signal アナウンスにせっつかれるようにコートをあとにして戻ってきたのは一度脱却したはずの三人部屋。二段ベッドと普通のベッドを前に、凪と馬狼と千切は無言のままじゃんけんをした。本来なら普通のベッドを巡って血で血を洗う争いが勃発する場面だが、そうするには三人とも疲れ切っていた。死力を尽くして戦い、負けた直後だ。寝る場所でさらに戦争を起こす力は残っていなかった。
とはいえ闘志ごと尽きたわけではない。この選考は勝ち上がる、そのためにも今夜はさっさと寝て英気を養うべきだ。三人とも言葉少なに食事し、入浴し、そして就寝した数時間後、一瞬目蓋の向こうが明るくなり、凪は目を覚ました。ぱちぱちと瞬きして、そうだ負けたんだと真っ先に思い出したのはそのことだった。悔しさがぶり返してしまい、そのまま眠気を押し流されてしまった。すぐには寝られそうにないなと体を起こし室内を見渡す。千切のベッドが空になっていた。ということはさっき一瞬明るくなったのは千切が出ていったからだろう。トイレだろうか。
少し考えて、凪はそろりとベッドを出た。
「……やっぱり」
ぺたぺたと廊下を歩いてやってきたモニタールーム。完全に勘だったが、そこに千切はいた。振り向いた千切は目を丸くしている。
「起こした? ごめん」
「へーき」
「つかよくここだって分かったな」
「なんとなく」
壁際に積まれたクッションとブランケットを取り、千切の横に腰を下ろす。寝ないのと聞く千切にうんと頷くと、それだけで納得したのか千切はモニターを指差した。映っているのは八人の人間が走り回るフィールド。今日の試合映像だ。
「最初から見る?」
「いいよ、まだそんなに経ってないでしょ」
「うん」
千切だってそこまで集中して見ていたわけではないだろう。明日三人で見返そうとは決めてあるので、これはきっと今の感情を消化するために見ているのだ。
ブランケットを広げて自分と千切の膝にかけたあとは、二人とも無言で画面を見つめた。記録映像に音声は入っていないので、室内は静寂に満ちている。でも脳内では自然とボールを追い、蹴る音が再生されていた。
奪って、奪われて、ゴールして、ゴールされて。
こうして俯瞰で見ると試合中には理解できなかった潔や凛の動きの意味がよく分かった。これをリアルタイムで理解して対応するなんて、改めて潔たちの異質さが際立つ。同時に自分が今ここに取り残されている理由も実感させられて、凪は思わずあーあと声に出した。
「どした?」
「んー、落ちるべくして落ちたんだなって受け止めてる」
「確かに!」
千切は気を悪くするでもなく落ち込むでもなく、からりと笑った。
「こんな理屈じゃない戦い見せられてさ、悔しいし落ち込むけど、文句も言えねえ」
「うん」
「ま、勝つけどさ」
「同意」
潔たちは今日の試合で二次選考を勝ち上がったので、次に戦うとすれば三次選考以降になる。今と同じチームで戦うことはもうないだろうけれど、どんなチームになろうと勝つことは決定事項だ。自身がここを勝ち上がることも『次』は勝つことも決めている千切の横顔に迷いはなかった。
「でもさ、正直俺ら三人で負けることはないだろうけどやっぱ次はバランス取れるヤツ奪った方がいいのかな」
「どうだろ。俺らが攻撃に全フリしすぎなのは確かだけど」
「な。俺とお前と馬狼でパスし合う姿が全く想像できねえ」
「え、俺はお嬢さんにパス出すけど。問題はキングでしょ」
「それもそうか」
二人して全責任を馬狼に押し付けている間も映像は進む。記憶と照らし合わせながら観ていると、けほ、と突然咳がでた。風邪のような感覚ではなく、小骨が引っかかっているような違和感。何度か咳払いしていると千切が大丈夫かと声をかけてきた。
「風邪か?」
「ではないかな……何かが引っかかってる感じ」
千切がボトルを渡してくれたので遠慮なく水を流し込むが、状況はあまり変わらなかった。
「もしかして、喉が嗄れてるんじゃね?」
「え?」
「試合中、大声いっぱい出してたろ。お前普段声張るタイプじゃないしそれでじゃないか?」
思いがけない言葉に目を丸くして思いかえす。試合中はアドレナリンが出っ放しでプレーのことは覚えていても何をどう言ったかまでは記憶が曖昧だった。
「……そんなだった? 俺」
「おう。あ、ほらこのときも……」
示された画面は蜂楽がひとりで走りだしたところだった。試合の終盤だ。潔が抜かれて千切が蜂楽に向かっていき、しかし千切、馬狼と続けて抜かれる。そして──
「ごめんな」
「え?」
最後に凛がゴールを決めて試合終了。そこで映像を止めた千切がぽつりとこぼした言葉の意図が分からなくて横を見ると、千切は真っ直ぐに前を向いたまま続けた。
「止めろって言われたのに止められなかったから」
「……ああ、」
しばらく考えて、さっきの局面のことだと思い至った。止めろ、とかそんなことを言ったような気もする。両チーム次の点が決定打になるという極限の状態だったので、これも曖昧にしか覚えていない。
「え、もしかしてそのときも俺デカい声出してた?」
「出してた出してた」
「マジかー、全然覚えとらん」
「凪もあんな必死な声出せるんだなーって驚いたもん」
「ふーん……」
なんだか妙な気分だ。感情の起伏が乏しい人間である自覚はあるから、そんなふうに言われても実感が湧かなかった。喉を摩りながら思い出そうとしてもやはり朧げだった。
「ま、そりゃ必死にもなるでしょ。じゃなきゃ勝てなかった……いや、負けたんだけど」
「まあなー」
操作画面が映し出されたままのモニターの前で、でもどちらも立ちあがろうとしなかった。まだ選考は続くし早く休むべきなんだろうけれど、そんな気にならない。千切も同じなのか両膝を抱えたままモニターを睨みつけていたが、しばらくして再び口を開いた。
「……俺さ、負けたのはもちろん悔しかったんだけどさ、あのとき蜂楽を止められなかったのもすげー悔しい」
両腕に半ば顔を埋めている千切の表情はよく見えない。声はその内容とは裏腹に静かなものだった。
「でもあのときの蜂楽はヤバかったよ。俺も馬狼も止めらんなかった」
あのとき蜂楽に追いつけたのは潔と凛だけだった。だから、と続けようとした口を噤む。それは敗者の思考だ。相手が誰であろうと勝つつもりで立ち向かうべきだ。悔しいのは凪も同じで、この悔しさはきちんと受け止め飲み込まなければならないものだ。そうして消化して初めて意味を持つ。だから凪が言おうとした言葉はまったく無意味だ。
半端に途切れた凪の言葉を慰めだと捉えたのか、少しだけこちらを向いた千切は薄く笑みを浮かべていた。
「うん、そうなんだけどそうじゃなくて。凪がさ、俺なら届くって言ってくれたのに止めらんなかったから」
だから悔しい、と言われて凪は戸惑った。悔しいのは分かる。でもあのときの相手は蜂楽であり、潔と凛だ。そこに凪は関係あるのだろうか。
「蜂楽たちに負けたのはそりゃ悔しいよ。でもさ、それ以前にらしくなく大声出してまで俺に任せてくれた凪に応えたかったんだ。それができなかったのが悔しい」
「……ふーん?」
相槌を打ったものの、凪はやはり困惑していた。あのとき千切に託したのはただ位置的に千切が一番適任だったからだ。それは信頼なんて聞こえのいいものではなかった。ただ千切の足なら間に合うと思って、実際千切は届いた。止められこそしなかったけれど、凪の予想通り千切は届いたのだ。予想外だったのは蜂楽の覚醒で、千切だけじゃなく凪も馬狼も単純に実力で負けた。あのとき勝負のフィールドに立てていたのは潔と凛だけだった。それが悔しいのはとてもよく分かるけれど。
「……それは違うことなの?」
凪の思考と千切の言葉が噛み合っていないことは分かるけれど、千切の考えが分からない。
言葉が難解なわけではないから、これは互いの思考パターンの違いが原因だろう。共に過ごした時間はまだ短いが、千切と一緒にいるのは気楽で居心地がいい。それは考え方や物事の捉え方が近いからだろうと思っていた。こんな短期間でひとりの人間を理解できるはずもないけれど、思いがけない形で千切との距離を感じてしまった。当たり前のことなのに分からなくてもどかしい。どうして、と考えて答えが出るより先に千切が口を開いた。
「どうかな、俺にとっては別物だけど、他のヤツにしたら同じかも」
急になんだか投げやりになった口調に、凪は少しむっとした。拒絶されたような、千切らしくない諦念が垣間見えたような気がして、応えたかったと言ったくせにここで一歩引くのかと腹立たしくすらあった。
「……じゃあ、次は絶対止めてよ。俺からのパスも絶対受けて」
「何だよいきなり」
「俺に応えられなかったのが悔しいんでしょ。なら俺じゃ届かないボールは全部任せるし千切にしか届かないようなパス出すからね」
「子どもかよ」
その通りだ。我ながら子どもじみていると思う。癇癪を起こして極端な我儘を言って我を通そうとする子どもそのものだ。どうせなら大の字になって暴れようかと提案すればいらねーよと笑われた。その笑みはもういつも通りの千切で、ほっとしたような何かミスをしてしまったような、心許ない心地がした。
今夜はこんなことばかりだ。分かるような分からないような、知っているような知らないような。そんな感覚ばかりが湧いてきて、それは多分千切に起因している。じっと千切を見つめてみるが、やっぱり何も分からなかった。
「まー任せとけよ。今日みたいなことはもうしない。全部止めてやるし受けてやるから、お前ももっとすげえの見せてくれよ、天才」
「……とーぜん」
そろそろ寝るか、と千切は立ち上がった。確かにいい加減に寝ないと明日に響く。のろのろと立ち上がってクッションと適当に畳んだブランケットを元の位置に戻している間に千切はもう部屋を出ていた。スピードスターはフィールド外でも待ってくれないらしい。
「──千切」
赤い影を追って凪もモニタールームを出た。