忘れえぬ景色 一階の出窓に、青色の丸い頭が見えた。
そこにいるのは、ファウストと同じ東の魔法使い。兼、料理番でもあるネロだ。
お昼どきの山を越えた後、夕食の準備までの小休止。彼はいつも調理場の窓辺に腰掛け、短い休息をとる。
ファウストは依頼された呪術に必要なもののために、勝手口から裏庭へ出たところだ。
ネロはファウストの視線には気づいていない。いかにも暢気そうな顔で、雲の流れを眺めている。気配に敏感なこの男にしては珍しい。
(天気が良すぎるせいかな。)
今日は見事な秋晴れだ。この時期、裏庭に面したその窓で黄昏時にかけての時間を過ごすのは、さぞ気持ちがいいだろう。
声をかけようかと一瞬迷ったが、なんとなく邪魔したくなくて、思いとどまった。
さっさと用事を済ませてしまおうと、薬草の生えた一画に足を向ける。
(英雄の窓辺、か)
ファウストは、薬草を採りながら考える。今回必要なのは根の部分なので、スコップでまず根の周囲を広めに掘って、それから土を丁寧に落としていく必要があった。土まみれになる地味な作業だが、ファウストは嫌いではない。
(もし僕がこのタイトルの絵を描くなら、さっきの場面にするのに。)
調理場の出窓から裏庭を眺める、僕らの料理人を描く。
本当にそんなことをしたら、ネロは嫌がるだろう。だから、仮にファウストが画家だったとしても、そんな絵は描かない。英雄だなんて柄じゃないからよしてくれと、苦い顔をされるのが目に見えるようだ。
(だが……。)
ファウストは想い出す。
任務時に子供たちに危険が及ぶのを、細やかなフォローで何度も未然に防いでくれたこと。眠れない夜、何も聞かずに部屋に招いて、ホットワインを飲ませてくれたこと。年下の自分を「先生」と認めていると、何よりも態度で示してくれること。
そういうことのひとつひとつに、どれだけ助けられているか。
何より、この男の前では、無理に善く在ろうとする必要も悪く在ろうとする必要もないのだと、そう思えることが、どれだけ僕の呼吸を楽にしてくれるか。
彼がそれを知ることは、きっとないのだけれど。
(本当はきみのような者を、英雄と呼ぶべきなんだ。)
「英雄の窓辺」。それは、実際に存在する絵画の名だ。描かれているのは、他ならぬファウストである。
若かりし頃のファウストを描いた絵画はこの世界にごまんとある。これは、その有名な一つだ。
描いた画家には悪いが、くだらない絵だと思った。今だってそう思う。
ただ、自分の心を照らしてくれた誰かを絵に残したいという気持ちだけは理解できると、今は素直に言える気がした。
(まあ、だからといって、その絵自体を肯定する気にはなれないが。)
こんな天気の良い日に明るい裏庭を眺める、気の抜けた顔の料理人の方が、よほど良い絵に決まっている。
思索に耽っている間も黙々と手は動き、気づけば作業が終わっていた。顔を上げると、傾いた日に朱く照らされた魔法舎と、相変わらず同じ場所にいる青い頭が見えた。
僕らは他の生きものたちより永い時間を生きるが、それでも同じ瞬間は二度と訪れないことを知っている。
「ネロ!」
なぜだか無性に名前を呼びたくなった。と思ったら、本当に声に出ていたので、自分に驚く。
呼ばれてこちらに気付いた彼が、笑いながら手を振っている。何か言っているが、よく聞きとれない。「先生か。おつかれさん」とかそんなところだろう。
ファウストがあの窓辺の下へ辿り着いたら、英雄はきっと夕飯のリクエストを尋ねる。
それに何と答えるか考えながら、ファウストはゆっくりと歩き出した。