かわいいひと ネロはよく、「かわいい」と口にする。
特に最近の彼には困りものだ。なぜなら、子供たちに対してだけでなく、ファウストにも「かわいい」と言ってくるようになったから。
ファウストだって、ついネロの言葉遣いをかわいいと思ったのが口に出ていたり、あまり人のことは言えないかもしれない。
それでも、あの男の「かわいい」は何か違うのだ。いたずらっぽく笑って、甘く蕩けそうな蜂蜜色の目で真っ直ぐこちらを見ながら発せられる「かわいい」には、何やらファウストをそわそわさせる、特別な力が込められているようで落ち着かない。
この間だって、裏庭で魔草採りに熱中していたファウストが、鼻先に土をつけたまま帰ってきたのを見て、
「かわいいな、先生」
と例の顔でそう言って、「触っていい?」と許可を得てから、土汚れを優しい手つきで払ってくれた。
困る。非常に困る。だって、こんなのおかしいだろう。
あの男は、ファウストを振ったのだから。
「今晩、一杯付き合わないか」
「お、いいねえ。こないだ買った珍しい銘柄があるんだ。つまみも作るよ」
「じゃあ、きみの部屋だな」
いつもと変わらないやりとりだ。でも、ファウストは密かにあることを決心している。
決心というより、賭けに近い。
ネロの用意した酒も料理もいつにもまして絶品だった。話もはずみ、酒もすすむ。
互いにほどよく酔ったところで、ネロは不意に言った。
「先生さあ、その目と鼻がキュってなるの、かわいいよな」
酔うとときどきやってるよ、その顔。ネロはいたずらっぽく笑って、ファウストの反応を待っている。
きた、「かわいい」。もし今晩これを聞いたら、ファウストはひとつ、この男に意地悪をしてやろうと決めていたのだ。
一線を超えようとすると臆してはぐらかすくせに、こんな顔してかわいいかわいいと言ってくる、このずるい男に。
「ネロ、きみはかわいいって、僕に何度か言ってるけど」
「かわいいって、『愛す可し』って書くんだよ」
僕がいつまでも大人しくしていると思ってるなら、大間違いだ。ネロだってたまには慌てたらいい。
形勢逆転、そう思ったけれど。
「しってる」
「え?」
「わかって言ってた。あんたが待ってくれてるの、知ってたのに。ズルいよな」
「俺、本当にどうしようもなくて。誰かを大事にするのもされるのも、できるわけないって思ってて。でも、俺なんかより全然たくましい先生見てたら、あんたとならそういうのもいいかなって」
ファウストは混乱した。はぐらかすのをやめたネロのまっすぐな言葉たちが、矢継ぎ早に飛んできて、顔を上げているのもいっぱいいっぱいである。
「なあ、もうだめか?もう遅い?」
「だめでも、あんたは大事な友達だし、それでもいいけど、やっぱりあんたに、ファウストに触りたいって、思っちまった」
「かわいいってのも、そういう意味で言ってた。でも、あんたが嫌ならやめるよ」
酒のせいなのか、別の何かのせいか、黄金の瞳が潤んできらきらと光った。その目が、許しを乞うてこちらを見つめる。
裁かれんとする男の供述をすべて聞き終えたファウストは、目の前のグラスを勢いよく一気に煽った。判決を告げねばならない。
ああ、まったくもう、本当に。
「可愛いのはきみだよ!」
ファウストのよく通る声が、夜更けの魔法舎に響き渡った。