違う家の子どもだった男 そう言えば、と独り言ちて、彼は突然立ち上がった。そして部屋に備え付けのクローゼットの中から何かを探る。しばらくその様子を座ったまま見ていると、ようやく目当てのものを発見したのか、彼はこちらを振り向いた。
「使っていないネクタイがあったけど要る?」
クローゼットから取り出されたのは、買ってから一度も使っていないことが明らかな、ビニル袋に入った状態のネクタイだった。学校で指定されている、何とも言えないカーキ色のものだ。
「どしたの、それ」
「入学した時に予備として一本多く買ってもらったけど、結局使わなかったんだ。この間部屋の掃除をしていたら出てきた」
「あんた、物持ち良さそうだもんな」
あと一ヶ月で、ファウストは引っ越しをする。大学進学を機に、彼が18年間過ごしてきた名残で満ちたこの実家から出ていくのだ。今二人で寛いでいる彼の部屋には、既に段ボールがいくつか積まれている。引っ越しの準備を少しずつ進めているのだろう。その荷物をまとめている最中に、未使用のネクタイをクローゼットから見つけたのだと想像を働かせた。
「俺、普段ネクタイ着けねぇからなぁ」
「そうだね、校則違反だ。僕が風紀委員だったら君に説教していた」
「恋人が風紀委員じゃなくて生徒会長で良かったよ」
「元、な。それもあと数日のことだよ」
で、いるの? そう返事を促されて、思わず口をつぐんでしまう。
「……もうすぐ卒業式なんだから、最後の日くらいあんたがその綺麗なネクタイ着けたら?」
「僕が今使ってるものも別にそんな古くないから、わざわざ一日のために新品をおろす必要もないかなって思ったんだけど」
ファウストは少し考えた後、「まぁ君がいらないなら別の人に渡そうかな」と呟いて、そのネクタイを勉強机の上に置いた。
「え? 誰かにあげんの?」
「新品なのに捨てるの勿体ないだろ。押し付けるわけじゃないけど、今度レノやシノあたりに一度聞いてみようかと思う」
「あ、へー、そっか」
「なに」
「別に。なんもないけど」
「そう」
『別の人』という言葉がでて、思わず余計な口出しをしてしまった。俺は誤魔化すようにファウストが出してくれたお茶を口に運んだ。もうこれが飲めるのも最後だろうな、と思う。ファウストの家に遊びに行くと、いつもこのお茶を出してくれる。緑茶だけれど、渋みが少なくて甘い香りがする。俺はこのお茶が好きで、以前彼に何という茶葉なのか尋ねたことがある。
「わからない。母さんが近所のお茶屋さんでいつも買ってるものだから、何の茶葉なのかなんて気にしたことなかった」
まぁ実家で飲むものなんてそんな感じだろう。俺も実家で作っていた麦茶がどこのメーカーのものなのか知らない。
俺の部屋に比べて、ファウストの部屋に行く頻度は高くなかった。ファウストのご両親が帰宅する時間が俺の家よりもずっと早かったからだ。回数で言ったらそれこそ五回もないだろう。それでも、この部屋に来るのがおそらく今日が最後だと思ったら、いろんなものを寂しく感じるようになった。
ラグが敷かれた床に座りながら、部屋を見渡す。
日に焼けた壁紙、まだ参考書が並んだ学習机、十年以上前にこの家で飼われていたという猫の写真、そして床に積まれた存在感のある段ボール。
俺はとなりで床に腰かけるファウストの横顔を盗み見た。この部屋にいる彼の表情は、学校やネロの部屋にいる時の彼に比べていつも幼く見える。
交際する前も、恋人になった後も、俺たちは互いの部屋を行き来した。しかし、俺の家に何度招いても、ファウストがあの部屋に馴染むことはなかった。俺の部屋にあるバンドのCDも、床に積まれた巻数の揃わないマンガも、無造作に置かれたアクセサリーも、その何もかもファウストが溶け込むことのないものだった。
ファウストと自分の育った環境が全く違うのだと、こういうふとした瞬間に実感させられる。それは決して悪いことばかりじゃなかった。俺にとって、自分に混じりきらない潔白さを持っている男は、一つになって溶け込んでしまうような人よりも得難い存在だと実感していたからだ。
「引っ越しって大変なんだね。そんなに物は多くないつもりだったけど、クローゼット一つ片づけるだけでも時間がかかってくたびれた」
ファウストはそういってお茶を一口飲んだ後、背後のベッドに大げさにもたれかけてみせた。
「でもだいぶ片付いてきたじゃん。おつかれ。もう引っ越し先の部屋は決まってるんだっけ」
「うん。大学の近くにした。客用布団も買うから君も遊びに来て」
「おんなじベッドで寝ればいーじゃん」
「……君はすぐそういうことを言う」
肩がくっつく距離で隣に座る彼の頬が、ほんのりと色づく様子を見て、たまらなくなる。熟れた果実にかぶりつくように、その火照ったファウストの頬に俺は口づけた。
「こら、僕の家ではそういうの禁止」
「ほっぺにチューくらいいいだろ」
「……でも、だめ」
「じゃあファウストの新居ではいっぱいしよーな。チューも、それ以外も」
「ん」
何だか目の前の男が可愛くて仕方がなくなってしまい、今度は唇にキスをすると「ネロ!」と本気のお叱りが入る。俺は彼に怒られるのが好きなので、そうやって怒られると心が満たされるような、どうしようもない気持ちになってしまう。
「……ネクタイ、やっぱり俺にちょうだい」
「気が変わったの? いいけど」
ファウストが立ちあがって勉強机に置いてある新品の方を手に取ろうとしたので、「そっちじゃなくて」と遮った。
「そっちじゃなくて、いつもあんたが使っている方」
「僕が使っているもの?……一年の時から使っているから、かなり古いけど」
「いい、それがいいんだよ。あんたは卒業式にその新品の綺麗なネクタイ着けて、俺はあんたがずっと使っていたやつ着けて卒業式行く」
「……君って、そういうかわいいところあるよね」
「うるせー。こういうのは旅立つ人より残される奴の方が寂しいもんなんだよ」
「寂しがりだ」
「なんとでも言え」
一通りからかった後、ファウストはクローゼットをもう一度開けて、ハンガーにジャケットと一緒にかけてあるネクタイを取り出した。ん、と差し出されるそれを受け取る。のりが取れて、少し色が褪せている。気のせいだろうが、袋に入っていた先ほどの新品のネクタイよりも、ちょっと軽い気もする。
「卒業式、ちゃんとさぼらないて出席してね」
「当たり前だよ」
「明日からこれ着ける?」
「うん」
「じゃあ明日のお昼は屋上階段の踊り場に集合ね。君がそれを着けているところを見せて」
三年生はもう自由登校の期間だ。でもファウストは学校に来て図書館で勉強や読書をして、一緒に昼食を取ってくれる。それもあと何日続くのだろう。
たった一年の生まれた差がもどかしくて嫌になる。
「なぁ、ファウスト」
「どうしたの」
「一回だけ、キスしていい?」
「……いいよ、一回だけね」
俺はファウストに叱られる。許される。
ファウストは俺にほだされる。淪落させられる。
この関係が変化していくのが怖い。きっと彼は俺のそんな臆病さを見破っているのだろう。だから、人嫌いの彼がわざわざ自由登校の期間に学校へ来て、一緒に昼食を取ってくれる。まるでこの先何も変わりませんよと言うかのように。彼と過ごした学校生活がこのまま永遠に続くと錯覚させられそうになる。彼のそんな寛容さに、ずっと甘えていたかった。
時計を見る。あとわずかに短針が動いたら18時になる。もうじきファウストの母さんが教会の集まりから帰ってくる。
「もう時間だよな、帰るよ」
「うん」
彼に玄関まで見送られた。ファウストの家の玄関は、いつもきれいに整えられている。余計な靴が玄関に出ていないのだ。初めて彼の家に招かれた時、それが驚きだった。俺の家では、冬でも誰かのサンダルが脱ぎ捨てられているような家だったから。
「……ネクタイ、わがまま言ってごめん。あんたの物が他のやつの手に渡るのが何だか嫌で、変なこと言った」
「ふふ、かわいい。僕も分かっていて意地悪なこと言った、ごめんね」
突然他の人の名前を出されたのはファウストの意地悪だったのかと合点がいく。手のつなぎ方すら知らなかった恋人に、今や俺が手のひらの上で転がされている。
この関係性がずっと変わらないでいてほしいと思うけれど、現在進行形で俺たちの関係は変わり続けているのかもしれない。
「じゃあまた明日」
「うん、明日な」
これから彼とどんな関係になっていくのかわからない。それは紛れもなく俺の不安の主要因だった。けれど彼と共にいると、そんな不安を侍らすことも悪いものじゃないと思えた。