花が枯れたら会いに来て 洗濯物が溜まった日の朝は早く起きる。そうでなければ昼過ぎに起床して、朝昼兼用の食事を取る。洗濯物があったとしても天気が悪ければやっぱり昼過ぎに起床する。それがファウストの、嵐の谷での生活だった。ここ東の国は、晴れの日が他国と比べて少ない。それに加えて谷での生活は天気に左右されやすいので、晴天の朝を逃すと着るものに困ってしまう。
昨晩、ファウストは寝る前に戸締りをしながら、次の日が快晴になると察した。何百年も生きているからか、はたまた彼が魔法使いだからなのか、その因果関係は不明だけれど、ファウストは150歳を超えたあたりから、次の日の天候を空気中の水分量や風の動き、その土地の精霊のざわめきによって予測できるようになった。同じことを言う魔法使いもいれば、何百年も生きていてもその感覚自体がわからないという者もいる。
今日は二週間ぶりの快晴だ。起きてシーツも洗いたい。だけど肌寒くなってきたこの季節に朝早くから布団を出るのは拷問に近い。ファウストは布団に包まり目を瞑りながら一人で葛藤する。そうしている間に、世話を焼いている猫が寝ているファウストの身体の上に乗って、あくびをした。猫はなぜ寝ている人の上に乗りたがるのだろう。その程よい重みがますますファウストをベッドに引き留めた。
「ファウスト、もう起きてる?」
そう呼びかけられてようやく目を開けると、既に顔を洗って活動モードに入ったネロが立っていた。そうだ、この男は魔法舎にいた時から誰よりも早く起きて働いていた。
「寝てたのに起こしてごめん。いま洗濯してるんだけど、あんたのシーツも洗っちゃう? それとももう少し寝る?」
「……洗う」
「そか。じゃあ悪いけどこれもらうな」
今日寒いね、と言って、ネロは渋々ベッドから抜け出すファウストの身体にブランケットを掛けた。気の利く男だ、と寝ぼけた頭で関心している間に、ネロはてきぱきとシーツを回収して部屋を出ていった。
まだ眠い。本当はあと2時間は寝ていたい。だけど居候の彼だけに家事を押し付けるわけにはいかない。ファウストはブランケットにくるまりながら洗面所に向かう。足元で先ほどまでファウストの上を陣取っていた猫がまとわりついてきた。真ん丸の黒い目をこちらにじっと向けながら足だけちゃきちゃきと動かすその小さな体に、思わず頬が緩む。
「全部やってもらって悪い。何か手伝えることある?」
「んや、住まわせてもらってる身だし、これくらいやらせてよ」
「別に気にすることない」
「あー、あと30分くらいでパンが焼けて朝飯にするから、それまでのんびりしてて。コーヒーもそこに淹れてあるから」
顔を洗ってすっきりした状態でキッチンに向かうと、テーブルやキッチンには既に朝食の下ごしらえがなされていた。ネロのいう通りパンが焼かれているようで、キッチンには小麦のあまい匂いが充満していた。ファウストは用意されていたコーヒーにミルクと少しのシュガーを入れて飲む。温度を保つ魔法がかけてあったのか、思っていたよりも温かくて少しびくついた。
ファウストはソファに腰かけながら、自分から離れようとしない猫を膝に乗せ、窓の外を見る。予想していた通り、外はカラッと晴れて雲一つない天気だった。木々も青く茂っている。
庭でネロが大きなランドリーバスケットをかかえながら、洗濯物を干しているのが見えた。料理には魔法を使わない主義の彼だが、洗濯物を干す際も器用に手を動かした。いくつもの大小さまざまな衣服を、魔法を使わずに器用に干していった。あっという間に作業を済ませて、ファウストのくつろぐ家に戻ってくる。
「その猫、あんたにすげぇ懐いてんだな」
「うん。一年くらい前からここにやってきた子で、人懐っこいんだ」
「俺も仲良くなれるかな」
「なれるよ。君は猫にも好かれやすいから」
「はは、そりゃどーも」
パンが焼きあがり、ネロがしゃがんでそのオーブンのドアを開けている様子を、ファウストはソファから眺めていた。「お!」と普段よりもワントーン明るい声が聞こえたため、今日は成功なのだと推測する。ファウストは彼の方へ近づき、手元を覗き込むと、形も色も綺麗に揃った丸いパンが等間隔に並んでいた。
「美味しそうだ」
「うん、けっこー上手くいった。パン焼くの久々だったから緊張したけど良かった」
「たとえ失敗しても美味しくいただくから安心して」
「俺が嫌なの」
あんたにはうまいもん食べさせたいから。
そう言って、ネロはパンの粗熱を取っている間、急いで他の料理を仕上げる。既に作っていたミネストローネに火をかけて温め直し、あらかじめ用意していた卵液でスクランブルエッグを作る。ザルにあげていた葉物野菜をささっと二つの皿に分けて盛り付け、流れるような手つきで作業を進めていく。まるでもう何年もこのキッチンに立ってきたかのような手際の良さだった。
「ミネストローネにチーズ削る?」
「うん、お願い」
ファウストが淹れなおしたコーヒーと、ネロが用意した朝食がテーブルに並んだ。晴れた日の朝は室内でもどこか空気が澄んでいて、普段よりも心なしか身体の調子がいい気がする、とファウストはコーヒーを飲みながら思った。
ファウストはネロの方をちらりと見る。何でもなさそうな顔をして朝ごはんを食べるネロの目元には、深い隈が残っていた。それは一朝一夕でできるようなものではなく、慢性的な跡である気がした。
「ネロ、洗濯したり朝食を作ったりして、朝が早かったんじゃないか? 僕は朝食を取ったら夕方まで街へ行くから君は好きに寝るなり休むなりしてくれ」
「あー……、うん。ありがと。夕飯は家で食う?」
「そのつもりだけど。作ってくれるの?」
「それくらいしか俺に出来ることねーもん。食品庫の中のものって好きに使ってもいい?」
「あぁ、君の好きにしてくれ。助かる」
「ううん、こちらこそありがと」
ネロはそれ以上何も言わず、食事を続けた。会話はなかったけれど、相変わらずコーヒーがマグカップの底をつきそうになったらファウストが何か言う前にネロはお代わりを促し、ファウストがパンを手にした瞬間に、ネロは彼のそばにバターを置いた。
魔法舎で暮らしていた時からそうだった。彼はそういう過ごしやすさを何食わぬ顔で作ってみせる。ネロのそれは、受け取り手が気づかないほどいつも静かだ。ファウストはその気遣いの一つ一つに礼を言いながら、コーヒーのお代わりを貰い、パンにバターを塗った。
「夕飯、肉と魚のどっちがいいかな」
「朝食を食べながらもう夕食の話? うちのシェフは仕事熱心だな」
「はは、たしかに。気が早かったな」
「食事は気にしなくてもいいから、君は好きに過ごしなさい」
そうしようかなぁ、と呟くネロは、どこか遠くを見ていて、同じ食卓を囲って同じものを食べているのに、別の家にいるみたいだった。
ファウストとしては、食事や洗濯なんかより、ネロにはこの暖かい天気の一日をのんびり昼寝したり、ぬくい猫を抱きながらソファでだらけたりして過ごしてほしいという思いが本音だった。引きこもりの彼が今日一日街に出かける理由の半分も、ネロに家主のことを気にせずに寛いでほしいという思いからきたものだ。
しかしファウストは確信した。ネロは今日も休む気が無いのだと。
きっとファウストが帰ってきたら、家は出る前よりも綺麗になって、食事もしっかりと用意されているだろう。それは次の日の天気を予測するよりも容易な想像だった。
二週間前、ネロは突然ファウストの家を訪れた。何の前触れも連絡もなく、唐突に。二人が会うのは数十年ぶりのことだった。ファウストは突然の訪問の理由を深く尋ねることなく、ネロをもてなした。ハーブティーを淹れて、菓子を出した。積もる話も多く、ネロは昼過ぎにやってきたのに、話がひと段落着いた頃にはもうあたりは真っ暗になった。
「今日はどうする?」
帰るか、別の目的地に向かうのか、それともこの家に泊まるのか。ファウストは暗にそう問いかけた。ネロは何かを言いたげな様子であったが、一向にはっきりしない様子だった。
「……なんかさ、親しい人に会いたくなって、あんたが真っ先に思い浮かんでここに来ちゃったんだ」
「うん」
「子どもみたいなこと言うけど……、あんたと会えて楽しかったから、離れがたいなって」
ネロの口からそんな言葉が出るとは思っておらず、思わずテーブルの上に置かれたネロの手を握ってしまった。ファウストの行動に驚いたネロは、目を丸くして向かいに座る男を見た。
「……君さえよければ、ここに泊まっていい」
「え、でも」
「君は今も店を営んでいるってさっき言っていたね」
「うん」
「店の都合は大丈夫なの?」
「あー……うん、まぁ大丈夫」
いろいろあって、しばらくは休み。ネロは小さくそう言った。
「君が居たいと思うだけ、ここにいればいい。僕もネロと過ごす時間が好きだから、僕の活動の邪魔さえしなければ別にどれだけいても構わない」
「まじ? でもファウストの……」
「宿泊代として、食事を作ってもらうって条件でどうだ?」
「……迷惑じゃない?」
「寧ろ僕としては、毎日シェフの美味しい食事が食べられる上に喋り相手がいて良いことしかないが?」
「……あんた、変わってねぇな」
ネロはファウストの手をそっと握り返して、小さく笑った。眉を垂れ下げながら口を緩める笑い方は、彼が魔法舎で生活をしていた時からよくする仕草の一つでもあった。ファウストはその表情をみて、途端に懐かしさを覚えた。
「じゃあネロ。明日からよろしく」
「うん、ありがとうファウスト」
その日の夜、ファウストはベッドの中でずっとネロのことを考えた。
あの頃よりさらに覇気のなくなった声、不健康な顔色、筋張った手の甲。どれもファウストの不安を掻き立てる要素でしかなかった。咄嗟に機転を利かすのは不得意であったが、何とか引き留められてよかったと安心した。あの状態のネロをそのまま返したら、きっと百年は後悔していただろう。
ファウストは、この一人の生活をいたく気に入っていた。自分以外の人がいない、自由を愛していた。一方で、かつて共に生活し、共に戦った仲間には特別な情がある。何百年も一人を満喫してきたのだから、今更一人でいることに固執する必要もないと思った。今はあの状態のネロを放っておきたくなかった。
▽▽▽▽▽
180年前に突如近づいた月のせいで、多くの仲間を失い、同時に賢者の魔法使いも大勢呼び出された。そのうちの一人にネロがいた。二人は魔法舎で同じ時を過ごしたが、その30年後、つまり今から150年前にネロとファウストを含む何人かの仲間たちは魔法舎を出て、自由な暮らしを再び手に入れた。
近づきすぎていた月が何らかの要因で遠ざかり、あの場所で集まって生活する必要がなくなったからだ。かつて世紀の天才とも呼ばれたムルにも、その理由は未だにわからない。
もちろんあそこに残って生活を続ける者もいたが、ファウストとネロを含む複数人は集団生活とは一旦区切りをつけた。また大いなる厄災の日になったら集まりましょう、それまではお元気で、と綺麗に解散した。
その数年後の厄災の日に、ネロは来なかった。彼は魔法舎を出てから毎年律義に戦いに参加していたので、彼の身に何かあったのではないかとファウストは案じた。何か知らないか、とファウストは同じく賢者の魔法使いであるブラッドリーに尋ねた。
「あ? お前あいつとナカヨシだったのに知らねぇのか」
「なんだ、知っているなら早く言え」
「結婚」
「は?」
「だから、あいつ結婚したんだよ、人間の女と。そういう計らいで、今年からはよっぽどのことが無ければあいつは来ないってよ。残念だったな」
「……」
後日ネロの元を訪ねると、黙っていたことがバレて気まずいのか、困ったように笑ってファウストを出迎えた。ネロは店を移転させると律義にシノやヒースクリフ、そしてファウストにその場所を知らせた。この日もファウストはネロの今の店を訪れ、そこは丁度ランチの終わりがけの時間だった。
「いまランチタイムの最後の客が帰ったところなんだ。少し早いけどあんたも来たし、もう店閉めちまうか」
ネロはそう言って、店の扉にランチ終了の札をかけてから、ファウストの待つ店内に戻った。
「あー……、あんた腹減ってる? 今日のランチの目玉がビーフストロガノフで、丁度一人前残ってるから」
「じゃあもらおうかな」
「付け合わせは米? パン?」
「パンで」
「はいよ」
ネロが厨房で食事を用意する間、ファウストは店内を見回した。今の店に来るのは二度目だった。店内の装飾は前回訪れた時と殆ど変わっていない。先ほどまでランチで賑わっていたはずなのに、ホールは隅々まで綺麗だった。
「ほいよ、おまたせ。残ってたおかずいろいろ乗っけちまったから、もし食べきれなかったら残していいよ」
「ありがとう。君のご飯は久しぶりだ」
メインのビーフストロガノフに加え、グリーンサラダといろいろな惣菜の乗った皿をファウストの前に差し出した。ネロはファウストと向かい合うように座って、コーヒーを飲みながら一息つく。
「君に会うのもちょうど一年ぶりだね。前回の大いなる厄災との戦い以来」
「あー……」
「別に責めているわけじゃないよ。ただ、正直なことを言うと何も知らせてもらえなかったことが少し寂しかっただけ。それに関する質問は、今日君に会いにきた目的の半分くらいでしかなくて、残り半分は君のご飯が食べたかったからだ」
「今年は魔法舎で作ってやれなかったもんな。子どもたちは元気そうだった?」
「あぁ。リケは背が伸びてた。シノはそのままだったけど。みんな君に会えなくて寂しがってたよ」
照れを隠すように、ネロはコーヒーをすすった。こういう時の誤魔化し方がいつまでも下手な男だとファウストは思った。
「本題だけど」
「ん。もう何でも聞いてください」
「君が結婚だなんて、ましてや人間の女性がお相手なんて、聞いてびっくりした」
「どうせブラッドリーが漏らしたんだろ」
「口止めしてたの?」
「んや、別に隠してはねぇけど……、何か恥ずかしいだろ、俺が結婚なんて」
らしくないって俺が一番わかってる。そう言うネロの表情が、困っているみたいな、虫の居所が悪いような、何とも言えない表情だったので、ファウストはこれ以上あまり意地悪なことを言えないと思った。
「どういうきっかけで知り合った方なんだ」
「ここに店を構える時に、出店に関する手続きを役所でしてたんだ。丁度その時役所に来ていた彼女は他の国から越してきたらしくて、無駄に多すぎる手続きに困ってて」
「それで君は助けた、と」
「……まぁ、引っ越しには慣れてるから、少し助けるくらいならって。そんでまぁ」
「言い寄られた、と」
「それだけだったらいつも通り有耶無耶にして躱していたんだけど……」
ファウストは、ネロが他者から好意を持たれやすい性質の男であることを理解していた。他人と一緒にいることに向いていない、とネロは自称するが、実際のところネロが一緒にいる相手の細かいところまで見て、心地の良い空間を作る才を持っていることを、ファウストは十分なほど知っている。
「……ちゃんと断ろうって思ったんだ。あんな若くて綺麗な人間の子を、俺なんかに付き合わせるのも申し訳が無さすぎるって」
「うん」
「でも、あの魔法舎でみんなと暮らして、自信とは違うかもしれないけど……俺にも誰かと一緒に生活するって人生の選択肢があったのかもなって……」
まぁ、要は自惚れてたのかもな、とネロは自嘲するように笑った。
彼のはっきりとしない物言いが、ファウストには理解ができた。ネロが得た感情と似たものを、ファウストも魔法舎を出てから感じたからだ。
大勢の魔法使いと人間の賢者と共に暮らし、はじめは無理だと思っていた共同生活にも次第に慣れていく。依頼で東の国だけでなく他国のいろいろな場所を訪れて、人間にも魔法使いにも手を貸してきた。決していい思い出だけではない。何度も危険な目に遭い、死にかけて、かつては仲間も石になり、もうこんな役目から早く降りたいと思ったこともある。
しかし、次第にその場所が心地の良い居住地にもなっていった。そしてその感覚は、魔法舎を出てからようやく実感する。何百年も生きてきて、自分の心にもこんな気持ちになる余剰がまだ残っていたのか、とファウストは嵐の谷の家に戻ってから、ふと感じた。
「その、君のお相手は君が魔法使いであることを知っているのか?」
「あぁ。彼女の親戚が賢者の魔法使いの記念メダルを集めるのが趣味だったみたいでさ、俺たちのメダルも親戚の家にたくさんあったらしい。よくそのコレクションを見せられていたから、俺が役所で話しかけた時から気づいてたってよ」
「それは幸いだな」
「……だから何度も言ったんだ。親戚のおじさんが若い頃集めていたメダルに描かれている顔と、今の俺の顔が同じであるように、俺たち魔法使いと人間は時の流れが違うって。仮に結婚して、一緒に生活を営むとなっても、必ずガタが来る。そんな暗い終わりが見えている関係なんて、最初っから始めるべきじゃないって」
「まぁ賢明な意見だな。それに対して彼女は何て?」
「『終わりがたとえ暗くても、終わるまでの道筋が明るければいい。どうせあなたを今手放して他の人の元へ行っても私の心にはずっとあなたがいて、残りの人生が明るく照らされることはない』って。すげぇよなぁ。その時、まだ彼女は30年も生きてないんだぜ?」
「ふふ、なかなかに説得の難しそうな御方だな」
「勘弁してくれよって思ったさ。でも何度もそう説得されて、そうするうちに、人間の人生に比べて長すぎる俺の人生を、出し惜しみする必要なんてないかって。……いや、これは何だか他責で自虐的すぎるな」
ネロは既に空になったマグカップを、手慰みに握りながら、ゆっくりと言葉を選んだ。その間、ファウストは何も言わなかった。
「……きっと、俺が惚れたんだ。何度も説得されるうちに、この子と一緒に過ごしたら楽しいだろうなって。そんなときに、彼女が言ったんだ。『あなたの長い人生のほんの一部でいいから、私をそばに置いてみない? きっと思っているより悪くないし、思い返して楽しかったなぁって思えるだろうから』って」
「君の好きそうな人だ。意思が固くて、自分を持っていて、物事に肯定的な人が君は好きだろう」
「……そんな経緯で、まぁ、去年の冬ごろからそういうことになりました」
「おめでとう。君の新たな人生の幕開けを心から祝福するよ」
「てなわけで、俺ももうすぐ父親になるし、最近の厄災は特別力も強くないしってことで今年から……」
「子どもにも恵まれたのか!?」
その報せにはさすがのファウストも驚きを隠せず、二人しかいない店内に響く声で聞き返した。ネロは耳まで赤くして、頷いた。
ファウストがブラッドリーからこの結婚の話を聞いた時、初めからネロのことを祝福するつもりだった。大切な友人が、新しい人生を歩むことを心から祝いたいと思い、ここに足を運んだ。しかし、子どもが産まれるという報せを聞いて、一瞬嫌な想像が頭をよぎった。何とも言えない表情のファウストを見て、ネロは笑った。きっと考えていることは同じなのだろう。
「あんたが言いたいことはわかってるよ」
「す、すまない。せっかく祝福するべき時なのに」
「あんたのそういう取り繕いができないところが変わってなくてよかったよ。まぁ、伊達に魔法使いとして生きてねぇから、最悪の想像はしたさ」
未だに東の国では魔法使いへの偏見が残る。他の国ではもう随分と魔法使いと人間の共存社会が実現しているというのに、東ではいつまでも沢山の法律が人間優位社会を築き上げ、魔法使いが自分の正体を隠しながらでないと生きていけない社会制度になっている。
ファウストは、ネロの相手の女性の間に生まれる子どもが魔法使いであったら、という想像をした。かつて同じ場所で暮らしたヒースクリフは、人間から生まれた魔法使いだ。彼がこの東の国で、人間に育てられた魔法使いとしてたくさんの苦労をしてきたことを知っている。同時に彼のご両親も、自分達とは違う魔法使いの子どもを育てることに思い悩むことが多かったとヒースクリフの口から聞いていた。
人間と魔法使いの間に生まれるとなると、ヒースとは状況は変わってくるけれど、それでも子どもが魔法使いで、その子どもが東の国で生きていくなら苦労が多くなると、ファウストは一瞬で嫌な想像を働かせた。
「今のところ、腹の中から魔力は感じない。まだ確信はできないけど多分人間だと思う」
「……そうか」
ファウストは、よかったとも言えず、簡素な返事をした。
「まぁ、子どもが独り立ちするくらいまでは一緒に暮らせたらいいなって思うよ。上手くいくかわかんねぇけどさ……」
「東の国を出るって考えは」
「彼女は東の国の大学で教授をしてるから、その仕事を捨てたくないらしい。最悪俺はどこの国でも生きていけるとは思うけど、俺としても東に馴染んじまってるから、よっぽどのことがなけりゃここで暮らすよ」
東の国の数ある法律の一つに、『30歳以上年の離れた者同士は婚姻関係になってはならない』という文言がある。それは犯罪の中でも特に詐欺の多い東の国独特の制度だった。
経済的に豊かな年寄りの財産目当てで結婚して、私財丸ごと奪い取る詐欺を防ぐためだと言われている。しかしそれは表面上の理由だった。この法律のもう一つの目的は、人間と魔法使い同士の結婚を防ぐためだ。
人間と魔法使いの結婚を阻むことにより、魔法使いが新たに生まれることを防ぐ。そして人間と魔法使いの間で生まれた魔法使いは、人間社会で生きる術を幼少期に親から身につけさせられるので、そんな社会に馴染む器用な魔法使いを作らないための法律だ。
もしネロが今の彼女と一緒に暮らして、子どもが産まれたとする。はじめは若い夫婦という印象で過ごせるかもしれないが、次第に妻の女性だけが老いてネロだけが若い身体のまま夫婦関係を続けることになる。警戒心が強く噂がすぐに広がりやすい東の人間たちは、おそらくネロの家族を疑う。あの夫婦の年齢差はおかしい、きっと魔法使いに違いない、と。
見た目を変える魔法を使えれば、ネロが魔法で身体だけ老けさせて生きることも不可能ではないだろう。しかし、ネロが変身魔法が苦手なことや、以前「客から魔法使いだと怪しまれる前に、定期的に店を別の場所に移転させていた」と言っていたことを踏まえると、それは難しいことだろう。
「コーヒーのおかわり、いる?」
つい静まってしまった空気は、ネロによって閉じられた。
「……いや、もう大丈夫。久々に君の作ったものが食べられて嬉しかった。お代は……」
「おいおい、よしてくれって。店のあまりを食ってもらってお代なんてもらえねぇよ」
「じゃあ有難くごちそうになるよ。今度は子どもたちを連れてちゃんと客として来る」
「うん、待ってる。しばらく厄災の日には顔を出せないけど、いつでももてなすから」
ネロは店の出入り口までファウストを送り、別れらしいやり取りをした。永遠の別れではないことはわかっているが、何故だか二人とも、この日以降しばらく会えなくなるような予感があった。それは次の日の天気を予測するみたいに、根拠がない漠然とした予感だった。
「……食事の礼と言っては何だけど」
ファウストはネロと向き合い、呪文を唱えた。ネロの身体には、ファウストの魔力が漂った。
「祝福の魔法。君と君の相手と、そして新たな命に幸多からんことを願っているよ」
「はは、先生からの祝福を貰ったら、幸せにならざるを得ないな」
「そうあってくれないと困る。じゃあ、僕はもう行くね。急に押しかけて申し訳なかった。久々に会えて嬉しかったよ」
「うん、俺も。来てくれてありがとう」
ネロは店を出たファウストの姿が見えなくなるまで見送った。目には見えないけれど、自分の身体からファウストの加護が感じられた。魔法舎で暮らしていた時、危険な任務に向かう前はいつもファウストが子どもたちとネロに加護の魔法をかけた。その頃は、自分よりも年下の魔法使いに世話を焼かれている事実にこそばゆく感じていたが、今はファウストの優しさが嬉しかった。
ネロは先ほどまでの来訪者の食器を洗いはじめた。多めに乗せたつもりだったが、全ての皿がきれいになっていて、心が満たされていく感覚が確かにあった。
▽▽▽▽▽
この国の天気は変わりやすい。いくら雨雲の動きが読めても、突然の雨にそのスキルは敵わなかった。
今日もファウストは街まで買い物に行った帰りに、突然の通り雨に降られ、家路を急いだ。谷まで来てしまえば雨よけに魔法を使えるが、街では使えない。足早に移動をしたとしても、ファウストは帽子から靴までしっかり濡らしてしまった。
ようやく家が見えて肩の力が抜けた。ネロは家にいると言っていたし、何か温かいものでも淹れてもらおう。そう思ってファウストが家の玄関に繋がる階段を上ると、庭の一部に作った小さな畑のそばに人影が見えた。先ほどまで重かった足取りが、思わず速まる。
「おい! 何で傘も差さずにこんなところにいるんだ!?」
「……あ、せんせ? おかえり」
「君、こんなに濡れて。早く家に入りなさい」
「あれ、雨降ってたんだ、気づかなかった」
ごめん、と言ってへらっと笑うネロを、叱る気にもならなかった。ファウストは全身を雨で濡らした男を家の中に押し込めた。玄関先で「君は濡れた服を早く脱ぎなさい」と言って、その間に自分のものと一緒にタオルを持ってきて、水気を吸ってへたったネロの頭にかぶせてやった。
「……畑で何をしてたの?」
「雑草抜いてた。だんだん夢中になっちゃって、雨が降ってんの気づかなかった」
「気づかなかったって、君ね……」
ファウストは窓の外を見る。こんなやり取りをしている間に雨はさらにひどくなっていた。
「……雑草、そろそろ抜かなければとは思っていたんだ。助かったよ」
「ん」
「でも、君が風邪をひくのは困る。次からは気を付けて」
ネロをバスルームに押し込んでから、ファウストは大きなため息を一つついた。ファウスト自身も雨に打たれた内の一人であるため、重くなった服を洗濯籠に乱雑にいれて、もう一度タオルで身体を拭いた。ネロがバスルームから出てくるまでに部屋を暖かくしようと、魔法をかける。こういう時に魔法が使えてよかったと実感する。
この家に来てからのネロは、時々ああいった状態になる。
普段は魔法舎にいた時と変わらず、気が利きすぎるくらいよく働いてくれる。しかし、ふとした瞬間に意識が遠くに行ってしまったように動かなくなったり、これまでのネロでは考えられないミスをする。そして、ネロ自身もなぜ自分がそんなことをしてしまったのか理解できないと言うような表情を浮かべるので、ファウストも彼にどう声をかけるのが正解なのか途端にわからなくなる。
ネロと一緒に暮らし始めて、格段に生活は楽になった。前から気になっていた畑の雑草も外出時に処理してくれて、目を背けていた水回りの汚れも気づいたら綺麗になっている。食器棚に適当に並べたカトラリーや食器も知らない間に綺麗に並び替えられていた。日常生活の中の、『気持ち的に少し頑張らないと手を付けられない問題』が、知らない間にネロによってすべて解決されている。
しかし、時々ネロは今日のようにおかしくなる。手に負えない子どものようだと、ファウストはそんな彼と直面するたびに思った。一つの作業に集中しすぎて何度声をかけても返事をしないのはしょっちゅうで、この間は辺りを散歩すると言ってから真夜中まで帰ってこなかった。さすがのファウストも「心配するからちゃんと帰るなり連絡するなりしろ」と怒りを露わにしたが、当の本人には特に響いている様子もなく「こんな時間になってたなんて気づかなかった」と言ってみせた。ファウストもその言葉に呆れて、何も言い返せなくなった。
まるで言葉の通じない子どものようだ、とファウストは思った。こちらが何を言っても響く感覚がなく、いつも一方通行で、自分の言葉に意味はないんじゃないかと思わされるような虚しさがあった。
ネロのいる生活は、ファウストの暮らしを豊かにした。同時に、いつも彼のことを心配し続けているこの暮らしに心が完全に休まることはなかった。
「ファウスト、シャワーありがとう。あんたも入るだろ」
「うん」
「あったかいもん淹れるよ。迷惑かけてごめんな」
「僕が濡れたのは君のせいじゃない」
まだ半端に濡れた水色の髪が気になった。ファウストはその髪にそっと触れて言った。
「温かい飲み物も欲しいけど、まずは君が髪の毛を乾かしなさい」
「……うん」
ファウストがシャワーを浴びてからキッチンに向かうと、甘い紅茶の香りが漂ってきた。鍋に向き合うネロに背後から近寄ってその手元を覗き込むと、その中身はミルクティーだった。
「こういう寒い雨の日ってあったかいミルクティーが飲みたくならねぇ?」
「たしかに。良い香りだ」
「もうできたからあんたはソファで待ってて」
ソファに座って猫を撫でながら彼を待った。外の天気なんて知りませんと言うかのように、膝上の猫は呑気にあくびをして寛いだ。すぐにネロは二つのマグカップを持ってきて、ファウストはその熱くなったマグカップを零さないようにそっと受け取る。
「あちぃから気を付けろよ」
「いまの君にだけは言われたくないよ」
そう小言を言ってから一口飲むと、そのミルクティーが想像よりも甘くて少し驚いた。ネロは基本的に紅茶をストレートで出して、ミルクと砂糖はご自由に、というスタイルだったから、あらかじめ甘さがついているとは思っていなかった。一口飲んで動きを止めたファウストを見て、ネロは心配そうに「口に合わなかった?」と尋ねた。その言葉を否定して、ファウストは二口目を運んだ。
こういう変化を目の当たりにした時、ネロとファウストが会わなかった空白の時の長さを実感する。ファウストが百年以上変わらない生活を送っている間、ネロは変わり続ける日々の中にいたのだと。それは、変わらない平穏を愛するファウストにとっては、果てしなく続く苦悩のように思えた。
この雨の日以降も、ネロが不調になる日はしばしば訪れた。まだ朝日すら昇っていない時間に起きて、ファウストが起きるまでの数時間ずっとソファに座っていたり、夕飯の作る量を間違えて大量のアクアパッツァを二人で食べたこともある。
ミスだけなら別に良かった。誰にだって失敗することはあるし、調子の悪い時だってある。しかしファウストが最も懸念していたのは、夜間のネロの呻き声だった。
家主の寝室の隣にある、半分物置のようになっていた部屋に簡易的なベッドをセットして、そこでネロは寝泊りをしている。就寝の挨拶を済ませてから各々寝室に向かい、ファウストがうとうとした時に、隣の部屋から呻くような、苦しそうな声が時折聞こえてくる。それがファウストの一番の不安要素だった。
うー……、う゛ー……、と喉を痛めつけそうな声が聞こえ、その合間に時々人の名前のようなものを呼ぶ。ごめんなぁ、と言う日もあった。ネロは自身の睡眠中の様子は全く知らないようで、朝になると夜間の苦しみは一体何だったんだと言いたくなるくらい、ケロっとしている事の方が多かった。
見ている夢に苦しめられているのであれば、可能な限り手を貸してやりたいと思っていた。それはかつて、ファウスト自身も夢に苦しめられた経験があるからだ。仲間が同じ苦しみを辿っているのであれば、自分の持つ知識を出し惜しみせず助けてやりたいと思っていた。
しかし、ネロは決して救済を求めているわけではなさそうで、一向に夜中のことについて自分から話すということが無かった。いくら声が出ていることに気付かなくても、あんな呻くくらいの激しい夢を見ていたら誰だって夢の内容は覚えているだろう。
ネロが自分からその夢の内容と、どうして苦しいのかを言ってくれれば、ファウストにも助ける手立てはあった。しかし、ネロは自分が見た夢の話は一切しなかった。
本人が話したくないことを聞きだしたいとは、ファウストにはとうてい思えなかった。つまり、ファウストはネロの寝る部屋の隣で、苦しむような声を聞きながら、ネロが無事に寝付けるようにと願うしかできないのだ。
ガシャン、と何かを落としたような大きな音で目が覚めた。時計を確認すると、まだ早朝と呼ぶにも早い時間だった。
猫が悪戯をして家の中のものを何か落としたのだろうか、とも思ったが、リビングに繋がる寝室のドアの下部にある隙間から光が漏れ出ていて、誰かがリビングにいるのだと気づく。あぁネロか、とファウストは思った。こんな時間に何をしているんだ、とか、何かを落としたみたいだけど怪我はしていないだろうか、とか、いろんな心配事が頭の中を巡り、完全に眠気が覚めてしまった。
しばらく迷った末に、ファウストは意を決してベッドから出て、光の漏れ出る方へ向かった。
「こんな時間に何してるの」
「あ、起こした? ごめん」
「別に。喉が渇いて飲み物を取りに来ただけだ」
「水でいい? ホットミルクくらいなら作るけど」
「いや、水をくれるか」
キッチンには、大小いくつかのボウルとパウンド型が並び、型の中には焼かれる前のつややかな生地が入っていた。
「甘い匂い。ケーキか何か?」
「えっと、うん……パウンドケーキ。栗と紅茶の」
ネロは気まずそうに俯いて、ファウストと目を合わせようとしなかった。きっとこんな夜中に料理をしていることを咎められると思ったのだろう。
「栗と紅茶か、美味しそう。僕の好きな味だ」
「明日の朝食のつもりで作ったんだけど、焼けたら食べる?」
「うん」
「今からオーブンいれるから後40分くらいかかるけど」
「じゃあ焼きあがるまで君が話し相手になってよ。たまにはこういう日があってもいい」
余熱が終わったオーブンにケーキを入れて、ネロが使い終わったボウルなどを洗っている間、ファウストはお茶を淹れた。以前ルチルと会った際にもらったハーブティーが取ってあったのを思い出し、焼けるまでのお喋りのお供に丁度いいと思った。
「茶、ありがとう」
「いいえ。もう洗い物は終わった?」
「うん」
「いい匂いがしてきた。楽しみ」
普段二人で食事を取るダイニングテーブルを囲って、お茶を飲んだ。部屋は焼いている途中のケーキ特有の甘い匂いで満たされていた。普段はこんな時間から甘いものを食べる事なんてないけれど、今日は別にいいと思った。早寝を促したり、虫歯の心配をする親はいない。自分の生活に対して自分で責任を取れる大人同士だから、この程度の堕落は許されるだろうとファウストは思った。
「……最近、上手く寝られなくて」
お茶を一口飲んだネロは、小さな声でそう言った。ファウストは彼がようやくそれを伝えてくれたことに、やっと肩の力が抜けるような安心感を覚えた。
「いつ頃からなの」
「今年の春から」
「一年くらいか。何か生活に変化でもあったのか?」
「それが思い当たらなくて。突然寝られなくなっちまった」
見たくない夢ばかり見る、と、ネロは零した。ファウストは夜中に隣の部屋から聞こえる呻き声を思い出す。きっと今日もその夢に苦しめられて起きてしまったのだろう。
「悪夢の苦しみはそれなりに経験しているつもりだ。僕で良ければ助けになりたい」
「はは、頼もしいよ」
しかし、ファウストはネロが自分から詳細を話し出さない限り、聞くつもりはなかったし、その姿勢がネロに伝わるような態度もとった。ネロが黙りこめばファウストもお茶を飲んで静かにしたし、ネロが言葉を探し始めたらそれを気長に待った。
夜は長い。心の整理を急かす必要なんてないと思った。
「見たくない夢だけど、別に悪夢じゃないんだ。あんたがあの頃見ていたって言うような、苦しい感じじゃ決してなくて」
「そうなんだ」
「……来年で死んでから百年になる娘の夢ばかり見る」
そう言ったネロの表情は、風のない日の浅瀬のように静かで、ファウストは彼のそんな表情を初めて見たと思った。
▽▽▽▽▽
ネロが父親としてその娘と一緒にいられたのは、娘が高校を卒業するまでだった。ついに見た目を誤魔化すのに限界が来たのだ。妻と見た目の年齢差が開くどころか、次第に娘に近づいてしまい、家庭の中でネロの存在だけが宙に浮いているようだった。
これ以上父親としてこの家にいると、妻や娘に迷惑が掛かる。そう考えたネロは、二人と相談したうえで家を出た。街の方で住居兼店舗のレストランを構えて、そこで一人で生活をした。婚姻関係は続けた。娘が高校を卒業するタイミングでネロも家を出て、関係は変わらないまま、ただ別々で暮らすようにした。
また娘も、東の中心部にある学生寮を備えた大学に通った。勉強の得意な妻に似て、名門大学に合格した。頭脳が自分に似なくてよかったとネロは心から安心していた。
妻にも引っ越すのかと聞いたら、彼女はこの家に残ると言った。一人で暮らすには広すぎる、家族三人で暮らした家だ。経済的なことが理由なら心配しなくていいと言ったが、彼女は断固としてこの家を離れようとはしなかった。
職場で寝泊まりをするネロ、学生寮で暮らす娘、家に残った妻。三者の暮らす場所は違えど、関係は変わらなかった。妻と娘は休みのタイミングで、ネロの構える店に行って、閉店後の店内で食事を取った。店舗の二階にある住居スペースは広さに余裕があるため、そのまま二人が泊まることもあった。
ネロは経済的な支援を欠かさなかったし、妻もよくネロの店に来た。娘も忙しい学生生活の合間を縫ってまめに連絡を寄こした。暮らしている場所が離れているだけで、家族の形は成り立っていた。
しかし、娘が就職する頃には、もう以前のように二人そろって店に来ることは無くなった。大学の教授をしている妻は受け持ちの講義が少なくなったが、体力的に高頻度に街まで出るのがきついらしい。ネロとしては自分が妻の住む家に行きたいとも思っていたが、かつて自分が暮らしていた街に現れて、全く姿が変わっていないことが街の人に目撃されるのを避けたかった。
そこでネロは、彼女と会う場所の選択肢を増やした。店と彼女の家の間にある古い街の喫茶店で何度か会うようになった。自分の作る飯を食べる妻の姿を見ることは減ったが、昔二人でデートした日々のことを思い出して、これはこれで悪くないと思った。
お喋り好きの彼女は会うたびに、仕事のことや最近始めた趣味のこと、近所の人たちのことなど、時々愚痴を交えて話した。ネロはそれにうんうんと頷いて、聞き手としての役割に徹底した。
結婚する前も、よくこうやって二人で喫茶店に入って一日中話をしていた。頭のいい彼女の話すことが時々わからなかったりもしたが、日常のどんなことも楽しくオープンに話してくれる、妻のそんなところをネロは愛していた。
まるで恋人同士だった頃に戻ったようだった。
ある日、閉店直前に妻が店に来た。この店に彼女が来るのはおそらく数か月ぶりだ。
「急にどうしたんだ」
「あなたの作るご飯が食べたくなって。最近来てなかったでしょう?」
「あぁ。何でも食いたいもん作るよ、何がいい?」
ネロは店の入り口に閉店の札を下げた。彼女は窓際のテーブル席に座って、メニューを見る。「メニューに載ってるもんでも、載ってないもんでも何でもどうぞ」と声をかけると「じゃあシェフのお任せで」と言ってきた。
久々に会えたことに、ネロは浮かれていた。せっかくだからいいワインを開けてしまおう、とグラスを綺麗に磨いてからそこに注いだ。昔から彼女が好きだと言ってくれたナッツ入りのサラダに、羊のソテー、海鮮のオイルパスタ。店の日替わりデザートは丁度ティラミスだった。これも彼女のお気に入りで、いつも二人分食べていたからあとで出そうと準備した。
妻の待つテーブルに出来上がったものから一つずつ配膳した。デザート以外を全て出し終えると「あなたも」と促されて、向かい合うように座った。グラスにワインを注がれて、テーブルいっぱいに並んだ料理をつまむ。
久々に自分が作った料理を食べる妻の姿を見られて嬉しかった。カトラリーを器用に使って、ゆっくりと咀嚼する姿をずっと見ていたいと思った。
「……別にいいかなとも思ったけど、念のためあなたにも伝えておこうと思って今日は来たの」
パスタを食べ終えた妻はおもむろにそう言いだした。なんの話か全く見えなくて、ネロはどきりとした。
「え、何……? どうしたの」
「先月、私のお母さんが死んだの」
「え、お義母さんが? あぁ、でももうそんな年か」
「この間地元に帰って葬儀に行ってきた。疲れちゃった」
妻とその母親である義母の親子仲が決して良好ではないことをネロは知っていた。
奔放な妻とは反対に、彼女の義母が保守的であるためか、二人は度々衝突して、彼女が十代の頃に喧嘩の勢いで実家を出たとも言っていた。そこからは殆ど連絡も取らず故郷にも帰っていなかった。もちろんこの結婚のことも伝えていない。
「だってお母さんに言ったら反対されるだけじゃなくてネロのことも私のことも罵るのが目に見えているもの」
結婚前に妻がそう言ったのを覚えている。自分のそんな経験があったからか、妻は娘がやりたいと言ったことに、ほとんど反対しなかった。妻が内心反対したいと思っていても、娘がやりたいと主張すればそれをほとんどすべて受け入れて背中を押した。それは寛容とは少し異なり、彼女の意地に近いとネロは感じていた。
「……正直、この親子関係を切ってしまいたいと小さい頃から何度も思っていたの。あの人から、許せない言葉を何度も投げかけられて、その度にあの人の子どもとして生まれてきたことが人生最大の汚点だとも思った」
「辛かったんだな」
「うん。……でも、葬儀の日に棺桶に入ったお母さんの姿を見たら、本当はもっと歩み寄ることができたんじゃないかって。別の道があったんじゃないかって思えてきた」
「……」
ネロは何も言えなかった。仲間が石になる瞬間を何度も見てきたが、そうやって亡くなった人を儀式として丁寧に弔った経験が、ネロにはほとんどなかった。
「別にあの人に感謝する気持ちなんてない。育ててもらった恩はあるけど、それ以上に憎しみが大きい。だけど、やっぱり……自分と血の繋がっている人を見送るのは、こんなにも苦しいのだと思った」
以前妻から、義母の話を聞いたことがある。
早くに結婚して、子どもを産んで、家庭こそが生活の全てであるような人だと妻は言った。女は勉強をするな、故郷を出るな、早く誠実な人間と結婚して男の子を産め、そう言い聞かされてきた。勉強が好きだった彼女はその言葉に反発して、故郷を出て奨学金を手に入れて勉強に明け暮れた。今も大学教授として、学問に関わり続けている。まるで母親の呪いから打ち勝ったことを自分で証明するかのように、禁止されたことばかりをやってのけた。
自分の親が亡くなったという事実は、いくらその関係が希薄であっても彼女を精神的に苦しめたようで、彼女の目の下には深い隈が刻まれていた。
「……あなたはずっと綺麗なままね」
突然、妻はネロにそう言った。彼女は、グラスに添えてあったネロの手を取って、二人の手の甲を並べるように見比べた。大きく骨が張ってきめ細かな白い肌の手と、爪に凹凸ができた皺の多い小ぶりな手。どちらが若い肉体なのか一目瞭然だった。
彼女の手の甲には、生きた年齢が皺として刻み込まれていることに気付いて、ネロは途端に逃げ出したくなった。彼女のものと並べられた、皺も傷もないまっさらな自分の手が惨めだった。彼女より何百年も長く生きているのに、その生きた証を自分の身体には何も残せないことに不安になった。こんな気持ちになるのは何百年も生きてきて初めてのことだった。
「……今も一人で暮らしているか?」
ネロは彼女と並べられた手を隠すために、グラスを持ってうやうやしくワインを一口飲んだ。
「そりゃそうよ。あの子はもっと都市の方で仕事を見つけてそっちに引っ越したもの」
ネロは目の前の妻が、広い家で一人暮らしをしている姿を想像した。帰ってきた時に灯りの点いていない家、テーブルの余白が目立つ一人分の食事、自分が開けなければ閉じたままのカーテン。ネロ自身も同じ生活をしているけれど、彼女の生活がそんな様子であることが、ネロにとっては酷く寂しいことに思えた。
もう潮時だと思った。
「……この言葉はあんたを悲しませるってわかっているけど、俺から言うべきだと思うから言うよ」
「……」
「あんたが望むなら、俺以外の人と一緒に暮らしてよ」
彼女は何も言わなかった。ただ、ネロのほうをじっと見て、目の前の男の言葉を待っていた。ネロはその沈黙の意味を正しく理解して、言葉を続けた。
「おしゃべり好きで、人と一緒にいることが好きで、寂しがりのあんたが、三人で暮らしていたあの広い家に一人でいる姿を想像して、いつも思うんだ。あんたと一緒に暮らすことのできない俺が、あんたを縛り付けるべきじゃないって。一緒に暮らせるまともな人間の男と、残りの人生を歩むべきだ」
「残りの人生、ね……」
妻は自分の両手の甲を見つめた。皺が深く刻み込まれて、ペンだこのできた指。ネロと出会ったばかりの頃と比べて、肌の色も黄色っぽく、関節も太くなった手。指にはめられた指輪は、指の肉に食い込んで肉体の一部のようになっている。
「こんな白髪交じりの髪で、視力も落ちて、月経だって止まったこの身体で、人の愛し方なんて忘れてしまったわ」
「……」
「もう間に合わないのかもね」
それ以降、二人が会うことはなくなった。これまではどちらともなく連絡をして月に一度は会っていたが、一度その定期的な逢瀬をやめてしまうと、再開させるのはネロにとって難しかった。
数年後、都会で生活をしている娘から久々に連絡が届いた。妻が危篤状態だと言う。開店のために店を掃除している最中だったが、ネロはすぐに店を閉じた。
搬送された病院でネロは娘と待ち合わせをした。病院の入り口扉の前でコートに身を包む女性を見て、本能的に娘だと気づいたが、見た目は最後に会った記憶の姿と全く違っていた。娘はもう完全に大人だった。中年の、高校生の子どもを持っていてもおかしくないような年の大人の女性だった。彼女は彼女で、記憶の中と全く姿の変わらないネロの姿を見て、一瞬ひるんだ。
「あー、えっと、久しぶり。連絡ありがとう」
「うん、久しぶり。元気そうでよかった」
早速だけど、病室に行こう。そう娘に急かされ、ネロは病院の中に入った。街に昔からある古びた病院だった。独特の薬品の匂いが充満して、それがますます心を曇らせる。
「お母さん、入るよ」
ノックをしても何の返事も無いので、二人は病室に入った。ベッドには沢山の管に繋がれた、妻だった女性の姿が横たわっていた。ネロは思わず言葉を失った。最後に会ったのは確か25年前だ。たった25年で、人間はここまで変わるのだろうか。人間の客と関わる仕事に何百年も就いてきたはずなのに、その変わり様に衝撃が走った。
そうか、とネロは気付く。今まで自分は、一人の人間がこんな変化をするまで誰かと寄り添ったことがなかったのだ。人との関わりは魔法使いの割に多かった。しかし、そのどんな関わりも、短期間で意図的に引きずらないようにしていた。だから俺は親しい人間の変わった姿にこんなにも動揺するのか、と。
ベッドに近づいて、横になった彼女の姿をよく見る。
かつて愛した妻。あのころよりも随分と小さくなってしまったように見える。顔中がしわくちゃで、腕に浮かんだ血管は不気味なくらい青白く浮き出ていた。最後に会った日の姿とはまるで違う。
25年という月日は、魔法使いにとって春の日の昼寝と大して変わらないくらい短い時間だ。そんな短い時の中で、人間は別人のように変わってしまう。
病室には、ネロと娘の他に、もう一人高齢の男がいた。妻と同じくらいの年齢の男だ。ネロはその人とは面識がなかったが、こんな状況の中で挨拶をするタイミングを逃してしまった。
「仕事が忙しいのに、よく来てくれたね」
その男は、娘に話しかけた。
「当たり前だよ。お父さんも顔色が悪いけど、朝から何も食べてないんじゃない?」
お父さん、と娘がその男のことを呼んで、彼が何者なのかすぐに理解した。妻がネロの元を離れてから残りの人生を共に歩むと決めた人だ。彼女と同じ時の流れの中で生きて、同じように年を取って、同じように肉体を残したまま死んでいく、人間の男だ。
「今更で申し訳ない。この方は……?」
高齢の男はネロの方を見て、そう娘に尋ねた。娘はこの部屋にいる人の中で一番若い身体の男をどう説明しようか迷っていた。
「えっと、この人は……」
「あー、俺は遠い親戚です。突然すみません。叔母さんには昔世話になって、彼女に病院まで一緒に行かせてくれって我儘言ったんです」
「あぁ、そうだったんですね。これは失礼。きっと妻も喜んでいると思いますよ」
「……」
娘は黙り込んで、何も言わなかった。
ネロの身体は27,8歳の時に成長が止まった。そう言うしかないと二人ともわかっていたし、何よりもネロはこういったタイミングで嘘をつくことに何の躊躇もなかった。それは生きる術の一つでしかなかった。しかし、自分の娘がネロの言葉に心を痛めているのに気づいて、罪悪感のような、後ろめたさのような、何とも言えない複雑な思いが湧いた。
「そういえば、君のお父さんはやっぱり来れなさそうかい? 確か今はもう遠くに住んで疎遠になっているんだっけ?」
「……えぇ、向こうももう年で、なかなかここまで来るのは難しくて」
「彼女は僕にも、時々君のお父さんの話をしていてねぇ。きっと彼女にとっては今でも大切な人だと思うから、最後を見送ってほしいと思ったんだけど」
娘はネロの方をちらりと見た。ネロはベッドを覗き込み、そこに横たわる妻の姿を見た。皺だらけで、目は閉じられ、生と死の狭間にいる肉体だ。かつて愛しあった妻の姿とは、かけ離れた老いた顔をしている。
しかし、彼女の面影は確かにあった。それは、魔法を使って見た目だけを老けさせるのとは全く違う、生きた人間だけが生み出せる面影だ。
よく笑う彼女の目尻に深く刻まれた皺、右側で頬杖をつく癖のある彼女の左右非対称の頬、長年指輪が付けられていた場所に残されている肉のくぼみ。
魔法使いがたとえ何百年も何千年も生きて、どれだけ強い魔力を身に着けたとしても、こんな肉体の老いを再現することは決してできないのだと実感させられた。
その後三人で妻の最後を見送って、様々な手続きを済ませたあと、病院の中庭に設置してあるベンチで娘と話した。
「今日は呼んでくれてありがとうな」
「店を移転させるたびにお父さんが連絡をくれていたから助かった。その情報が無かったら今お父さんがどこにいるのかわからないままだったから」
「はは、ごめんな。父親としての甲斐性が無くて、娘にまで迷惑かけちまってる」
血の繋がりのあるこの子の方が、きっと傷は深いだろう。けれど、彼女の口調はしっかりとしていた。
「……今日、お父さんを呼んだのは間違いじゃなかった?」
「何言ってんだ。呼んでくれて感謝してるよ。最後を見送ることができてよかったって思ってる。感謝してもしきれないよ」
「結果的に私がお父さんって呼ぶ人は二人になったけど、私がお父さんって言葉で一番に思い浮かべるのはあなただよ」
「こんな時にまで娘に気を遣われて情けないな……」
「ねぇ、久々にお父さんの作るご飯が食べたい」
「……あぁ、何でも作るよ」
その後二人は、病院から列車で20分ほどの場所にあるネロの今の店に向かった。臨時休業の看板を立てていた店を開けて、娘を招き入れる。店の中は前日クローズした時のままで、机に椅子が掛けてある状態のままだった。
「好きな席に座って」
ネロは娘にそう言いながら、厨房の冷蔵庫の中身をチェックする。元々今日も店を開く予定だったから材料はふんだんにあり、これなら何でも作れるなと思った。
「なぁ、今日って……」
「ん、なに?」
「……や、何でも」
娘に呼びかけようと客席の方に目線を向けると、窓際の席に座る娘の姿が目に入って、思わず言葉を失った。その席は、妻と疎遠になる前に、二人で食事をした時と同じテーブルだった。あの日と同じテーブルの、同じ席に座る娘の姿が、一瞬妻に見えて目頭が熱くなった。そんな自分に自己嫌悪を感じ、ネロは料理に逃げることにした。
「お待たせ。飲み物は何にする?」
「わー、おいしそ……フフッ」
「え、なに? 何か変だった?」
「いや、私が昔誕生日のたびにコーンスープとミートソースパスタをねだったからなのかなって」
テーブルには娘の指摘通り、サラダ以外にコーンスープとミートソースパスタが並んでいた。娘に食事を振舞うとなって、何も考えずにこのメニューを選んでしまったが、確かに今の娘には幼すぎるメニューだったかもしれない。クルトンだって、まだこの子が小さい頃に「カリカリたくさん乗せて」と強請られていたから、今日も普段店で出しているスープの倍ほどクルトンを乗せてしまった。
「あーごめん、別のもんがいい? 作りなおすよ」
「それがいい。下げないで」
「ん、ありがとうな。召し上がれ」
食べながら、会わなかった期間の様々な話をした。娘は出版社に勤めているが、最近ヒットした小説は娘が編集担当をしたものだと聞いて素直に驚いた。頭脳は妻に似て本当に良かったとネロは度々思った。都心で仕事中心の生活を送っているが、充実しているとも言っていた。
「昔お父さんとお母さんと三人であの家に暮らしていた時、友達を連れてきたことあるでしょう?」
「あぁ、覚えてるよ。歌の上手い子だろ。よく二人でラジオかけながら歌ってたよな」
「あはは、そうそう! その子の娘が去年結婚して、孫も生まれたの。すごくかわいかった」
「そうか、もうそんな年なのか」
「そうよ。私だってもう“そんな年”だから、友達もみんな“そんな年”になるよ。私は結婚したいと思わないからずっと一人のつもりだけど、昔からの友だちが幸せそうなところを見ると素直に良かったなぁって思ったな」
「……あぁ、そうだな。」
娘が話して、ネロが相槌を打って、たまにネロも近況を話す。たいていが時々店に来るヒースクリフやシノ、そしてファウストの話だ。娘はその三人に会ったことはないが、昔からたまに話をしているので「あぁ、あの人ね」といった様子で話を聞いた。
テーブルに並べた皿が全て空いて、ネロはデザートの用意をした。これも前日に仕込んでいたカッサータだ。緩く泡立てたホイップクリームと、カットした果物を盛り付けてコーヒーと一緒に出した。
「今朝、お母さんの様子がおかしいのを新しいお父さんが見つけて、すぐに病院に運んでくれたの」
「そうか。俺たちが見送ることができたのはあの人のおかげだな」
「お母さんが別の人と一緒に暮らし始めたこと、お父さんはどう思った?」
直球な質問に、思わずカップを持ち上げる手が止まる。それ以上に、娘の表情が強張っていて、娘の繊細さに触れたようだった。
「嬉しかったよ。あの人が一人で死ななくてよかったって思った。置いていかれる方は寂しいけどさ、やっぱあの人には最後まで誰かと寄り添って生きていてほしいよ」
「そう」
「というか、俺が促したんだ。どんどん年の差が開く俺と一緒にいて人生を消化するんじゃなくて、同じ人間と一緒に暮らしてくれって。身勝手なことを言ったって今でも思うけど、今日のことを踏まえると結果的に良かったと思う」
「寄り添う相手がいないと、やっぱり寂しいのかな」
「どうだろう、一人で生きていたいってやつもいるから一概には言えないけど、俺は大切な人が自分の知らない場所で一人で死ぬのは嫌だって思うし、自分がそうなる未来に怖れがないって言ったら嘘になるかな」
ネロはふと、娘のこれからについて考えた。
今年で娘はたしか48歳になる。結婚も出産もするつもりのない娘。俺がいなくなったら親戚が誰もいなくなる娘。この子が死ぬとき、俺以外に寄り添える人はいるのだろうか、と不安が沸き上がった。
目の前の娘の姿をよく見た。妻によく似た顔だ。彼女の顔にも、しっかりと老いが刻まれていた。こうやって久しぶりに会って、ようやく娘よりもネロの身体の方が若いと実感した。この子どもは、おそらく親のネロよりも早く死ぬ。娘の死が、途端に身近なものに感じられた。
ネロは娘を、最後まで自分の子どもとして大切にしたいと思った。この子の身体がどれだけ老いても、頭がぼけても、そばにいてやりたいと思った。それが家族を持った意味でもあり、家庭を築いた責任でもあると思った。
ネロは娘を駅まで送った。ここから列車で1時間ほどで、娘が一人で暮らす栄えた街に着く。箒に乗せてあげられたらその半分の時間で家まで送ってあげられるが、娘の前で魔法を使いたくなかった。
「じゃあ元気でな。何かあったらすぐに連絡くれよ」
「うん。お父さんも、元気で。またお店が変わったら教えて」
列車が数分後に来るアナウンスが鳴る。ネロは思わず娘の腕を掴んだ。
「あ、あのさ……もし次に店を移転させることがあったら、お前の家の近くに構えてもいいか?」
「え? 私の?」
「あぁ。多分十数年後にまた店を移転させるから……嫌だったら断ってくれて」
「嫌じゃない。そうして。同じ街で暮らそう」
列車が到着する。娘がその列車に乗り込んで、ドアが閉まってから小さく手を振ったので、ネロも振りかえした。その列車が見えなくなるまで、ずっと目で追っていた。
あれから19年後、もうそろそろ客に勘付かれる頃だと思い、ネロは店を移転させることを決意した。次の移転先は決めている。娘が暮らす街だ。娘には手紙でそちらに店を構えると伝えた。
その年、娘は67歳になった。ネロは700歳の中間あたりを生きていた。しかしネロの身体は変わらず20代のままだった。
移転してからは、娘と離れて暮らしていた時期に比べ格段に会う頻度が増えた。同じ街の中でも住んでいる場所は異なり、娘は彼女自身で借りている家で暮らし、ネロは今も住居兼職場の店を構えてその二階で暮らしている。しかし週末になるとよく娘はネロの店に来て食事をして、ネロも度々彼女の暮らすマンションに足を運んで世間話をした。
かつて三人で暮らしていたあの街とは違い、ここは二人が親子だと知っている者は誰もいない。高頻度に会うのには都合がよかった。
娘は最近、膝関節の痛みが辛いと愚痴を零す。そのたびにネロは、娘の皮膚の伸びた膝に手を添えてそっと撫でてやった。それは背中がかゆくて寝られないと愚図る小さい頃の娘にしてやる行為と、ネロにとって同義だった。
東の国では、女性の平均寿命は75歳だと言われている。妻はその中でも長生きをしたほうで80歳まで生きた。娘はどうだろう。気づいたら彼女も70代にもうすぐ突入する。ネロには70代の人間の身体がどんな老い方をするのか分からなかった。ネロが一生体験することがないものだ。
70歳を超えてからがくっと身体の衰えが進行した娘の家に、ネロは週に二、三回の頻度で訪ねて食事を作ったり、世間話をした。時々一緒に出掛けて買い物にも行ったが、体力的にそう長くは出ていられなかった。日に日に娘の身体が不自由になっていくのが分かる。
家のことも、ネロの力を借りなければできないことが次第に増えていった。それと比例して、ネロが娘の家に滞在する時間も長くなった。ネロは仕事終わりに食材を持って娘の家に向かい、世話をして、夜が耽ったら一人で自宅に戻って次の仕事のために寝るという生活を毎日繰り返した。
娘の見た目は年老いた女性であるが、ネロには自分の膝ほどしか身丈のない幼い娘と何も変わらなかった。ネロの腕で簡単に持ち上げられて、俺の姿が見えなくなるとすぐに泣いて、「パパ、パパ」と何度もネロのことを呼んだ、小さな子どもと同じだった。
そんな職場と娘の家の行き来の生活で、毎日の睡眠時間は四時間を切った。元々夜間の睡眠時間は短い方ではあったが、不思議と全くストレスを感じなかった。朝起きられないということもなく、決まった時間に毎日目が覚めて、娘が眠りに着くまで眠気は訪れなかった。
人間の人生には決して避けられないリミットがあることを、妻が息を引き取った瞬間に、ネロは身をもって実感した。終わりの見えない不毛な苦労は不得意だけれど、せめてこういった終わりが来るまでの努力は少しだって惜しみたくなかった。700年以上生きてしまった自分にも、まだこんな誠実さが残っていたのかと自分でも驚愕する。
一年、二年と、少しずつ平均寿命の年に近づくにつれて、娘の身体は確実に死に向かっていた。そんな嫌な変化を目の当たりにしなければならない生活は、毎日少しずつスライサーで精神を薄く削がれるような心地だった。
ある日いつも通り、店を閉じた後に娘の家に行って挨拶をしたら、ネロの顔を見て「どなた?」と尋ねられた。その日の夜、ネロは自宅のベッドに潜ってから一睡もできなかった。次の日の仕込みも手につかず、その日はディナーを急遽休みにしてランチだけで営業を終了させた。娘に会うのが怖かったが、行かないという選択をするのはもっと怖くて、結局いつもの時間に娘の家を訪れた。
小さい頃から娘のおしめも替えていたし、盗賊団にいた頃は便どころか腐った死体の処理もしていたから、そういった世話は全く苦じゃなかった。老いて脂肪の乗った重い娘の身体を持ち上げることだっていとわなかった。
しかし、会うたびに自分の顔を見て「どなた?」と聞かれることが、ネロにとって何よりも辛かった。自分の後を追うように家中を歩き回って、「パパ」とこちらに手を伸ばしていた娘が自分のことを忘れているという事実に、ネロは度々心を打ち砕かれそうになった。そうやって聞かれるたびに、ネロは娘と同じ目線に立って、「お父さんだよ」と言う。すると娘は「あぁ、お父さん。今日のご飯はなぁに?」と決まって聞いた。小学生の時に戻ったみたいだった。
そんな日々は苦しくて仕方がなかった。できればこの娘と一緒に老いて、呆けて、そのまま死んでしまいたかった。同時に、早くこの日々が終わってほしいとも思った。もうこれ以上こんな生活を続けたら、自分の心がどうなってしまうのか分からなかった。
妻の妊娠が発覚した時、彼女のまだ膨らんでいない腹から一切魔力の気配を感じないことを確認して、ひそかに安心した。この東の国で、魔法使いがどれだけ苦しい思いをするのかはネロ自身もよくわかっているつもりだった。だから生まれてくる娘が人間だと分かり、内心良かったと思っていた。
なのに今は、この子が魔法使いだったらよかったのに、と一瞬でも思ってしまった。共に生きていられたら幸せだっただろう。聡明な娘だった。妻に似て頭がよく、ネロに似て少し優柔不断で、誰からも愛されて、ネロと妻が世界で一番愛した娘。この子と同じ時間の流れを感じてみたかった。
ネロは、自分の数百年の人生で手に入れた全てを、この娘に捧げてみたかった。たいした人生は歩んでこなかったけれど、世界中の料理のレシピも、本や学校じゃ教わらない魔法の使い方も、ネロが生きた長い時代に起きた世界の事実も、全てこの娘に捧げて先に石になれたら、どれほど幸せだっただろうか。
ネロは、ふとブラッドリーの姿が思い浮かんだ。
かつて一緒に生きようとした男。自分はもう一緒にいられないと気づいて立ち去り別れた男。ブラッドリーは、ネロに全てを託そうとした。それは相棒という地位だけでなく、ブラッドリーが生きてきた中で身に着けた知識も、技術も、魔術も、一つ残らず全てだ。
相棒として隣に置くだけでは飽き足らず、ブラッドリーはネロを後継者にも理解者にも仲間にもさせたがった。何度離れると言っても、決してブラッドリーはそれを許さなかった。他にもたくさん団員はいたのに、ブラッドリーはネロにだけ執着をした。
あの頃のネロは、ブラッドリーのその執着心が全く分からなかったが、今なら少しは理解できるような気がした。魔法使いはどれだけ長く生き、多くの知識や技術を身に着けても、いつかは必ず一人で石になる。肉体すらも残せず、誰かと最後まで繋がり続けることも困難で、あっさりと砕け散るのだ。だから彼らは、自分が長く生きた証として、自分が人生で身につけたものを託せる相手を求めるのだろう。
身勝手だと思う。だけどそれは、魔法使いとして生きる上で避けられない本能なのかもしれない。かつてのネロはこんな感情を覚えたことなんて一度もなかった。むしろ、残される側として、そんな身勝手な意思を託されることに苦しみだってあった。
しかし、娘という存在が自分の人生に現れて、小さい頃から育てて、欲が湧いたのだ。自分にも、誰かに自分が生きた証を残すという人生の道があったのかもしれない、と。
この子が魔法使いだったら、自分と同じ時の流れで生きて、俺よりも長く生きてくれたら、そうしたらきっと、こんな不毛な悲しみなんて……──。
「……お父さんはもう帰るな。ゆっくり寝ろよ」
その日も娘をベッドに寝かせて、部屋を出ようとする。すると、「おとうさん」と鼓膜をくすぐる程度のか細い声が背後から聞こえて、そちらを振り向いた。娘がこちらを見ている。普段はすぐ寝るはずなのに。どうした?と聞くと、どことなく合わない目線のまま娘は言葉を続ける
「あした、ケーキのつくりかた、おしえて。おかあさんの誕生日、チョコレートがいいかなぁ」
「……うん、わかった。ケーキな。チョコレートでもイチゴでも、なんでも教えてやるよ。一緒につくろうな」
だから今日はおやすみ、と言って、再度娘が寝そべるベッドに歩み寄り、髪が薄くなった頭を撫でつけると、すうっと眠りについた。娘を起こさないように、そっとドアを閉めて家を出た。外はもう遠くで朝日が昇っていて、空は若干赤らんでいた。
家に帰って、ネロはシャワーも浴びずに酒を飲んだ。椅子に腰を掛けながら、二階の窓から少しずつ朝の表情に変わっていく空を見続けていた。ちっとも眠くならなかった。
酒を飲みながら、ネロはブラッドリーのことを考えた。自分に人生の全てを捧げようとした男。その男の隣に立てなくて逃げ出した。昔は彼の生き方が全く理解できなかったし、理解したくもなかった。だけど、今なら少しわかる気がした。そして、そんな彼の感情が分かってしまう自分の変化が憎かった。今更、こんな感情なんて手に入れたくなかった。
アルコールで次第に身体が重くなる。こんな状態で仕事なんてできない。明日は店を一日休業にしてしまおう。そして、酔いが醒めたらもう一度娘の家に行こうと決めた。
普段は仕事終わりの夜しか会えないけれど、明日……既に日付が変わって今日は、昼から訪ねてしまおう。アルコールが落ち着いたら市場に行って、ケーキの材料を買う。昔妻の誕生日によく作ったチョコレートケーキを焼くためだ。
娘はきっと、自分が寝る前に言った言葉をもう既に忘れているだろう。あれは年老いた人間が発症する、古い記憶の混合だ。妻の誕生日は全く近くないし、そもそも妻はとっくの昔に死んだ。だけど娘のそれに付き合いたかった。ケーキだけじゃない。あの子が昔から好きだったコーンスープも、ミートソースパスタも、くるみ入りのミモザサラダも、何だって作ってやろう。
酔いが醒めたネロは、店に臨時休業の看板を立てかけたあと、シャワーを浴びてから市場に食材を買いに行った。その足で娘の家に向かう。もう昼だがまだ寝ているらしく、家の中はしんとしていた。食材をキッチンに置いてから、娘の眠る寝室に向かった。
「おはよう。まだ寝てるのか?」
ベッドに腰をかけて娘の顔を覗き見して、ネロの息は止まった。急いで手首をつかみ、脈を確認する。呼吸も、心音も、全て確認した。急いで医者を呼んだが、もうほとんど確信に近かった。ネロはこの長い人生で、何度も死んだ人間を見てきたからだ。
病院で手続きをする。亡くなった娘との関係を問われ、「彼女は俺のベビーシッターとして育ててくれて、恩を感じて時々様子を見ていたんです」と答えた。もう何度も作り替えた偽造の本人確認書類を見せると、病院側はすぐに納得した。
遺族としての手続きはこれで二度目だ。流れは覚えていた。
後日、彼女が住んでいた住居を売り出すために掃除をした。元々狭い家であったし、定期的にネロが掃除をしていたため、物は少なかった。服でも本でも、何が出てきても娘の顔を思い出させた。全てを燃やして塵にして、終わらせてしまいたかった。しかしネロはそこまで強くなれなかった。さらに魔法を使うのも躊躇い、一つ一つ手作業で整理を進めた。
一日で家は真っさらになり、案外遺品と呼べるようなものは段ボールひと箱に収まる程度しかなかった。あとは処分するしかない日用品だった、
遺品の中には、昔ネロが娘に渡したピアスもあった。青みがかった緑の石が埋め込まれたシンプルなデザインのものだ。これはネロが三人で暮らしていた家を出る時に、せめてもの詫びとして渡したものだ。ネロが家を出る数週間前に娘が高校の友だちと一緒にピアスホールを開けたから、ちょうどいいと思って選んだことを、ネロはそれを見て思い出した。
またピアスの他に、ネロが妻に渡したネックレスもあった。おそらく妻が亡くなる前に娘にあげたのだろう。
娘と一緒に過ごした時間は、700年以上生きた人生の中でもほんの一部でしかない。寧ろ他の人と共に生きてきた時間の方が何倍も長いはずだ。だけどネロにとっては濃密な日々だった。そんな日々を作った人が残したものが、こんな小さな段ボールひとつに収まる程度だなんて、人の人生はあっけないものだと思った。
娘が死んでからは馬車馬のように働いた。娘の死亡に携わる諸届を全て終えてからすぐに、数日間閉めていた店を再開させた。
常連客やいつもの仕入れ先から「何かあったのか」とか「久々な感じだな」と言われるたびに、「酷く体調を崩してしまって、しばらく病院に世話になっていたんだ」と笑ってごまかした。こちらが笑うと、相手も『大した理由じゃなかった』と思ったのか、つられるように笑った。
「だからあんた、そんなに頬がこけちまったのか。病院食はここの飯とは比べモンにならないくらいまずいもんなぁ」
「はは、そうなんすよ。参りました」
「うちの野菜は栄養満点だから、あんたもちゃんと食って体力取り戻すんだよ」
そんなやり取りを、八百屋だけでなく、魚屋でも肉屋でもした。そうして買い物籠は買った商品だけでなくおまけも詰め込まれていっぱいになった。
世話になっている人たちとのそんなやり取りもあって、ネロはそれから休む暇もなく働き続けた。これまで何百年も自分の店は週二日を定休日にしていたが、それを一日に減らした。けれど不思議と身体は疲れなかった。休むといろいろなことを考えてしまいそうで嫌だった。料理をしていると頭がクリアになって、雑念が消えていく。だから今はとにかく料理だけをしていたかった。
これまでと同じで、一つの場所で長く営業を続けるということはなく、定期的に移転した。けれどその移転先も定休日は週に一日で、朝から晩まで一人で切り盛りして、毎日働き続けた。
そして娘が亡くなって99年が経った今年の春、突然身体が動かなくなった。
朝起きて、仕込みのために一階に降りなければと思ったのに、ちっとも身体が動かなかった。そうして時計を見つめ続けた。頭の中では「もう朝市に並ぶ新鮮な魚は売りつくされてしまっただろうな」とか、「あと一時間でランチ営業には完全に間に合わなくなる」と警報が鳴るのに、身体はちっとも言うことを聞かなかった。
普段ランチ営業を始める一時間前に、ようやくベッドから出て、臨時休業の札だけ下げてもう一度ベッドに戻った。魔法で水を手元に持ってきて一口飲む。魔法を使うのはかなり久々のことだったので、そんな簡単な魔法にすら疲れを覚えた。
ベッドに横になりながら、窓の外で雨が降る様子を眺め続けて、一日が終わった。
次の日は働いた。だけどその日以降、時々起き上がれない日があった。そうすると夜寝る際に「もしかしたら明日も起きられない日かもしれない」と不安が心に蔓延り、朝が来るのが怖くなって、次第に寝られなくなっていった。
夢も見るようになった。元々睡眠が深く、夢なんてほとんど見ない性質だったのに、今年に入ってから突然昔の記憶の夢ばかり見るようになった。それは魔法舎での生活や、北の国でブラッドリーと共に生きていた時の記憶もあったが、ほとんどが結婚した後に家族三人で生活した時の記憶だった。
妻に交際を申し込まれた日、それを受け入れたら頬を真っ赤にして笑う妻、「世間の婚約みたいな約束はできないけど、家族になりたい」と伝えたら泣きながら抱きしめてくれたこと、娘が生まれた日、娘と一緒にパンケーキを焼いたこと、近所の男の子の揶揄われて泣きながら帰ってきた娘を抱きしめながらあやした夜。どれも全て夢の中で鮮明に再現された。
娘が高校を卒業すると同時にネロはあの家を出たため、実質家族と一緒に暮らしたのは850年以上の人生の中で18年にも満たない。魔法使いからして18年なんて、あくびをしている間に過ぎ去ってしまうくらい短い時間だ。けれどネロは、そんな18年の間に起きた出来事を何度も何度も夢で見た。それらの夢を見た次の日の朝は、決まって身体が起き上がらなくなった。
このままでは店を続ける事すら難しい。身体の調子を崩すたびに臨時休業をしたら客からも不審がられるし、何よりもこの店の料理を楽しみにしてくれている客に申し訳なかった。どうすればいいのだろう、と思った時に、真っ先にファウストの顔が思い浮かんだ。
魔法舎を出てからも、ネロとファウストは時々連絡を取り合う仲で、ネロの店で食事をしたこともあったが、ネロに家族ができてからは自然と疎遠になった。一度ファウストの顔を思い浮かべると、無性に会いたくなった。
次の日、店に「しばらく休みます」と看板を立ててから、ファウストの暮らす谷に飛んでいった。飛行魔法も久々だったので、少し距離のあるファウストの家まで行くのに不安があったが、風の弱い晴れた日だったので問題はなさそうだった。
ファウストは変わらず嵐の谷で、一人で暮らしていると聞いたことがある。何の連絡も入れずに、心の赴くままに来てしまった。迷惑がられるかもしれない、と空を飛びながら暗い想像が脳裏にちらついた。
谷に着いて、彼の家に向かって歩いていると、二匹の猫が突然の来訪者に警戒しているのか、こちらに向かってニィニィ鳴いた。すると家から「どうしたの」と答えながら男が出てきた。
ファウストだ。魔法舎で暮らしていた時と一切変わらない容姿の、あの時のままのファウストだ。彼はネロの姿を見るなり、普段はすました切れ長の目を真ん丸にしてみせた。そして、しばらく言葉に悩んだ末、「……元気だったか?」と聞いた。元気じゃないから会いに来たとは言えず、ネロは笑ってごまかした。
▽▽▽▽▽
「正直あの時、君の姿を見て本当にびっくりした」
「やっぱ事前に連絡を寄こすべきだったよな、ごめん」
「そんなことはどうでもいい」
ファウストは、マグカップに添えられていたネロの手に触れた。ネロがマグから手を離すと、その手に自分のものを重ねてそっと撫でつけた。
「君が変わってしまっていたからびっくりしたんだ」
「……」
「頬もこけて、腕も細くなって、目の下には隈もできて。料理を生業にしている人とは思えないくらい不健康な姿だった。ちゃんと自覚していたの?」
「いや……最近やたらと客に体調を心配されていたのはそのせいだったのか」
「誰が見ても今の君の姿は心配になるよ。君は自分を蔑ろにする癖があるのを僕は知っているから、余計に心配だった」
「……俺と違ってあんたは変わらないね、ちっとも」
触られる一方だったネロも、ファウストの手に触れた。あの頃と同じ厚みと大きさの手。ファウストの変わらない体格が、声が、温度が、ネロを安心させた。
いくら魔法使いが年を取らない生き物であったとしても、心は常に生き続けている。趣味趣向が変わることも、考え方が変わることも、生活の仕方が変わることだってある。そんな様々な変化に伴って、肉体も変わることは当然ある。
しかしファウストは、そんな変化すらなかった。あの頃と変わらない真っ黒な服を着て、同じ色の髪色で、喋るスピードだって一切変わっていなかった。変わらないでいられるこの男の精神が、いつまでも眩しかった。
「君が人間の女性と結婚すると聞いた時、正直驚いた。君はそういうのをしたがらないと思っていたから」
「そりゃ不安だったさ。約束できないのに結婚って形を取ることに罪悪感もあったし。はじめは正直情けもあった。人間が生きていられるのなんてたったの70年程度だからそれくらいなら一緒にいてもいいかなって」
「でも子どもまでつくった」
「もちろん迷ったよ。魔法使いが生まれたら苦労するのは子ども本人だし、何よりも俺は育児に向かない」
「そうかな、魔法舎で子どもたちはみんな君を好いていたじゃないか」
「あれは俺があいつらに適当に優しくて、結局都合がいいだけだ。子どもを育てるってなると、もっとあんたみたいに叱る時は叱って、褒める時は褒めるみたいなのが必要だろ」
「よく判ってるじゃないか」
シノとヒースクリフが喧嘩をした時、仲裁に入ってそれぞれに注意をするのはファウストで、そんな二人に甘い菓子を渡して慰めるのがネロの役割だった。ネロはファウストのように時に注意したり指摘するのを得意としなかった。それができるファウストの性質を、ネロは自分には到底手に入れられないものだと思っていた。
「……でも、でもさ、欲しくなっちゃったんだ。きっとこの家に子どもが増えたら楽しくなるだろうなって。エゴでしかないんだけど」
「大抵の場合、子どもを作る行為は親のエゴから始まるだろう。まだ生まれていない子どもに何かしてやりたいと思って産むのではなくて、自分たちが子どもを欲しがるから産むんだ。生まれた後にきちんと育てたのならそこに責任を感じる必要はないと思うけど」
まぁ、独り身の僕が言うのは変な話だけどね、とファウストは付け加えた。ファウストとしても、経験していない者の想像力が、経験している者の感情に勝ることはないと自負していた。
「先生は魔法舎を出てからこの150年間、誰かと一緒に暮らさなかったの?」
「家族ならいるよ」
ほら、と丁度彼の足元にすり寄ってきた猫に、彼は目線を配らせた。ネロもテーブルの下を覗き込んで、甘えた声を出す猫を見る。この谷にはファウストが世話をしている猫が何匹かいるが、その中でも特に家の中に入り浸っている子だ。ファウストによっぽど懐いているのか、こんな夜中にも尻尾を振ってファウストに甘えていた。
「君も夜のおやつを食べたいの?」
にゃー。
「しょうがないね、今日だけ特別」
ファウストは席を離れ、キッチンの戸棚にしまってある猫のエサ用の瓶を取り出し、手にいくつか乗せた。
普段はこんな時間に食べさせないよ、太っちゃうから。とネロに対して弁解をしてくるので、ネロは思わず笑ってしまった。
「ほら、おいで」
ファウストが膝の上にその猫を乗せて、手に乗せたおやつを食べさせてやるのをネロは何も言わずに眺めた。空いた手で背中を撫でられる猫が気持ちよさそうで、つい頬が緩む。
「ほら、おしまい。これ以上は太っちゃうからだめ」
ファウストは空っぽになった手のひらをその猫に見せつけて、もうおやつを渡す意思が無いことを伝える。それが伝わったのか、猫はひょいっと彼の膝から降りてどこかへ行ってしまった。
「うちの子どもはわがままだ」
「……先生はさ、一人で生きていると寂しくならない? こんなこと言いたくないけど、猫だって永遠の命じゃない」
「人間だってすぐに死ぬし、魔法使いだっていつかは石になる」
「だとしても、一人で飯を食って、一人で朝を迎えて、誰にも気づかれずに一人で石になるのは、俺は寂しいよ」
そう口に出して、ネロはようやく自分の心が分かったような気がした。
そうだ、俺は寂しいんだ。
今、一人で生きていて誰とも繋がりを持てないのが寂しい。これから自分の人生が誰のものとも交わることもなく、一本線のまま終わっていくのが寂しい。自分が石になる瞬間、誰にも見送られず、自分自身も誰かの顔を思い浮かべることなく死んでいくのが寂しい。どうして今まで気づかなかったのか不思議なくらい、その寂しいという感情は、ネロの身体にぴったりと馴染んだ。
「ふふ」
「え、何か変なこと言った?」
「いや、君の口から『一人はさみしい』なんて聞けるとは思っていなくて」
「変かな……」
「だって君、魔法舎にいた時は一人がいいですって感じだったじゃないか。世話焼きで心配性の癖して」
「そりゃあんだけおこちゃまばっかの場所にいたら心配だってするだろ。そういうあんただって一匹狼のふりして俺たちの先生をしてくれていたじゃん」
「それは必要だと思ったからやっただけだ。今でも僕は一人が好きだし、一人を選ぶよ」
ふと、ネロはかつて自分が北の国から逃げて百年近く一人で生きてきたことを思い出した。あの頃は、誰とも繋がらずに、これから先も一人でいいと思っていた。寧ろ、誰かと繋がることがストレスだった。じゃあ今は、あの頃のように割り切って一人で生きる人生を選択できるのだろうか。
「からかったわけじゃない。良い変化だと思ったんだ。寂しがりやなのに人と繋がることに臆病だった君が、言葉にして「一人は寂しい」って言えるようになったことがね」
魔法使いは誰しも独りで生きていかなければならない。人間と同じ時間の流れの中で生きられず、長すぎる生涯を持て余すように生きて、かと思えばころっと石になって死んでいく。どれだけ誰かと一緒にいるのが好きでも、死ぬときはいつだって一人だ。
そして、長く生きると別れも多い。もう何人見送ってきたのかわからない。大切な人をつくって、その人たちを見送って、その度に心を痛めるのにはもうこりごりだった。他人と深い関係を築かなければ、そんな悲しみを経験しなくて済む。そう気づいてからは、一人を選ぶようになった。
別れは寂しい。だから、一人で生きてきたのだ。
「あ、ケーキ焼けた?」
ちょうどオーブンが仕事を終えた。部屋中は甘い匂いで満たされている。ネロはオーブンから取り出して網の上に乗せた。綺麗に焼き色がついている。粗熱を取っている間、紅茶を淹れなおした。最近食欲も落ちていたのでこんな時間に食べられるかと思ったが、焼きたてのそれを見たら空腹がちらりと顔を出した。
「ネロ、もう切ってもいい?」
「うん。ほら、ナイフ」
ファウストが切ったケーキを覗き込む。栗が底に沈まずにきちんとケーキ全体に混ざりこんでいて頬が緩んだ。
「君はこれくらい? もっと厚く切る?」
「ううん、それくらいで。ありがと」
一切れずつ皿に乗せて、紅茶と共に二人とも先ほどまで腰かけていたダイニングテーブルに並べた。午前三時とは思えない光景だ。
「ん、おいしい」
「そう? よかった」
「たまには悪くないね、こういう夜も」
外はかりっと焼けて、中はしっとりとバターがきいて柔らかい。甘さ控えめで作ったから、こんな時間でも重く感じずに食べられた。
ネロはファウストの方を見た。彼も小さな一口でゆっくりと食べ進めていて、その姿に安心した。こんな時間に菓子を焼き始めた俺に気を遣わせないために、無理に食べさせているのではないかというネロの不安は、ファウストのそんな姿で少しずつ和らいでいった。
「ネロは変わったと思う。でも、それは良い変化だと僕は思うよ」
「はは、そうかな」
「魔法使いの長すぎる人生の中で君が家族を築いた結果、今のかたちに変化したのであれば、僕はネロが彼女たちと人生を共にしたことを、とても価値のある行為だと思う」
「……」
「素敵な人に出会えて、最後まで一緒に居られてよかったね。君はとても頑張ったよ」
「はは、そんなこと言われたの、初めてだから、なんか……うまいこと、言えねぇけど……」
反応に困り、ネロは身体中が熱くなって、何だか落ち着かなかった。もし今ファウストの目を見たら、自分が何を言い出してしまうのかわからなくて、思わずうつむいてしまう。
泣きそうなのに泣けなくて、頬が焼けるように熱くて、腹の奥が何かでいっぱいになったみたいで、心臓の動きが早くなったのが嫌でもわかった。
自分の動揺に追いつけなくて戸惑うネロの様子を見たファウストは、訝しげに尋ねた。
「……ネロ。君は娘さんが亡くなってから今年で99年だと言っていたが」
「あぁ、来年の冬で丁度百年だ」
「亡くなってからどれくらいの間、喪に服していたんだ?」
「え、っと……」
「ごめん。不躾な質問だから、答えたくないなら答えなくても……」
「いや、どうだっけな……。ずっといろんな手続きとか家の片づけでバタバタしていて、そのあとすぐに仕事を始めたから……ちゃんと時間を設けたりとかは……」
「君の店は今、週に何日定休日があるの?」
「一日だよ」
「前は二日じゃなかったか?」
痛いところを突かれたな、とネロは思った。目を合わせるとうまく言葉が紡げなくなると勘付き、ネロは皿の上の食べかけのケーキを見つめながら彼からの質問に淡々と答えていく。
「……減らしたんだ。今まで娘の面倒で急に店を休むことが多かったし、もう仕事しかやることがないから」
「休日は何をしていたの」
「なにって、魔法舎にいた頃と変わんないさ。店の試作品を作ったり、昼寝したり……最近は寝られなくてあんまりだけど」
「一人を選んだ僕が偉そうに言える事じゃないけれど、別れを悲しむ時間はちゃんと設けるべきだ」
「……はは、でも無茶してるわけじゃなくて、ほら、俺は仕事が趣味みたいなもんだから」
「相手に気遣わせないために、君が笑う必要もない」
そこでネロは、自分の表情がひどく不自然に思えて、上げていた口角が固くなったような気がした。無意識に笑おうとしていたことに、ファウストに指摘されて初めて気づく。先ほどまで上手く話せていたはずなのに、途端にどんな顔をして彼と話せばいいのかわからなくなった。
家族がいたことを店では隠していたから、娘の死去にまつわる手続きのために店を何日か臨時休業にした理由を客に尋ねられた時は、いつも「体調を崩して」と答えていた。へらっと笑ってそう答えれば、客も大した病気ではないのだと思い、真剣に捉えなくなる。やがて店がしばらく休業だったことなんて、誰も覚えていなくなる。
向き合うだけで死にたくなるような悲しみを、俺はどうやって扱えばよかったんだよ。ネロはそう思った。それは憤りに似た後悔だった。最善を尽くした。誰にも迷惑を掛けたくなかった。この別れは自分だけの記憶として、ずっと隠していたかった。誰かの助けが欲しい時も確かにあったけれど、こんな感情を誰かに発露するくらいなら一人で苦しんでいた方が何倍もましだった。
「悲しい時にちゃんと悲しんで、泣きたい時にちゃんと泣かないと、本当に悲しい時に心が動かなくなってしまうよ」
シュガー作ってみて、と言われて、指先に集中して魔力を込める。初歩的な魔法だ。魔法自体、久々に使ったような気がする。いや、実際にこの百年近くは全く魔法を使わない生活を送っていた。
ネロの指先によって何粒かのシュガーが作り出され、ネロはそれらを手のひらに乗せてファウストに見せた。ファウストはそのうちの一粒を摘まみ上げながら、ネロに言った。
「君のシュガーは、昔はもっと透明度が高くて綺麗な色をしていた。今は少しかすんでる。心が上手く働いていない証拠だよ」
「魔法を使ったの、久しぶりかも」
ファウストはネロの手のひらに乗せられていた、形もばらつきが目立つ不器用なシュガーをつまんで口に運んだ。ネロは思わず「あ」と声が出る。
「甘い」
「……ちゃんと甘いなら、よかった」
懐かしいと思った。魔法舎で暮らしていた頃、ネロはよくこうやって彼に魔法の使い方を指導された。魔法だけじゃなく、日常生活のだらしなさも、ちょっとした無茶も、全部あの頃からファウストが気付いてくれた。
自分が親になってから、その役割の難しさを実感した。同時に、親になってしまうとこんな自分を叱ってくれる人はもういないのだと気づいて、途端に恐ろしくなった時もある。
ネロは、目の前の男の存在が、自分の人生にとってかけがえのないものだと自覚した。身体が不調を示した時、真っ先にファウストを思い浮かべたのは、決して単なる思い付きなんかじゃなく、彼に会うべきだと本能が示していたのだろう。
「……なぁ、ファウスト」
「どうしたの?」
「少しだけ、ほんのちょっとでいいから、あんたのこと、抱きしめてもいい?」
「……いいよ」
断られると思っていたけれど彼から承諾を得たので、椅子から立ちあがり、ファウストの方へ向かった。するとファウストも立ちあがり、ネロと向き合う。そうして自分よりも少し低いところにあるファウストの目を見つめた。
それ以上動こうとしないネロの臆病さを許すかのように、「ほら」と言って両手を広げるファウストを、ネロはそっと抱きしめた。ファウストの着ている厚手のカーディガンが柔らかくて、抱きしめていると呼吸が楽になるような気がした。
誰かとこうやって身体を触れ合わせるのは久々だった。あの日、ベッドで静かに眠る娘の、冷たくなった肉体の触感を思い出す。
「……仕事で悲しむ時間が無いってのは、ただの言い訳でさ。本当は自分と向き合うのが怖かったんだ」
「どうして? 君は頑張ったのに」
「子どもができたってわかった時、魔法使いじゃなくて安心した。人間で良かったって思ったんだ。なのに、いざ娘が年老いて俺のことを忘れたら、この子が魔法使いだったら良かったのにって思った」
「……そうか」
「俺が一緒に年を重ねられないから、二人に迷惑をかけるのを分かっていながら家を出て、常に家族みんなに隠し事を強いながら生活して、俺なんかと家族になったせいでままならないことがたくさんあって」
「そんなことないよ」
「なのに、なのにさ、あの子が俺のことを忘れて、自分が置いていかれそうになったら、散々家族を振り回したくせに、一人になりたくないって思ったんだ。一人は寂しいって。一人で石になるのは嫌だって思った。この子が魔法使いだったら、俺の石を食ってくれたかもしれないのにって……」
「うん、うん」
「この前まで俺におぶられていた赤ちゃんが、あっという間にしわくちゃのおばあちゃんになってんだよ。そんで俺の顔を見て、毎日「誰」って言うんだ。あの子が魔法使いだったら、こんなことにはならなかったのにって、おれ、いつも……」
次第にネロの声に嗚咽が混じっていくのを、ファウストはただ聞くことしかできなかった。
ファウストは、かつて自分が師事を受けていた男のことを思い出す。強い魔力を持ち、長い時を生きて、最後は何百歳も年下のファウストにだけ自身の死期を明かした男。彼も一人で死ぬのを恐れていた。誰と一緒にいても、あの男はいつも心の中の空洞を持て余していて、それを埋める方法を知らないまま何千年と生きてしまった。ずっと人の中で生きていたのに、ずっと孤独でしかいられないような男だった。
ファウストは、その男の苦しみと似たようなものが、腕の中で泣くネロの中にもあるような気がした。自分の孤独を飼い慣らすことができない男。そんな弱さを何百年も生きた魔法使いが抱えることは、谷の奥で一人で生きることよりもずっと難しいとファウストは思った。
「誰かに想いや人生を託される苦しみは、俺が一番わかっていたはずなのに、俺はあの子に自分の人生を託したくて仕方がなかった、全部あげたかった。それで、あの子よりも先に死にたかった……」
ネロは涙を止める方法が分からず、抱きしめていた自分よりも薄い身体に縋った。ファウストはずっとネロの背中を撫でて、そのぬくもりがネロの諦念を少しずつ慰撫した。
ネロは最後に泣いたのがいつだったのか思い出せなかった。妻や娘が亡くなった時も、娘がネロのことを忘れた時も、一度だって泣かなかった。自分には泣く権利がないと思っていた。今まで何人もの人間や魔法使いを殺しておいて、初めてできた家族にも散々迷惑をかけて、そんな自分には、寂しさを理由に泣く権利はないと一度自覚したら、涙はちっとも出てこなかった。
だけど心のどこかで、こうやって感情を発露させる相手を欲していたのだろうか。ネロは自分の感情の正体がわからないままだった。ただ、縋りつくことを許してくれるこの優しい身体のぬくもりを、今だけは手放したくないと思った。
今まで溜めていた分がすべてあふれるように、ぼろぼろと頬を伝った。ファウストのカーディガンの肩部分は、ネロの涙でぐっしょりと濡れていた。けれど、ファウストは一切咎めなかった。離れようともしなかった。ずっと両手で抱きしめて、ネロの背中を撫で続けた。
「今までよく頑張ったね」
「寂しい、さみしいよ、ファウスト……」
「そうだね、一人は寂しい。僕もそう思うよ」
「……う゛っ……うぁ……あぁ……っ」
嗚咽が止まらなくなって肩を震わせていると、ファウストはネロの背中を一定間隔でポンポンと叩いた。泣いた子どもをあやすように、優しい力でずっと。ネロはその仕草を、自身も娘が小さい頃によくしてやったものだと気づいて、心臓が締め付けられるような思いだった。
小さくて丸い背中をずっと優しく叩いて、娘が泣き疲れて眠るのを一晩中待った夜の記憶。泣いて汗をかいて、じっとりと湿ったぬくい背中。まるで昨日のことのように思い出せた。そしてそれと同じことを、自分が年下の魔法使いにされていることが不思議だった。だけど嫌じゃなかった。ファウストの手のひらのぬくもりは、ネロの昂った心を安心させた。
「明日は昼過ぎに起きて、遅い昼食にしよう」
約束にも満たない計画をファウストは提案した。ネロはそれに頷くだけの返事をした。外が明るくなってきたところで、二人とも寝床に着いた。変な時間にケーキを食べてしまったからか、泣いて疲れたからなのか、ネロがベッドに入るとすぐに眠気に襲われた。
その日はぐっすりと眠れた。こんなにきちんと深い睡眠を取ったのは久々だと、起床後の混ざり気のない頭で思った。ネロがキッチンに向かうと、ファウストが起きた形跡が一切ないことに気付き、音を立てぬよう静かに昼食の準備に差し掛かった。ファウストの提案した、遅い昼ご飯を提供してやりたかった。
「明日の昼、ここを出ていくよ。長い間世話になった」
そんなことがあった次の日の夜、ネロはリビングで猫とくつろぐファウストにそう告げた。てっきり就寝の挨拶のためにリビングに顔を出したのだと思っていたファウストは、ネロの突然の申し出に一瞬表情を曇らせ、不安そうに眉をひそめた。その姿を見てネロは弁解するように言葉を続ける。
「昨日は百年ぶりくらいに良く寝られたよ。あんたのおかげ。本当にありがとう」
「……もし僕に気を遣って出るつもりなら、気にしなくてもいいけど」
「ううん。俺の意思だよ。あんたに話を聞いてもらえて、ちゃんと自分の生活をしたくなったんだ」
「そう、ならいいけど。明日の何時ごろ出るつもり?」
「あんたと一緒に昼飯食べたいから、その後かな」
「そう」
約一か月間一緒に過ごしたけれど、ファウストの返事は落ち着いていた。本当はそろそろ一人の生活に戻りたかったのかもしれない、とネロは推測し、心の中で謝罪した。
「荷造りはもう済んだの?」
「元々何も持ってきてないし、さっき簡単に荷物はまとめた」
ファウストは膝の上の猫をいったん降ろし、キッチンに移動して、ごそごそと戸棚の中を漁りだす。その様子をネロは背後から伺っていた。
「……これ、僕が作ったエルダーフラワーのシロップ。たくさんできたから良かったら一瓶持って行ってくれない?」
「お、ありがと」
小さな瓶に入った花弁入りのシロップを渡される。この家で生活をしている時に、ファウストがパンと一緒によく食べていたものだ。ネロもバターとシロップを乗せたパンの食べ方を気に入っていた。
「あ、あとこの間のコーヒー豆。君が美味しいっておかわりした時の豆だよ。一袋持って行きなさい。それから先週買って君と食べようと思っていたチーズも。そうだ移動中お腹がすくかもしれないから丁度このビスケットが……」
「せんせ、せんせ。ありがとな。気持ちはすげぇ嬉しいけど、それじゃああんたの食品庫が空っぽになっちまうよ」
「……すまない」
ダイニングテーブルに広がった、ファウストが出してきたあらゆる食材を見てネロは思わず笑みがこぼれた。自分の推測は杞憂だったと分かって少し嬉しかった。食べ物を持たせようとしすぎだと、ネロに遠回しに指摘されて顔を赤くしたファウストの姿を見て、ネロはその男の頬にキスをした。
「……なんのキス?」
「わからない……」
「相変わらずはっきりしない男だな」
呆れたようにそう言ったファウストも、ネロの頬に触れるだけのキスをした。
「あんたのこれは何のキス?」
「仕返しのキス」
「あはは、そっか」
じゃあこれはおやすみなさいのキス、と言って、ネロはファウストに唇を重ね合わせた。何とも言えないような微妙な表情を浮かべるファウストの姿に、ネロは見て見ぬふりを決め込む。
ネロは簡単に荷物をまとめてからベッドに入った。その日もよく眠れた。夢は一切見なかった。
「じゃあ長い間ありがとうな。本当に世話になった」
次の日の昼過ぎ、ネロはファウストのために沢山の作り置きを仕上げてから、自分の家に帰る準備をした。ファウストは家を出る直前のネロに「ちょっと待ってて」と言って、彼を置いて庭に出る。ネロは庭の奥に向かうファウストの姿を窓ガラス越しにぼんやりと眺めていた。
「お待たせ」
そう言って庭から戻ってきたファウストの両手には、何本かの控えめな花が抱えられていた。
「これは僕がそこで育てていた花。君は店に花を飾っているよね」
「うん」
「じゃあ包むから良かったら持って行って。どうせ君のことだから、すぐに店を再開させるんだろう?」
それは図星だった。ネロは帰ったらまず自分の店を掃除して、明後日には店の営業を再開させるつもりだった。ファウストが古紙で手際よく、長さの違う複数本の花をまとめ上げるのをネロは何も言わずじっと眺める。
「無理だけはしないように」
最後にリボンを巻いて、器用に花をまとめた。それは簡易的な花束になった。
「花にも簡単な保護の魔法をかけたから、しばらくは綺麗に保たれると思うよ」
「ありがとう。良い色だな」
ネロはその、黄色や白の花でまとめられた淡色の花束に、鼻を寄せてすうっと息を吸う。青々しい香りが胸をすっきりとさせた。
「ネロ」
「ん?」
「その花が枯れたら、もう一度ここに来なさい。そうしたらまた季節の花を包んであげる」
「……あぁ、じゃあ花が枯れたらまた来るよ」
二人はキスをした。今度はどちらともなく、自然に唇が重なった。
「どうか、元気で」
「君もね」
ファウストからもらったたくさんの食材と花束を籠に入れて、それを箒にひっかけてネロは空へ飛び立った。冬の冷たい風が肌を刺激する。背筋が伸びるような澄んだ空気の匂いも、どこか懐かしく感じ、決して嫌ではなかった。高度が上がったところでファウストの家の方に視線をやると、彼はまだ空を見上げながら小さくなっていくネロを見届けていた。なんだか気恥ずかしくなって、ネロは飛行のスピードを上げた。
風に吹かれて、包んでもらった花の花弁が一枚、翻りながら空を泳ぐ。それは、ネロの進む方向なんて知らないと言わんばかりに、ひらひらと舞いながら、ゆっくりと地上に落ちていった。