「体毛が白と黒に覆われた、猫のような熊のような生き物が成都にいる」
それは突如もたらされた、唐突な言葉であった。
夏侯惇は空耳か聞き間違いかと自らの耳を疑いながら、書庫の棚から目を離し声の主の方へと視線を向ける。
声の主である荀彧は、涼しげな目元を僅かに緩めたまま唇をつぐみ、一枚の紙を見つめていた。
紙に書かれているのは、奇妙な絵と羅列された文字。
少し離れている夏侯惇の位置からは、何と書いてあるかまでは読めなかった。
「それがどうした」
夏侯惇は、低い声を潜めて荀彧に問う。
荀彧はその夏侯惇の声にはたと顔を上げ、丸くなった目で夏侯惇を見つめる。その頬は僅かに赤らんでいる。
声を出していたことに気がついていなかったのだろう。油断している荀彧は、珍しかった。
夏侯惇はじっと押し黙り、荀彧の言葉を待つ。
やや困惑した様子を見せた荀彧だったが、夏侯惇の物言う視線を一身に受け、細く小さく息を吐き、手元の紙に再び視線を落としながらぽつぽつと呟いた。
曰く。
成都の山の奥深く。
体毛が白と黒に覆われた熊とも猫ともなんとも言いがたい奇妙な生き物が住んでいるのだという。
それらは熊の容貌に似ながら笹の葉を食べるのだという。
転がる姿は球のようで、神仙の類という噂がまことしやかに流れているという。
「その生き物が、なんだというのだ」
夏侯惇は腕を組み、棚に背を預けながら荀彧を見やる。
「一度で良いので見てみたいです……」
紙に書かれた絵を見つめながら、荀彧はそろりと呟く。
「……」
夏侯惇は腕を組んだまま、眉間の皺を深くした。
*
どこまでも青く澄み渡る、天高い成都の空の下。
頭を下げつつ手を振りながら家路を急ぐ民に手を振り返しながら、趙雲はその双眸を緩める。
農作業を終えた民達は、自らの家族の元に帰っていく。
さて、と趙雲は僅かに頬を流れる一筋の汗を拭い、木陰に繋いだ愛馬の元へ帰ろうと踵を返した。
その瞬間、視界に入ったその二つの姿に趙雲の全身に緊張が走った。
馬上に在る、魏が誇る智将と猛将。
ぶる、と馬が頭を振った。趙雲が息を詰める。
「夏侯惇殿……それに荀彧殿……」
「ご無沙汰しています、趙雲殿」
荀彧は栗毛の馬の背から下りると、趙雲に向かって深々と頭を下げる。同じように馬から下りた夏侯惇は荀彧の隣に立ち、硬い表情のまま趙雲を睨むように見据える。
趙雲は動揺していた。
劉備が剣を置き曹操の天下となったこの世で、曹操の子房と右腕が揃って成都に訪れることなど、あり得ない。
何か不都合不具合、不穏なものがあったのだろうか。
いわれの無い何かを追及されることはないだろう。
何のために、彼らは此処に来たのか。
もしまた戦火が巻き起こるとなれば、ようやく手に入れることが出来たこの国と民の平穏はどうなるのか。
趙雲はやや肩に力を込め、夏侯惇と荀彧に相対する。
何かあれば、武器を持たないながら、自分が民を、国を守らなければいけない。
無意識に喉を上下させた趙雲が夏侯惇の言葉を待つ。
「白と黒の体毛に覆われた丸い奇妙な生き物がいると聞いた」
「……はい?」
趙雲は身構えたまま、自らの耳を疑った。
憮然とした表情のまま腕を組んだ夏侯惇が発した言葉。
夏侯惇の口から紡がれた言葉を趙雲はすんなりと飲み込むことが出来ず、そのまま、間の抜けた問いで返した。
「白と黒の体毛で覆われた生き物だ」
夏侯惇は再度繰り返す。
聞き間違いでは無い。趙雲の一抹の期待は塵となる。
夏侯惇の問いの意味を二呼吸ほどかけて飲み込み、考えた趙雲はおずおずと頷いた。
「は、はい……いますが……」
「それを見せろ」
「え?」
趙雲は再び聞き返す。
「お願いいたします、趙雲殿……!」
荀彧は趙雲の肯定の言葉に輝かせ、深く頭を下げ乞うた。
夏侯惇の言葉も荀彧が頭を下げる光景も、俄には信じがたいものだった。
「……え、あの……わ、わざわざそのために、許昌から成都まで……?」
趙雲は、自らを睨むように見据える殺気だった夏侯惇と、目を輝かせながら指を組む荀彧を見比べ戸惑いの声を上げる。
許昌から成都。その道のりは、一言で言い表すには果てしない。
未だ多くの盗賊が潜む森も、曹操の治世に内心反感を抱いているであろう者もいれば、天然の要塞とも言うべき天嶮の山々と激しい自然を誇る益州の地。
全てを乗り越えなければ、この成都に辿り着くことは出来ない。
しかし、夏侯惇と荀彧はやってきた。
黒と白の、あの奇妙な生き物を見る。
ただそれだけのために。
趙雲は言葉を失い、なんと答えたら良いか躊躇っていたが、視界の端で揺れる葉の先に視線を向ける。
「えぇ、と、その生き物でしたら……あぁ、丁度あちらに」
趙雲はゆっくりと、草むらを指さす。
がさり、と一際大きく草むらが震える。
夏侯惇は僅かに身構え、荀彧は指を組んだままごくりと唾を飲み込む。
「っ!」
ひょこり、と黒い鼻先が見えた。
荀彧の平素は涼しげに凪いだ瞳が大きく見開く。
がさがさと草を踏み現れたその姿に、夏侯惇は一つの眼を訝しげに顰める。
「なんて可愛らしく愛らしい造形と仕草……!」
ほぅ、と荀彧は感嘆の息を漏らし、輝く視線をその生き物に向ける。
ふんふんと鼻をひくつかせながらのそりと動いたかと思えば、ころり、と身体を丸めて斜面から転がり落ち、尻餅をつくように地面に座ったその生き物の姿に荀彧は声にならない声を上げそうになり両手で口を覆う。
「あまり近づかなければ大丈夫かと思いますよ」
「……!」
穏やかな趙雲の言葉に、荀彧は趙雲に顔を向ける。
あまりに輝く瞳をたたえた荀彧のあどけない表情に、一瞬趙雲はたじろいだ。
荀彧は白と黒の生き物に視線を戻すと、その細い背を丸めそろりと足を踏み出す。
半歩ずつ生き物に近づく荀彧の背を見つめながら、趙雲は恐る恐る口を開く。
「あの、夏侯惇殿……」
「なんだ」
「本当にあれを見るだけのために、ここまで……?」
四足歩行でのそのそと歩く生き物を指さしながら、趙雲は夏侯惇に問う。
夏侯惇は腕を組んだまま、ふぅと深く息を吐き出す。
「奴が何かを見たがることなど、いつもならほぼ無い」
実直で清廉な智将。荀彧は時に自由な同僚達を諫め、手綱を握りながら曹操の治世を支えてきたその姿を、夏侯惇は何よりも近くで見てきた。
日に日に目元の隈が濃くなる姿も、見てきた。
何か気を紛らわせるような、政務を一時でも忘れられるような何かがあれば。夏侯惇はいつも、細い荀彧の背を見つめながら考えていた。
「たまには息抜き代わりに付き合ってやるのも良いだろう」
果たして、許昌から成都までは息抜き代わりに付き合うほどの距離だろうか。
「……そうですか」
幾度と無く刃を交えてきた隻眼の猛将の視線。
およそ信じられないほど、穏やかで優しいその夏侯惇の視線に、趙雲は緩んでしまいそうな口元を隠すように手で覆った。