可愛い蝶々2「そっか。三郎は偉いなぁ」
兄貴の声がデレデレしてる。顔も、溶けそうなくらい目尻が下がってて、すげー甘い表情だ。推しキャラの等身大フィギュアを一緒に見に行った時よりデレてる。よくうちに家事の依頼をしてくれるお客さんの家で生後2ヶ月の子猫を見せてもらった時の顔に似てるけど、それよりもデレ度は数ランク上だ。
三郎が俺と兄貴の間に座る。首を傾けて、兄貴を見る。それから「三郎、偉い?」って確かめるみたいに繰り返した。兄貴が「ああ」ってすぐに頷くと、「じゃあね、じゃあね」って言ってから、少し黙る。その後で、言った。
「いい子いい子して?」
そのおねだりを聞いた瞬間、兄貴の表情からデレが消えた。デレだけじゃなく、他の感情も全部消えた。急に真顔になった兄貴が、三郎に手を伸ばす。頭を撫でられた三郎が「えへへ」って笑う。
三郎、お前……可愛いな!
余計なもんが何にもない笑顔だった。“嬉しい”と“大好き”だけの、純度100%のキラキラの笑顔を見て、俺の頭の中は「可愛い」でいっぱいになる。すっげー可愛い!
今でもこんな風に笑えば、三郎は兄貴から禿げるくらい頭を撫でてもらえると思う。仏頂面してても、三郎が撫でてって言えば兄貴はいつでも撫でてくれると思うけど――言えねぇよな。俺も弟だから、気持ちは半分わかる。兄貴を追い駆けて、超えようって頑張ってる最中の男が、そんなガキみてぇな事、言えねぇよ。でも俺は三郎と違って兄貴でもあるから、言えよ、言えばいつでも撫でてやるのに、とも思う。
「じろにいも!」
三郎がこっちを向いてこてんと頭を倒してくる。動画撮影中のスマホを兄貴に預けて、小さな王様のお望み通り、頭を撫でてやる。
嬉しそうだ。俺たちを見てる兄貴も、幸せそうな顔をしてた。
俺は兄貴と弟、どっちの気持ちもわかるから、三郎が甘えたいって思うタイミングを見逃したくない。この10年の間に経験した色々な事の所為で、素直に「いい子いい子して」って言えなくなったこいつの、隠したり、胸の中で潰したりしてる思いの全部――は無理でも、一つでも多く、気付いてやりたい。
今度は兄貴が首を傾げる。急に三郎がジュースを差し出したからだ。
「いらねぇのか?」
三郎が不思議そうな顔で兄貴を見た。その後、眉が八の字になる。
「飲んじゃダメ? もうご飯?」
兄貴が俺を見る。けど、俺にもわかんねぇ。ダメだなんて俺も兄貴も一言も言ってねぇのに。
「トントンしてくれないの……?」
「トントン」! そうだ、昔……。兄貴も同時に思い出したらしい。膝を鷲掴んだ手がぷるっぷるしてる。大丈夫かな。あの手に包まれてる膝の皿が割れてねぇか心配になる。
「してやる。する。貸してみろ」
震えてんのは体全体だから、当然、兄貴の声も震えてる。
三郎がまた笑顔になって、両手で兄貴に紙パックを渡す。
「わーい」
「わーい」って言った!? 「わーい」!?
やべー。俺も手が震えてきた。三郎ってこんな可愛かったっけ? 可愛かったようるせぇな知ってるに決まってるんだろ。むしろ俺と兄貴しか知らねぇんだよ!
兄貴がストローを袋から出して、伸ばして、パックに挿す。三郎は、昔、これを「トントン」って呼んでた。確か、ストローを「トン」って伸ばして、パックの底に「トン」って着くまで入れるからって理由だったはずだ。
ちっせー子どもって、紙パックのあの細い袋に入ってるストローを何でか取り出せねぇんだよな。手がちっせーからかな。何とか取り出せても、挿した途端に中身が噴き出る。強く持ってるから。力加減がまだ下手なんだよな。
だから上手く出来るようになるまで、兄貴がしてくれてた。
兄貴が、14歳だけど心だけ4歳になっちまった三郎のために、昔と同じようにしてやる。
「角っこ持てよ。ブシャーってなるからな?」
「うん! ありがとうお兄ちゃん!」
本当なら、こういうのは親がするんだと思う。でもうちでは兄貴だった。トントンするのも大丈夫だぞってそばにいるぞって、可愛いぞ、偉いぞって言ってくれるのも、全部兄貴だった。
オオサカの3番手を見る。目が合う。見つめる。1、2、3。3秒経ってから視線を兄弟に戻した。
10年前、俺たちの親父はどこで何をしてたんだろう。36歳の親父は、俺たちをたまに思い出したりしたんだろうか。
施設には、血のつながった親とか親戚が会いに来る子どもが結構いた。会いに来ない親をずっと待って、結局来なくて、泣き出す子どももいた。
俺は、親は俺たちに会いに来られないってわかってたから、ひょっとしたら来るかもって期待した事も、来てほしいって待った事もない。でも親父は「会いに来られなかった」訳じゃなくて「来なかった」んだ。生きてたって事は、そういう事だ。
親父は、一度も俺たちに会いたいと思わなかったんだろうか。少しも心配しなかったんだろうか。
親ってそんなもんなのか? ――俺にはわかんねぇ。
だって俺の家族に「親」はいなかった。いたのは「兄弟」だけ、兄貴と三郎だけだ。
リンゴジュースを一口飲む。すぐに三郎はストローから口を離して、俺と兄貴を交互に見た。
「美味しー!」
この片方のほっぺた押さえて「美味しい」って言うやつも昔やってた! よくやってた!
くっそ、すっげー可愛いな! さっき兄貴から返してもらったスマホで、俺は引き続き4歳の三郎を撮影中だ。
ジュース飲んでるだけなのにこんなに可愛いとか有りか? 何でそんなちっせー紙パックを宝物みてぇに両手で持ってんだよ。重てぇのか? じろにいが持ってやろうか?
「あっ!」
兄貴と二人でじっと見てたら、三郎が急に大きな声を出した。
二人で「どうした?」って訊いても、三郎は俺たちを見ようとしなかった。視線は下、兄貴の足元を見つめてる。
「取れてる!」
何が? そう思いながら、三郎が指さした方向を見る。あ、マジだ、取れてる。兄貴の靴紐が解けてた。きっと、さっき逃げようとした犯人に蹴り入れてた所為だ。あいつ、肋が何本か折れてんじゃねぇかな。兄貴の蹴りで思いっ切り吹っ飛んで壁に叩き付けられて白目剥いてたもんな……。
「転けたら大変だから、三郎がちょうちょさんにしてあげるね!」
ジュースをソファに置いて、三郎が立ち上がる。兄貴の前に立つと、躊躇いなく床に両膝をついたから、驚いた。子どもって汚れへの耐性が無限大だよなぁ。今の三郎なら多分よっぽどの事でもねぇとこんな事しねぇ。
「1回結んでー、丸を2個作ってー……」
歌ってるみたいに1個1個の動きを口で言いながら、三郎が「ちょうちょさん」を作っていく。
「……できたー!」
出来てない。いや一応出来てはいるけど、ちょうちょさん元気ねぇし羽が片方ほとんどねぇから、これ多分もう……。兄貴が眉間に皺を寄せて俺を見る。言わねーよ! ちょうちょさん、死にかけてるぞ、なんて。今の三郎になら言うかもしんねーけど、4歳の三郎には言わねーって!
「よく出来てる。すげーな三郎、助かったぜ」
三郎は、えへへって嬉しそうに笑って、えっへんって偉そうに胸を張った。
兄貴はこのまま結び目を接着しそうな、甘い顔をしてた。家に帰ってすぐに兄貴が接着剤を取りに行ったら、さすがの俺も止める。結んでる間中、ちゃんと動画も撮ってたし、何なら後で結び目の静止画もプリントアウトするから、これは一旦解いて結び直そうぜ。気持ちはわかるけど、マジで危ねぇから。
俺と三郎に蝶々結びのやり方を教えてくれたのも、兄貴だった。自転車の乗り方も、逆上がりの仕方も、兄貴が教えてくれた。
本当ならこういうのは、きっと親の役目なんだ。でもうちでは兄貴がしてくれてた。
学校であったことを聞いてくれて、褒めてくれて、怒ってくれた。全部兄貴だった。
10年前、兄貴は9歳だ。兄貴だって、子どもだった。
それでも兄貴は、俺たちの傍にいてくれて、いろんな事を教えてくれた。
兄貴に紙パックを渡された三郎が、ソファに座って、またジュースを飲み始める。
可愛い。マジで、すっげー可愛い。可愛いようるっせーな見ればわかるだろ! 可愛かったんだよ! 今だって可愛いよ!
知ってるつーの! つーか、俺らしか知らねーんだよ! 知らなくていーんだっつーの!
撮影を止めて、三郎を直に見る。三郎を見てる兄貴を見る。俺の「家族」を見る。
そうだよ、こいつの可愛いところは、俺と兄貴だけが知ってればいい。
「家族」だけが、知ってれば。