熟成期間336日 玄関のドアを開けた途端、甘く華やかな、それでいて瑞々しさを感じる匂いが獅子神の鼻先に届いた。
「お前ん家花瓶なかったっけ?」
「言うに事欠いてそれか」
週末、夜遅く訪れた友人に獅子神がかけた第一声は「おつかれ」でも「腹減ってるか?」でもなく、そんな台詞だった。
友人──村雨は相変わらずの顔色の悪さだ。医者という職がそれだけ激務ということなのだろう。退勤後の村雨が、自宅ではなく獅子神宅へと──それも「これからそちらへ向かう」のメッセージひとつでだ!──当然のようにやってくることに疑問を覚えたのも今は昔。今日も今日とて来訪の知らせを受け、獅子神は夜食と風呂を用意し村雨を出迎えた。
ただし、いつもと違う点がひとつ。
村雨は片手にいつもの手提げ鞄を持ち、もう一方の手になんと花束を抱えていた。獅子神が感じ取った匂いの発生源はこれだった。華美なラッピングが施された、赤い薔薇の花束である。
村雨と、薔薇の花束。
あまりにも意外すぎる組み合わせだ。平時ならば似合わないと言い切れただろう。しかしフットライトに照らされ夜の闇の中ぼんやり浮かび上がる村雨の姿は、ある種幻想的で妙に嵌まっている。この場合の『幻想的』は怪談に出てくる幽霊のような、という意味と同義であるが。
「ま、上がれよ」
「む……」
三月も半ばに差し掛かり、日中は随分暖かい日も増えた。とはいえ陽が落ちればさすがにまだ冷える。お医者先生が風邪をひいては一大事だと、ひとまず村雨を空調の効いた暖かな邸内へ迎え入れた。
何事か言いたげな様子で「うん」だか「うむ」だか唸る村雨も、寒空の下立ち尽くす趣味はないのだろう。大人しく獅子神の後に続く。
「風呂と飯どっちにする? 今日は雑炊のつもりだけど」
「……風呂は、後だ」
「りょーかい」
村雨の選択を聞いて、夜食を提供するため獅子神はキッチンへ足を向けた。
背後からは村雨の歩調に合わせて、花束のラッピングに使われているフィルムの擦れる音が聞こえてくる。村雨は無言で、獅子神も特に話すわけではないから、ことさらカサカサという音が廊下に響いている。
獅子神に花の手入れの心得はないが、多少放置したところで即座に枯れるものでもなし、水を張ったバケツがあれば十分だろう。村雨は獅子神宅なら花瓶があると当たりをつけていたのだろうが、こうも突然の来訪では倉庫を探すのも一苦労なのだ。
さて、あの花束を村雨が手に入れた経緯とは、いかなるものか。獅子神はちょっとした推理気分で考えを巡らす。
たとえば村雨は医者である。ならば担当する患者もいることだろう。となると、思い浮かぶのは退院祝いや快気祝いの類だ。いや、そういったものを受け取るのは患者側か。だが謝礼として金品を送られるという話は聞くし、現代のコンプライアンスを鑑みて代わりに花を贈られた可能性はある。
たとえば村雨は勤務医である。つまりサラリーマンだ。転勤や退職の対象となれば送別の品を贈られることもあるだろう。そこで選ばれたのが薔薇なのは疑問が残るが、獅子神は医者ではないし、いわゆるまっとうな社会人として労働に勤しんだこともない。定番の品と言われたら否定はできない。
……などと考えてはみたものの、どちらも決定打に欠ける内容だ。
というより、一般的な観点から言えば薔薇の花束を贈られる理由などひとつだ。
あの村雨に、という驚愕と、村雨ならそういうこともあるか、という納得に獅子神は深く頷いた。
「何か勘違いしているようだが」
「あ?」
ダイニングの椅子に鞄を置いた村雨が眉根を寄せている。獅子神は粗熱を取るため小分けにしてあった白飯を手に首を傾げた。
「これは私が購入したものだ」
「えっ」
これ、と村雨が掲げて見せたのは件の花束だ。獅子神が脳裏に思い描いた、村雨と推定美女のロマンスがサラサラと崩れ去る。
「買った? 花を? お前が?」
葬式か? と偏見めいたイメージが浮かぶが、さすがに村雨だって献花に薔薇は選ばないだろうと獅子神は信じている。
では、仕事帰りの村雨が花を買うシチュエーションとは? 獅子神の頭の中で村雨と花屋の看板娘とのロマンスが始まりかけたところでストップがかかる。
「だから妙な勘違いをするんじゃない」
「えぇー」
疼く好奇心に唇を尖らせる獅子神に、村雨がひとつため息を吐く。そうして村雨は花束を手にしたままキッチンスペースまでやってくる。
「どうした?」
食事より花の対応を先にしろということか、と訝る獅子神に、村雨は花束ごとその手を差し出した。
「これは、あなたに」
「は? オレ?」
意外にも程がある言葉に獅子神は目を丸くする。
「……オレの誕生日、今日じゃねーんだけど」
「知っているが?」
それはそうだ。半年程前、村雨を含む友人達が獅子神宅へ押しかけて、勝手にキッチンを占領したあげくその場で作り上げた誕生日ケーキ──と呼称する焼け焦げた物体──を自慢げに差し出してきたことは今も鮮明に覚えている。もちろん、良い意味で。
「今日って何かあったか?」
獅子神が覚えていないだけで、友人に花を渡すようなイベントがあるのだろうか。そう思い問うた途端、村雨の眉が寄り眉間に皺を作った。
マズい。村雨にとっては知っていて当然のイベントだったのかもしれない。機嫌を損ねてしまったかと慌てて弁明を図る。
「や、悪い。ほらオレ、こういうの疎くてよ……」
「これはホワイトデーのお返しだ」
「ほわ、え?」
「ホワイトデーのお返しだ、と」
当然のような表情で村雨が繰り返し、花束を押しつけてくる。圧に負けて受け取ってしまったが、獅子神の脳内は疑問符で埋まっていた。
「……ほわいとでー、とは」
「発祥に諸説はあるが日本においてバレンタインデーの返礼を行う日のことだ」
同名のイベントが存在するのかと思ったが、どうにも村雨の言う『ホワイトデー』は獅子神の知るものと同じであるらしい。が、獅子神の記憶が確かなら今日の日付は三月十五日である。
「ホワイトデーって昨日だろ?」
「……本当は昨日渡す予定だった。だが急患の対応を放り出すわけにもいかん。たとえそれが手の施しようのない程のマヌケだとしてもな」
村雨の眉間に再度皺が寄る。どうやら獅子神の問いに機嫌を損ねたわけではなく、予定が崩れたことへの苛立ちだったらしい。
それにしても返礼に花束とは、村雨も洒落たことをする──などと感心しかけて正気に戻る。村雨の行動には、日付などよりも重要な要素が抜けていた。
「オレお前にバレンタインとか何もやってねぇよな!?」
バレンタインデー、つまり一月前の二月十四日だ。
その日は珍しさすら感じる程に穏やかな日だったと記憶している。
普段アポイントもなしに突撃してくる真経津は直前のギャンブルで相も変わらず無茶をしたため入院中。叶はバレンタイン配信で一日拘束。平日であったので天堂と村雨も本業に勤しみ、獅子神もまた本業の投資家として市場を覗き投資先の情報収集に励みトレーニングに精を出した。
その日村雨が獅子神宅を訪れたなどという事実はないし、当日に限らずバレンタインの名目で友人達へ贈り物をした覚えもない。強いて言えば真経津の見舞いにフルーツ盛り合わせセットを持って行ったくらいだが──だとしても村雨から『バレンタインの返礼品』を渡される理由が獅子神には存在しない。
もしかして、村雨の元に差出人不明のチョコレートでも届いたのだろうか。友人達の中でまともに製菓が可能なのは獅子神くらいだ。だから獅子神からだと勘違いしたとか。あるいは自覚していないだけで、実は獅子神に夢遊病の気があっただとか、あまり考えたくはないけれど過去の影響で解離性なんとかの二重人格で、『もう一人のオレ』的な存在が村雨へ贈り物をしていたとか。
「あなたのその可能性を考え続けようとする姿勢は好ましいものだが今はやめろ」
「でもオレ本当に」
「先月のバレンタイン、私はあなたからは何も貰っていない」
「あっ、だよな? よかった、ちょっとビビっちまった」
「あなたから何も貰っていない」
「今なんで繰り返した? いやそうじゃねえ。だったら余計お前から何か貰う理由がわかんねーよ」
日頃好き放題やっていることに対する労い、その口実にホワイトデーを使ったということだろうか。首を傾げる獅子神に、村雨は極めて真剣な顔で告げる。
「返礼品を渡した、ということはだ」
「おう」
「あなたは私にバレンタインの品を渡す必要があると言うことだ」
「おう?」
「バレンタインの品とは具体的に言うとチョコレートだ」
「……オメー、時々すっげぇアホみたいなこと言うよな」
「悪口か?」
「悪口だよ」
村雨の真剣な表情につられて真面目に聞いた結果がコレである。
「そんなにチョコ食いたかったのか?」
医者、というか曲がりなりにも勤め人で女性も多い職場なのだから、バレンタインには本命義理問わずチョコレートの一つや二つや三つ貰っただろう。一月も経ってから言い出すのはチョコレート食べたさに屁理屈を捏ねただけとしか思えない。そうでなければ、わざわざ獅子神に強請りはすまい。
「製菓用のヤツか、高カカオのヤツならあるぜ。95%の」
食うか? と訊けば村雨は顔を顰めた。
「素材をそのまま渡す奴があるか。ちゃんと聞いていたか? 私は『バレンタインの品』と言ったんだ」
「だからチョコだろ?」
そう返した途端、村雨はフー、と息を吐いて獅子神への呆れを隠しもせずゆるりと首を左右に振った。そうして、獅子神が押しつけられた花束を指差す。
「あなた、最初にその花束を見て何を考えた?」
「不気味──じゃなかった、誰から貰ったんだろうって」
「今不気味とか言ったか?」
「悪い、つい口が滑った」
「ひとまず見逃してやる。次は?」
「お前が買ったって言うから、花屋に用があったのかな、と」
「ふむ。それで?」
「……お前にもラブロマンス的な出会いがあるもんなんだなとか思いました」
真顔と視線の圧が尋問めいていて、獅子神は何か悪いことをしている気分になった。多少失礼なことを考えていたのは事実なので強く否定もできない。
「そこまで考えが及んでおきながら、なぜ途端に頭の動きが鈍くなるんだ?」
「喧嘩売ってるか?」
「事実の指摘だ」
平然と言ってのける村雨に「このヤロー」と拳を握りかけ、手の中の花束に思いとどまる。
「なぜラブロマンスなどと考えた」
「だって薔薇だぜ。しかも赤」
花に詳しくない獅子神でさえ、赤い薔薇の花言葉が愛にまつわる内容で、いわゆる愛の告白における定番アイテムなことは知っている。となれば村雨主演で美女とのロマンスが獅子神の脳内で展開するのも必然だ。
「そりゃそういう相手がいるって思うだろフツー」
既に間違いだと知っている状態で披露する推理ほど恥ずかしいものはない。気まずげに頭を掻く獅子神に、村雨は眉を寄せたまま首を傾げた。
「そういう相手がいると考えておいて、なぜ自分は例外だと?」
「あ? いや、そりゃ別の話……──え?」
手元の花束──赤い薔薇の、告白における定番のアイテムと、それを押しつけてきた村雨の顔を交互に見る。村雨の顔には、獅子神をからかうときよく浮かべるニヤニヤ笑いが張りついている、なんてことはない。真顔だ。しかし村雨はその真顔でクソつまらないジョークを飛ばすので判断が難しい。
少々待ってみたが、村雨は先の台詞を撤回する様子もなく、むしろ獅子神の発言を待っているようだった。
仕方がなく、恐る恐る、そろりと、獅子神は口を開く。
「お前これまさかとは思うが告白のつもりなのか……?」
「まさかとはなんだ。あなた失礼だぞ」
「あっ違った? 悪い、オレてっきり……だよな、お前がそんなベッタベタな」
「愛の告白のつもりだが」
「告白なんじゃねーか!!」
勢い込んで手の中の花束を床に叩きつけそうになるが直前で花に罪はないと理性が働き、行き先を床からカウンターへ変える。村雨はどこか不服げにそっとカウンターへ置かれた花束を横目で見送り、また当然の顔をして「告白だが」と繰り返した。
「新手のジョークか」
「次に冗談と疑ったら私の懐からメスが飛び出すぞ」
「はい」
村雨の眼光がギロリと鋭く光り、冗談扱いしかけた獅子神を射竦める。
獅子神が知る、あるいは想像する愛の告白というヤツは、甘酸っぱかったり色っぽい雰囲気の中で行われるものである。現状どう考えても愛の告白をした者とされた者の間に生まれる空気ではない。
「つーかお前、オレのこと好きなの……?」
「好きだから告白をしている」
「してるか?」
メスを取り出す選択肢のある好意とは。告白は告白でも好意じゃなく殺意の方じゃないのか、と常識に当てはめようとして思い直す。
時折忘れそうになるが、村雨だってあの真経津の友人だ。すなわち変人である。一般的な物差しで測れると考える方が間違いだろう。村雨にとってはメスを突きつけることこそが好意の表れなのかもしれない。そんな好意は御免蒙るが。
「あなたを愛している」
「ぐぅっ」
真剣な表情で見つめられ直球の好意を投げつけられ、獅子神の心臓がドキリと高鳴る。まさかこれがトキメキというヤツなのか。いやこれは村雨と初めてタッグを組んだ試合を思い出したがゆえではないか。真正面から強い視線を浴び想像だにしなかった展開に慄き、あの日感じた死の恐怖が蘇ったことによるトラウマ的な意味での動悸では?
一瞬の高揚の後に獅子神は冷静になる。第一に、そもそもの話として。
「オレお前のこと別に好きじゃねえんだよな」
「は?」
「恋愛! 恋愛って意味の方な! 友達としてはかなり好き! いや本当に!!」
滅多に見ない、というか獅子神が向けられたことのないタイプの表情と地獄の底から響くような声に慌てて言葉を付け足した。
嘘ではない。獅子神は村雨のことを友人として大分好意的に見ている。でなければ夜間に突然訪問されて甲斐甲斐しく世話を焼いたりしない。
だからといって気持ちも伴わずに軽々しく頷いて告白を受け入れては両者不幸になることが目に見える。いつもの濃い隈と顔色の悪さで家政夫になってくれと乞われた方がまだ容易に頷いたかもしれない。さすがに口にはしないが。
「……そ、そういうことだから、悪いけどお前の気持ちには」
「今返事をしろとは言っていない」
「なんなんだよお前は!?」
真面目な話と思ったから比較的素直に聞いていたのに、梯子を外された気分に頭を抱えて獅子神は叫んだ。
村雨の思考は獅子神の理解を越えている。否、それはいつものことだが今日は特に酷い。何もしていないのに精神的な疲労まで感じる程だ。はぁ、とため息を吐いて獅子神は村雨の様子を窺う。
「……チョコ欲しいって、返事が欲しいって意味じゃねーの?」
「バレンタインの、と言っただろう」
「あ? 言ってたけど……は? バレンタインて、えっ」
村雨が度々繰り返してきた『バレンタインの品』。これが意味するところを、獅子神はチョコレートを以て受諾の返事が欲しい、ということだと考えていた。実際、村雨からチョコレートのことだと初めに言われている。
が、もしそれが言葉通りの意味合いであるならば。
「次のバレンタインデー、私はあなたからチョコレートを貰う」
断定である。もはや村雨の中で確固たる意志で決定事項として扱われている。
「次ってお前、来年だろ」
「来年だな」
「気ぃ長すぎじゃね……?」
それまでに村雨の気が変わっている可能性の方が高いのでは、と獅子神としては思うのだが、村雨の考えはそうではないらしい。
「あなたさっき断ろうとしただろう」
「そりゃ断るわ」
「非常に不本意だが、想定内だ」
村雨は言葉通り不本意さを隠しもしない表情で顔を歪ませている。
「だから、これから私はあなたを口説く。その宣言のための告白だ」
「口説くのか?」
「口説く」
「お前が?」
「私が、あなたを、口説く」
子供に言い聞かせるように言葉を句切り、理解できたかと視線で問われる。
あの村雨が好意を持つ相手をどのように口説くのか。興味はそそられるが良い予感もあまりしない。なにせ村雨だ。
犬や猫は狩った獲物を飼い主に見せにくるという。村雨も「見ろ、素晴らしい状態だろう」などと趣味の手術の成果を見せつけたりしてくるかもしれない。村雨とペットを同列に考えてはまた怒られそうだが。いや、それくらいならまだマシな方だ。いつものように怒鳴ってツッコミを入れてお終いにできる。
だがもし。もしも、だ。
「……今返事しちゃダメなのか」
「却下する」
断るつもりだろうと言い当てられ、ぐうと唸る。早々に終わらせて関係の修復に努めれば元通りの仲になれるだろうという打算も見抜かれている。
「せめて私の努力を見るくらいはしてくれていいのでは?」
努力ときた。似合わない言葉だが無下にも否定できず獅子神はさらに唸る。
「うぅ~……」
おそらく獅子神では今村雨を心変わりさせることはできない。ならば取れる方法はひとつ。耐久戦だ。
「私が他に目移りするまで耐えようと考えているようだが、それは愚策だな」
「わっ、わかんねーだろうが! こう、お前の好みドンピシャの相手が現われるかもしんねーし!」
「好みど真ん中の相手なら今目の前にいるな」
「ぐあっ」
ジャブ程度の雑な口説き文句すら発言者が村雨というだけで威力が増す。思わず獅子神は後退りファイティングポーズを取った。
「ふ、はは。ならば賭けるか。私が根負けするか、あなたが受け入れるか」
野生動物さながら怯える獅子神の姿に村雨は笑い、ギャンブルに興じる者らしく賭けを提案してきた。獅子神は完全に甘く見られているし、村雨は口説き落とせる自信があるらしい言い草だ。
「おっと、負けるとわかっている賭けに乗るほどあなたもマヌケではないか」
「あぁ!? いいぜ乗ってやろうじゃねえか、テメーに吠え面かかせてやる!」
わかっているはずなのに、煽られてつい勢いで承諾してしまった。ニヤリと笑みを浮かべた村雨の姿に己の浅慮を後悔するが、引き返すにはプライドが邪魔をする。
とはいえどうせ獅子神の取る戦法に変わりはない。耐久戦。持久戦。それしかない。村雨の口説き文句とやらで落とされる程、獅子神は初心でもチョロくもないと証明してみせるのだ。
「ああ、そうだ。あなたに贈ったこの花束だが、21本包まれている」
「そ、それがなんだよ」
村雨はカウンター上の花束から薔薇を一輪抜き取ると、何をするつもりかと身構える獅子神へと差し出した。
「21本の薔薇には、『真実の愛』という意味があるそうだ」
「ぐわーッ」
「赤い薔薇は『あなたを愛する』、1本なら『私にはあなたしかいない』だとか」
「うぐぅッ」
「プロポーズに最適な品をと頼んだのだが、花言葉とは面白いものだな」
「ぷ、ぷろぽぉず……」
連続コンボを決められ、動揺で激しい動悸に襲われる。全身に冷や汗をかき、獅子神は息も絶え絶えに胸を押さえた。
獅子神が想像していた、村雨がやりそうな頓珍漢な求愛行動とは真逆のベタで直球な好意の表現。まさに恐れていた事態だった。
獅子神は、ベタに弱い。
王道、ハッピーエンド、ご都合主義。
獅子神はそういった物語を、物語として好んでいた。夢見ていると言ってもいい。それは決して幸福とは言えない過去に起因しているのかもしれないし、投資家として成功を収めるに至るまで魑魅魍魎に揉まれ擦り切れてしまったせいかもしれない。
なんにせよ獅子神は遠回しの皮肉や比喩表現は受け流すようになっていて、だからこそ直球ストレートに限りなく弱い。
それこそ恋愛対象でもなければ好みのタイプでもない相手に愛を囁かれ、グラついてしまう程には。
「オ、オレは……!」
村雨は胡散臭さすら感じる程にこやかな笑みを浮かべ獅子神を見つめている。さらにはこれが『愛しいものを見る眼』というヤツなのだと言いたげに一輪の薔薇を獅子神に握らせてきた。
ひぇ、と悲鳴のなり損ないが獅子神の喉から漏れて肩が跳ねる。
「〰〰ッ、オレは! お前なんか! 好きにならねぇからな!」
そうして、負け惜しみにも聞こえる台詞を叫んで獅子神は村雨をキッチンから追い出したのだった。
後日、友人達からは「同じステージに上がっちゃダメじゃない?」「やっぱり敬一君はちょろいな」「私は祝福しよう」などとありがたくもないお言葉を賜ったが、村雨の猛攻に次のバレンタインを待たず陥落しかけている獅子神には関係のないことである。