cgとns カイザーから千切豹馬を紹介されたのは、彼がドイツのチームに移籍してから二ヶ月ほど経ったころだった。はっきりと「恋人だ」と言われた。僕は分かりましたとかよろしくとか当たり障りないことを言って、千切豹馬も久しぶり、よろしくというようなことを言っていた。
久しぶりといっても僕と豹馬は数年前のブルーロックプロジェクトでひと試合やっただけの関係だったので、感覚的にはほぼ初対面に近かった。存在は認識していたし、ドイツに移籍するというニュースを見たときもあのブルーロックプロジェクトの、赤い髪の、イングランドのスピードスターの、といくつかのイメージを抱きはしたけれど、個人としては何も知らないに等しかった。
だからといって悪印象だったというわけじゃない。千切豹馬はブルーロックを出たのちイングランドのチームに所属した実績のある選手だったし、何より美しかった。カイザーに並び立つのに、言葉を選ばずに言えば『合格』だと思った。カイザーが選んで僕に紹介までした時点で僕に言えることは何もなかったけれど、密かにそんなことを思っていたのだ。
もちろん、それを口にするような愚行は犯していない。僕はカイザーの従者を自負し、彼に崇拝に近い感情を抱いてはいるけれど、それとプライベートを混同させたりはしない。
ただ何度もゴシップ誌にすっぱ抜かれたことがあるカイザー自ら紹介してくれた人間であるということはきちんと頭に叩き込んだ。ゴシップ誌の記事の真偽を僕は知らないし、知る必要もない。カイザーが言及したこともない。つまり、豹馬を僕に紹介したということは、そういうことなのだろう。
よろしくと言ったものの、実際は特にかかわることはないだろうと思っていた。理由がない。チームは別だし共通点といえばカイザーのみ。異国に慣れない彼の手助けをしてくれとカイザーから頼まれたのであれば喜んで引き受けただろうが、そういうことは一度もなかった。ドイツは初めてとはいえ彼だって数年をイングランドで過ごしていたのだからそれほど困難なこともなかったのだろうし、何よりもカイザーがサポートしていたのだろう。
だからある晩、急に豹馬から電話が入ったとき僕は心底驚いた。驚き、まさかカイザーに何かあったのかと慌てて通話ボタンをタップした。
『──急に悪いんだけど、今晩泊めてくれない?』
お決まりの挨拶を交わしたあと、まだ辿々しいドイツ語で豹馬は何の説明もなくそう言ってきた。耳をすませばかすかに車の走行音が聞こえてきたのでタクシーに乗っているのかと思いつつ、どうして、カイザーはと聞いてもあとで説明するからと言うばかり。埒が明かないままひとまず彼を迎えると、スマートフォンと財布だけという何とも身軽な状態だった。着の身着のまま飛び出したのがひと目で分かり、その段階でまさかと思った。そしてまさにその予想通りだった。
「カイザーと喧嘩した」
つまり、僕は痴話喧嘩に巻き込まれたのだ。僕が出した水を飲む豹馬に詳細を語る気はなさそうで、僕はこっそりとカイザーにメッセージを送った。豹馬が僕の家に来ていますがご存知ですか。それに対して返ってきたのは一晩保護しておいてくれの一言。どうやら豹馬は野良猫だったらしい。
僕はカイザーには従順な従者であるので、きちんと任務を遂行した。会話は英語で構わないと気遣い、前触れなくやってくる客人など想定していないこの部屋で予備の下着や歯ブラシを提供し着替えを貸してやり、翌朝は早くから彼の服を洗濯した。食事はさすがに僕と同じものを出したが、彼はおいしそうにパンとサラダとフルーツを食べた。食後にはコーヒーを出してやり、洗濯物の乾燥が終わるころにまるで見ていたようなタイミングでカイザーが迎えに来た。リビングに入ってきたカイザーを見た豹馬は昨晩の不機嫌そうな顔を一変させておはようと笑顔で言っていて、ここで一戦始まりやしないかと冷や冷やしていた僕は拍子抜けした。
「ネスが淹れるコーヒー、めっちゃおいしい」
「よかったな。それを飲んだら帰るぞ」
「はーい」
嵐のようにやってきた野良猫はありがとうとやはり辿々しいドイツ語で言ってカイザーと一緒に帰った。残されたのは空になったカップと僕。なんだったんだ。
以来、味をしめたのか野良猫は何度も僕の家に押しかけて来た。慣れてきたのかなけなしの気遣いか、自分の荷物とささやかな手土産を持って彼はやって来る。少しマシになったドイツ語でよろしくと言い、手土産と称して持ち込んだ酒を飲み、翌朝迎えにきたカイザーと共に帰る。喧嘩をしたと言うわりに二人の雰囲気が険悪だったことはなく、かといってこっちから深く踏み込むつもりもなく、僕は少しずつ豹馬の私物が増えていく部屋で日々を過ごしていた。
「またですか」
メッセージを一方的に寄越しただけで当然の顔をして部屋に入ってきた豹馬に少し嫌味を込めて言ってやったこともあるが、うん、よろしくと笑うだけでダメージを与えられたことはない。そこでため息ひとつで受け入れてしまうからますます調子に乗るのだと分かっていたが、追い返してやろうと思ったことはなかった。
「これ、明日の朝に食おうぜ」
そう言って渡されたのはつやつやと輝く林檎。食おうぜ、というのはこの場合剥いてくれと同義である。僕はまたため息ひとつでそれを受け取ってしまった。翌朝、僕が剥いた林檎を豹馬はおいしそうに食べた。
『明日行っていい?』
いつもメッセージでやり取りをする豹馬から珍しく電話があり、出ると開口一番そう言われた。
「いいですけど、珍しいですね。カイザーと喧嘩する予定でも?」
『喧嘩? いや、ないけどなんで?』
「なんでって……」
心底不思議そうに言われて黙り込む。なんでって、そりゃあ。
「……いつも喧嘩したから僕のところに避難してるんでしょう?」
そういう話だったはずだ。原因は僕が預かり知るところではないけれど、少なくとも豹馬の自己申告はそうだった。最近はわざわざ聞くのも馬鹿らしくて来ると言われても理由を聞いたりはしていないが。
『いや、普通に遊びに行きたいなって』
「……そうですか」
『ダメ?』
確認するように聞かれて、僕は言葉に詰まった。さっき一度許可している以上、ここで駄目だと言ってしまえばそれは豹馬の『遊びに行きたい』を否定することになる。明確な、喧嘩中の避難先という理由もないのに受け入れる必要はないのだからそれは責められるようなことではないはずなのに、僕は構わないですよと言っていた。
翌日、豹馬は荷物とワインとチーズを持ってやって来た。僕はあまりワインを飲まないが、そのワインは口に合った。おいしいですね、と思わず漏らすと豹馬はネスが好きそうだと思ってと嬉しそうに笑った。
「ネス、こういう飲みやすいけどちょっとクセがある感じ好きだろ」
「……まあ、このワインは好きです」
「このチーズも多分好きだから食ってみ」
そう言われると素直に食べるのもなんだか癪だったが、わざとらしく避けるのも意識しているのが丸分かりで面白くない。実際そのチーズは僕好みで、にやにや笑う豹馬が小憎らしかった。
喧嘩をする予定はないと言っていたが、翌朝はいつも通りカイザーが迎えに来た。いつもと違っていたのはカイザーが豹馬に楽しかったか、と聞いていたことだ。豹馬は満面の笑みで頷いていた。
「ネス、また来てもいい?」
「……もう少し早めに知らせてください」
「りょーかい!」
じゃあな、と手を振って豹馬は帰っていった。
次に入った連絡は来週の木曜に行ってもいいか、というメッセージだった。早めに知らせてくれという要望をきちんと覚えてくれていたようだ。その日は日中に練習が入っているが夜はフリーだ。そのまま返信すると、分かった、夕食はこっちで準備するからとすぐに返ってきた。豹馬が持ってくる手土産はいつもお酒やつまみや果物程度だが、今回はそうじゃないようだ。まあいつもの気まぐれだろう。短い付き合いだが、こうも入り浸られればさすがにそれくらいは分かる。
「ネス~!」
翌週の木曜日、予定通りにやってきた豹馬の手には見慣れたバッグしかなくて、おやと思っていたら後ろから紙袋をいくつも提げたカイザーが現れて僕は慌ててしまった。いつも通り豹馬がひとりで来るのだろうと思い込んでいたのだ。
そんな僕をよそに豹馬はすっかり勝手知ったる様子でリビングに向かい、カイザーもそのあとに続く。二人を追いかけると、テーブルの上に荷物を広げていた。
「ネス、適当に広げちゃっていい?」
「いいですけど、あっ、カイザー僕がやりますから!」
豹馬に渡された総菜を開けようとするカイザーの手からパックを奪う。豹馬はともかく、カイザーにこんなことはさせられない。
「カイザーは座っててください。豹馬、棚からお皿をお願いします」
「はーい」
お皿やカトラリーの準備を豹馬に任せて惣菜を開けていく。なんでもない日の夕食にしては随分豪華なメニューだった。量も明らかに三人分か、それ以上ある。
「ネス、これは冷蔵庫に入れておくぞ」
「あっ、カイザー僕がやりますって」
「お前はそっちをやってろ」
止める間もなく要冷蔵らしいものを冷蔵庫にしまわれて、項垂れる間もなく豹馬がグラスはこれでいいかと聞いてくる。こっちはまだカイザーの登場すら処理しきれていないのに展開が早い。深く考えることを放棄して手を動かした。
「よし、こんなもんか」
「これを忘れてるぞ豹馬」
「そうだった」
一通り並べ終えてからカイザーが紙袋から取り出したのは小さな花束とそれに合いそうなサイズの花瓶。豹馬は花瓶に水を入れると花束の包みを解いてズボッと音がしそうな勢いで花瓶に挿した。僕だってフラワーアレンジメントの知識なんてないが、さすがにそれはどうなんだと思っていると呆れた顔のカイザーが手を出しちょんちょんと花の位置を整えた。
「今度こそできたな」
「はあ……何かあるんですか?」
いつもより豪華なメニューと花束が並ぶテーブルはまるでパーティーのようだが、開催理由に心当たりがない。首を傾げているとビールをグラスに注いでいた豹馬がは?と呆れた声を上げた。
「何かって、ネスの誕生日だろ」
「え、」
「明日なんだろ?」
「……そうです、けど」
「さすがに当日はやめとくかと思って今日になったんだよ」
ちらりとカイザーを見ると無言のまま顎で軽く豹馬を示す。つまり、すべては豹馬が計画したことだということだろう。
「あ、さっきカイザーが冷蔵庫に入れたのはケーキな。小さいヤツだからあとで食おう」
「……どうしてですか?」
「え?」
僕にはまったく心当たりがなかった。確かに明日は僕の誕生日だ。プロフィールはいたるところで公開されているのでそれを知るのは容易だっただろう。でもだからといって豹馬が僕の誕生日を祝う理由が理解できない。
豹馬はなんでって、とそれこそ理解できないという顔で首を傾げた。
「友だちの誕生日を祝うってそんなにおかしいか?」
「え、」
「一応カイザーに確認していいんじゃないかって言われたんだけど……」
思わぬ助言者だ。再びカイザーを見るが、我関せずという顔でそっぽを向かれた。僕にはヒントを与えてくれないらしい。
「いやだったか?」
「いや、と言いますか……」
いくつもの言葉が頭を過ぎる。そのどれもが正しくて、でもどれもが間違っているような気もして、結局僕は驚きました、とだけ言った。
チームメイトからおめでとうと言われたりファンからバースデーカードやプレゼントをもらったりしたことはある。でもこんなふうに祝われた記憶はなくて、そもそも可能性すら僕の中にはなくて、未知の世界の出来事みたいだった。
「ならサプライズ成功だな」
豹馬は上機嫌だった。
彼の音頭で乾杯し、料理を食べ、ケーキを食べた。小さいと言っていたとおり一般的なケーキの半分もなさそうなのは栄養管理の面を気遣ってくれたのだろう。
食べ終えても主役だからと後片付けの手伝いすらさせてもらえず、自宅のキッチンに並んで立つカイザーと豹馬という白昼夢のような光景をぼんやりと眺めた。
「じゃあそろそろ帰るな」
「え、泊まらないんですか?」
「さすがに二人は泊まれないだろ」
「……そう、ですね」
広さに余裕はあるが、大人二人を泊めるだけの設備はない。冷静に考えれば分かりそうなものを、てっきり泊まっていくのだろうと思い込んでいた。
来たときと一変して身軽になった二人を玄関で見送る。
「ありがとな。また連絡する」
「いえ、こちらこそありがとうございました」
「じゃあおやすみ」
「ネス、いい誕生日を」
「あっ、ありがとうございます……!」
二人がいなくなったリビングはすっかり元通りに片付けられている。けれどシンクに伏せられたまだ濡れている食器類とテーブルの真ん中に置かれた小さな花束が今日という日の存在を証明していた。
椅子に座りスマートフォンを開く。インターネットでHyoma Chigiriと検索してあっさりと判明した彼の誕生日を、僕はカレンダーに登録した。何かと気忙しい時期の誕生日はなんだか彼らしい。まだ少し先のその日が楽しみになった。