ふい、と顔を上げて空を見るのに釣られ、光忠も視線を上げた。明るく澄んだ青が広がっている。ところどころに散らばる雲の白さがそろそろ眩しい。もう夏はすぐそこだ。いい天気だけど、と思うのを待っていたかのように大倶利伽羅が口を開く。
「…雨だ」
「すぐに降るかい?」
「――あぁ、近い」
なにかを確かめるようにじいと一点を見つめていた金色が光忠を映した。頷く動きで髪が揺れる。頬に落ちる影は色濃く、日差しの強さを教えてくれていたが、雨が降るらしい。
大倶利伽羅が言うのなら確実に降る。初めて教えてくれたときから外れたことなんて一度もなかった。
「じゃあ、急いで帰ろうか」
「………、」
もしかすると、急いだとしてもマンションに着くまでに降るのかもしれない。大倶利伽羅の眉根が少しばかり寄っているのに気づき、光忠は小さく笑う。狼であっても、人であっても、雨に濡れるのはあまり好きではないようなのだ。むつりと口を噤む大倶利伽羅の腕をゆるく引いて促し、足早に坂道を下りた。
今日は朝から風が気持ちよくて、足を伸ばそうかと散歩にきていた。光忠の住むマンションは町のはずれにあり、すこし進めば山に入る。山といっても急な勾配があるわけではなく、ゆるゆると山裾を歩ける形になっていた。だから散歩にはちょうどいい。
「あ、あの雲かな」
青空のかなたに黒く重たげな雲がいつのまにか広がっていた。あれがこっちへやってくるのだとしたら、強い雨がざっと降ってもおかしくない。それによくよく見てみれば、上空は風が強いのが進みが早かった。なるほど、大倶利伽羅が顔を顰めるわけだ。多分このままでは濡れるのは免れない。
いっそ走ってみようかと隣を見れば、ぐい、と腕を引っ張られた。
「っ、わ、伽羅ちゃん?」
目を丸くする光忠にはなにも言わず、大倶利伽羅の足は道から逸れていく。整えられた道が小石の目立つ道になり、やわらかな土になり、足の下では滑るように跡が残った。
「―――、」
辺りを見回して立ち止まり、また進む。手を引くのは光忠と同じ熱を持つ手のひらだというのに、先導するように前を進む横顔はまるで狼のときのそれだ。静かで強い目が日差しを遮られた視界でもふしぎとよく見えた。きれいな金色が瞬きに隠れて、また現れる。
背の高い木が密度を増してきたところで、ようやく大倶利伽羅がこっちを見た。引かれるままに後をついてきていた光忠を見て、小さく頷いている。
「…ここで雨宿りかな?」
「あぁ。ここなら、まだいい」
「そんなにすぐかい」
「……もう、降る」
すこし山に入っただけで空気が違った。朝から日差しが一度も届いていないような地面はひんやりとしている。夏の空気が漂っていたはずなのに、ここだけまだ春のままだ。大倶利伽羅が空を見上げるように視線を上げる。ここからじゃあ空は見えない、でも大倶利伽羅の言うとおり、ぽつり、と一粒。雨が降ってきた。
「本当だ」
「………止むのも早い」
「そうなんだ、助かるね」
ぽつぽつと雨音が重なり始めれば、視界も暗くなってくる。あの重たげな雲が頭上に来たのだろう。大倶利伽羅に釣られて見えない空を見上げていたら、ざぁ、と一息に音が濃くなった。途端に空気も濡れていく。なのに、雨は届かなかった。
「すごいね、ここにいると、…雨が霧みたいだ」