大きさはそのままに、瞼だけを広げた。立ち上がった高杉は煙管を懐に仕舞い、玄関へ向かう。簡単に身支度を整えて、銀時もそれに続いた。
「銀時、今夜は」
「わーってるよ。いつまでもんな顔されてりゃ酒が不味くならァ。……けどよ」
「なんだ」
「送り届ける役目ぐらいは、俺にも寄越していいだろ」
「ほう、お前が鬼兵隊に興味があったとは驚いたよ」
「言ってろ」
寄り添って歩く二人を、溶けかけの降水雲が見守っていた。沈みかけの太陽の光を、雲の隙間から差し込ませながら。