The day before 自分の腕に表れた紋章を見て、最悪だ、と思った。
賢者の魔法使いに選ばれる。そのことが何を意味するか、知っていたからだ。
特別な使命を課され、年に一度〈厄災〉との戦いに駆り出される。ネロは魔法使いであることを隠して生きていたし、魔法らしい魔法なんか何年も使っていない。自分が適任だとは思えなかった。
魔法自体を好ましく思うことができないので、他の魔法使いとだってできれば関わりたくない。招集された間は、店も閉めなくてはならないだろう。
「ハァ……」
現に今だって、明日を臨時休業にするための準備をしている。
表に貼り紙を出さねばならない。明後日も休業と書いておくべきだろうか。でも、顔合わせだけで済むなら早く帰れるかも。
希望的な予測が当たる方に賭け、一日のみ休業と書いた。
明後日は、もう何十年も通ってくれているご老人が食事に来る日のはずだ。彼に料理を振る舞うことはネロの密かな楽しみの一つだった。できれば明後日までには戻りたい。
閉店作業も終わり、すっかり片付いた店内を見回す。
広くはないが、清潔感と温かみのある内装。きちんと磨かれ揃えられた食器たち。使い込まれた調理器具。
急な引越しにも、対応可能な量のそれら。
ここにあるのは、淋しくて愛おしい日常だ。ここ数百年のあいだのネロのすべて。
それを「築きあげた」と言うのは違うかもしれない。少し積み上がってはまたゼロに戻し、持ちすぎないように、増えすぎないようにと心掛けていたからだ。物理的な荷物の量だけではなく、他人との縁も。
いつしかそれは、すっかり体に染み付いた生き方の癖になった。
(始めの頃は、客と揉めたりもしたっけ。)
最初に開いた店では、常連のグループ客と仲良くなった。だが、そのうちの一人がネロを気に入りすぎて、歳はいくつだとか誕生日はいつだとか、いろいろと都合の悪いことをを知りたがるようになってしまった。適度に距離を置こうにも、閉店後に飲もう、と店内で待たれると逃げ場はない。
そんなことがあって、最初の店は予定より早く畳んでしまった。
(悪いやつではなかったんだけどな。)
あの青年は、挨拶もなく去った自分を恨んだだろうか。ネロはその街を二度と訪れなかったので、知るよしもない。
気取らない料理屋の店主なんかやっていると、友人、に近い馴染み客ができることは珍しくない。ネロも元来人が嫌いな質ではなく、特に晩酌していると人恋しくなることが多かった。閉店後に一杯やらないか、とつい声を掛けたくなることもある。
だが、実際にネロから声を掛けることはなかったし、誘われても固辞した。他人と深く付き合うとロクなことがないという数百年来の人生訓が、ネロを踏みとどまらせた。
結局人と人とは、傷つけ合うか、必要以上に関わらないかのどちらかしかないのだ。
心の柔らかい膜の内側に土足で入って来られたくないくせに、たまには気の置けない相手と、愚痴を聞き合ったり馬鹿馬鹿しい話で笑い合ったりしたい、だなんて。そんな都合の良い話はないだろう。
今晩中にはここを発たねばならないと思うと、憂鬱だ。招集に応じれば、魔法使いなんていう癖の強い連中と知り合って、毎年のように顔を合わせることになる。
(まあ、必要以上に関わらなけりゃいい。)
相手の名前を覚える前に、相手に名前を覚えられる前に距離を置く。今日までやってきたことと同じようにするだけだ。
魔法使いの連中も、しがない料理人のことなんか大して気にも留めないはずだ。そう思うと多少は気が楽だった。
いつもより時間をかけて、丁寧に閉店作業をした。
この時間からでも、エレベーターの塔まで飛んでいけば間に合うだろう。久しく使っていなかった箒を引っ張り出し、軽く埃を払う。店の勝手口を出て空を見上げると、いつにもまして月が眩しくて、思わず顔を顰めた。
店から少し離れた森まで歩いてから、箒に跨る。地面を蹴ると、ザアッと風が巻き起こる音がした。
何の荷物も持たぬ料理人が、夜空へ飛び立つ音だった。