酔いどれ夜話 その日の村雨は、珍しくもステーキ肉ではなくワインを手土産に持ってきた。
作ったはいいが使用頻度も低く、成金の道楽の象徴と化していたシアタールームは、今はもっぱら恋人と過ごす場所になっている。そこに手土産のワインと手製のつまみを持ち込んで、やたらと関連作の多い洋画を流しながら夜をだらだらと過ごす。ある意味獅子神にとって──もちろん村雨にとっても──非常に贅沢な時間の使い方である。
付き合いを始めてから購入した二人掛けソファに村雨と並び座り、ポツポツと互いの近況やら流れる映像について言葉を交わす。村雨が持ってきたワインは控えめな甘さにすっきりとした飲み口で、あまりの飲みやすさに獅子神も常になく杯が進んだ。
その結果。
「おまえ、頭やべーぞ」
「私に喧嘩を売るほど酔ったのか?」
確かに額面通り受け取れば単なる悪口だ。いや、獅子神としては恋人というフィルターがあっても、村雨は十分に頭がヤバい種類の人間に分別されるだろうとは思うのだが。
直前、村雨の頭に触れた獅子神の手は今戸惑うように中空を漂っている。
「違くて、だって、お前これ」
本当は頭ではなく、髪の隙間から見える耳に触れようとしたのだ。なぜ耳かと言えば、ふと隣に視線を向けたとき、ほんのりと色づいているように見えたからだ。
村雨もアルコールで赤くなるのかあ、と思って、思ったら触れたくなって、手を伸ばした。そうしたら、案外酔いが回っていたのか目測を誤ったのだ。獅子神の手は村雨の頭を撫でるように通り過ぎ、アルコールでぼやけた思考が、指先に受けた感触を推古することなくそのまま口から出力した結果が先の台詞である。
ううん、と唸るような声を漏らしながら、恐々村雨の頭──正確には髪だ──に改めて触れる。
「ごわごわしてる……」
髪を梳くように手を動かす。指先に感じるのは、がさがさ、ごわごわとした、到底触り心地がいいとは言えない感触。
「……真経津と全然ちげえな」
「は?」
眉を顰めた村雨が、獅子神を見つめ返す。
「真経津のヤローはふわふわしてんだよな。触ると気持ちいいけど、ふわふわだから濡れるとぺしゃんこになってさ。はは、面白いんだぜ」
「……訊くが、あの男の髪を触る機会なんぞいつあった」
「んー? ほら、前にあったろ。御手洗のオークション」
「あなたの家に居座っていたことは知っているが」
「そんときにさ、アイツ風呂入って頭濡れたまま出てくんの。びちゃびちゃ床濡らしてさあ」
「それで乾かしてやったと?」
「そー」
食事をねだり着替えをねだり、あげく「じゃあ獅子神さん乾かして」とねだる成人男性(無職)は、およそ他人の家という遠慮など無いに等しかった。自由奔放すぎる真経津にうんざりする気持ちがないわけではなかったが、その裏で獅子神が少し楽しくなってしまったのもバレていただろう。なにせ友達が泊まりに来る経験なんて、初めてだったので。
くふ、とあの時のことを思い出して含み笑う獅子神に、村雨の顔が恐ろしげに歪む。平時であれば獅子神も悲鳴の一つや二つ漏らしていたかもしれないが、酔っ払いにはどうということもない。
硬質な髪を指に巻き付けるように弄りながら、獅子神はヘラヘラと笑いながら村雨へからかいの言葉を吐く。
「なんだよ、嫉妬か?」
「嫉妬して何が悪い」
いつになく素直な返しに、獅子神はきょとんと村雨の顔を見て手を止める。やはり恐ろしい形相である。
ははあ、なるほど、と獅子神は大きく頷いた。
「しゃーねえなあ。今度シャンプー買いに行こうぜ」
「……シャンプー?」
「あ、コンディショナーとヘアオイルもな。まあ、なんだ。髪質ってのはそう変わんねーだろうからふわふわは無理でもよ、手入れすりゃさらさらにはできるだろ」
医者である村雨は、その多忙さにかまけて髪の手入れなど後回しにしていたのだろう。休日どころか平日も僅かな時間を見つけては獅子神の元へ通ってくるのだ。目の下の隈は薄れる気配もなく、心底休まる時間なんてないに等しい。
もちろんそれは、村雨がそれだけ獅子神を優先しているという証左でもある。嬉しくはあったが、その弊害をこうして実感してしまえば話は別だ。どうせ獅子神が休めと言ったところで聞きはしないのだから、毎日の消耗品に効果を求めるのは間違ってはいない。
いくら酔っ払っていようと、それくらいは獅子神にもわかるのだ。ついでにデートの約束が取り付けられれば一石二鳥である。
しかし村雨が真経津の髪質に嫉妬するほどとは。そういったコンプレックスとは無縁と思っていたが、存外かわいらしい一面もあるものだなあ、と獅子神はふにゃふにゃ笑って触り心地の悪い村雨の頭を撫でる。
「このマヌケめ……」
「んぁ?」
村雨がなにごとか呟いて、頭を撫でていた獅子神の手首を引き下ろす。倒れるほどではない。酔っ払ったくらいで倒れるような柔な体幹ではない。
ただ、揺れはしたし視線は逸れた。
「獅子神」
時間にしてほんの数秒。ソファの柔らかな座面の感触を手のひらに感じたと思ったら、村雨の顔が目と鼻の先に迫っていた。
獅子神の腕を取ったのとは反対の手が、耳朶を擽り首筋をなぞり、脇腹から背中へゆるりと這う。アルコールで鈍った感覚すら呼び起こすような手つきに、ひくりと喉が鳴った。眼鏡越しに視線が絡み、鼻先が触れそうな距離で獅子神は囁いた。
「……えっちなことすんの」
意図せず幼い言い回しになってしまい、村雨が目を細める。トクトクと鼓動が早まる中、きっと獅子神の発した言葉には期待が滲み出ていた。
「しない」
「えっ」
きっぱりと言い切った村雨は、口を笑みの形に歪めて獅子神から顔を離した。
「酔っ払いに手を出すつもりはない」
「……そーかよ」
ぷい、と子供じみた動作で獅子神は村雨から顔を背けて唇を尖らせた。
手を出すと言ったって、これまでキスと触り合いぐらいしかしていないのだ。アルコールの有無なんて大した問題ではないだろうに。
「私はシャワーを浴びてくる」
「へ?」
村雨は鷹揚にソファから立ち上がると、唐突にそう宣言する。ポカンと見上げる獅子神をよそに、村雨はさらに続けた。
「傷んだ髪の補修には、シャンプー等の頭髪洗剤もだが特にブローが重要だ」
「うん?」
「だからまず、あなたがすべきはシャワーを浴びてきた私の髪を乾かすことだ」
「おう……?」
「わかったな?」
村雨の表情は先程の恐ろしげな形相よりよほど穏やかなのに、なんだかやけに迫力を感じる。コクコクと首を振った獅子神に、村雨は「よろしい」と言ってドアへ向かった。
映画はまだ終わっていない。一人で続きを見る気にもならず、獅子神はリモコンへ手を伸ばす。
「獅子神」
と、背後から名を呼ばれる。振り返れば、村雨はドアノブに手をかけて立ち止まっていた。
「私が戻るまでに、酔いを醒ましておけ」
そう言うと、村雨はニヤリと笑ってシアタールームから出て行った。
ドアが閉じると同時に、獅子神はリモコンを取り落とす。獅子神はゴトンと音を立てて床に転がったリモコンを拾い上げることもせず、その場で頭を抱え込んだ。
「──~~ッ」
酔っ払いに手を出すつもりはない。転じて、素面相手ならその限りではない。
ある種直球の誘いに、アルコールとは異なる理由で頬が紅潮し体温が上昇する。そういった時、いつも村雨が撫でてくる腹がジンジンと疼いている気がした。
「……とりあえず、水か」
シャワーだけなら、村雨が戻ってくるまでそれほどかからない。獅子神は村雨に言われた通り、酔いを醒まそうとチェイサー代わりの水をグラスに波々注いで一息に呷った。
「──にしても、なんでアイツいきなりスイッチ入ったんだ?」
ちなみに。
余談ではあるが、獅子神がこの先両手を負傷した真経津の介助で洗髪および洗体してやることを、村雨はまだ知らない。
ついでに、それに嫉妬した村雨がことあるごとに浴室へ引きずり込むようになることも、獅子神はまだ知らないのである。