静謐のパライソ 外界とは硝子で隔てられた、摂氏25度の世界。体内に水を存分に蓄え背を伸ばすサボテン、温暖な気候で育つ色とりどりの花が咲き誇り、大きな花弁の頭を垂らす異国情緒を漂わせるものもこの温室の住人として鎮座する。地面に直接植えられた観葉植物たちは深緑の葉を天へと腕を伸ばし、僅かに吹き込む風にその先を揺らす。
少し離れたところからは水が流れる音も聞こえ、流れる水が溜まった小さな池の水面には睡蓮の葉がゆらゆらと漂っている姿が見える。伸びた茎の先には、神秘性を秘めた仏の座のような薄桃色の花が開いている。
石畳の道の先、温室の傍ら。そこには二脚のガーデンチェアとモザイクテーブルが鎮座している。今日は、アルミで出来たオフホワイトの椅子に主達が座っている。
「いつ来てもこの温室は素晴らしいな」
白銀の長い髪をおろした男は穏やかに微笑み、温室の中の植物たちをぐるりと見渡す。
「私は目が見えないが、ここは花の香りに溢れている。とても居心地が良い」
ふ、と反対に座った男が笑み、頷く。両の目を封じるように走った大きな古傷は痛々しく見えるが、白銀の男は特に気にした様子も無く「あぁ、とても良い香りだ」と同意を示す。
太陽の光が硝子を通し二人に降り注ぐが、不思議と熱さはそこまで感じない。
そもそもガーデンチェアもテーブルも、本来はない物だった。しかし、この温室の主がこの二人のためにいつの間にか用意し、その好意に二人は甘んじた。
「何を話している」
温室の主――リュウガが、キッチンワゴンを押し二人の間に割って入る。石畳の上を、ガラガラと車輪を鳴らしながらリュウガが押すそれは深みのある木目のアンティーク調のワゴンであり、年季の入った高級なものであると一目で分かるほどだった。
キッチンワゴンの上には鳥籠を模した三段のスタンドが載せられ、そこには二人分のスコーンやケーキ、サンドイッチが盛られている。フルーツタルトのケーキはみずみずしさを放ち、運ばれていく。
キッチンワゴンをテーブルの脇に止めたリュウガの問いに、椅子に腰掛けた二人は含み笑いを浮かべ顔を見合わせる。
「この温室はいつも素晴らしい、という話をしていたんだ」
白銀の男――トキが、リュウガの問いに答える。決して狭くは無いこの温室の管理人を讃えるようなその言葉に、リュウガは形の良い柳眉を僅かに曲げ「当然のことをしているだけだ」とややぶっきらぼうに答えた。褒められ慣れていないリュウガは、時折こういう返事をすることがある。それは二人とも、分かっている。
「今は何の花が咲いているんだ?」
盲いた男――シュウが問う。
「蘭と、茉莉花。イランイランも咲いていたな。ハイビスカスはそろそろか」
「成る程、この香りはイランイランか」
リュウガはテーブルにスタンドを移し、二人の前にソーサーとカップを並べていく。リュウガの答えに合点がいったと言わんばかりのシュウは、鼻先を香りに向ける。暖かな空気に混じった花の香りは芳しく、自然と肩の力が抜けていく。
温室の主であるリュウガは、こまめに土を入れ替え水をやり、草花を育てている。元々律儀な男だとは思っていたが、真面目で几帳面でもあった。北斗を戦へと導く天狼の星を冠する孤高の男に、二人は自然と好感を抱いていた。
「ディンブラだ。ミルクでもストレートでも、どちらでも合う」
陶磁のティーポットに指を掛け持ち上げたリュウガは、トキとシュウ、二人のカップに飴色の液体を注いでいく。芳醇な香りが鼻腔を擽り、二人の頬が自然に綻ぶ。
「せっかくだから私はストレートでいただこう」
「私もそうしよう」
トキの言葉に、シュウは頷く。「そうか」とリュウガは特段気にした風も無く頷き、ミルクポットとシュガーポットは念のためにとスタンドの傍に置かれた。
紅茶も、スコーンもケーキも。全てはリュウガが手づから準備をする。それが己の新たな使命だと言わんばかりに、細かく完璧に。リュウガはそういう男だと、トキとシュウは最近知った。
最初の内はトキもシュウもリュウガの言動に困惑していたが、座って花を愛でてケーキを食べることでリュウガが満足感を得ることが出来るのだと分かってから、それに従うようになった。最初出てきたデザートはプリンのような甘い半固形の液体だったが、今ではタルトやスコーンなどが出てくるようになった。リュウガ自身も、変わってきていた。トキとシュウ、二人をもてなすために学びを重ねたようだった。その気持ちが、何よりも嬉しかった。
カップに注がれた温かい紅茶。色とりどりのケーキ。伝統を重んじるようなキュウリのサンドイッチ。喧噪から離れたひとときの憩い。硝子で仕切られた世界。ここでは、何も飾らなくて良い。
「いつもありがとう、リュウガ」
トキが柔和な笑みを浮かべ礼を述べると、リュウガやや視線を逸らしじっと押し黙る。そして、口を開き「当然だ」とやや口早に呟く。
どこか子供のようなリュウガの仕草にトキは唇を隠すように指を当て小さく笑う。トキから漏れた笑う声に、つられてシュウも笑む。
「冷めるぞ」
二人に笑われどこか居心地悪そうになったリュウガは、横目でトキとシュウの手元にあるティーカップを見下ろす。ティーカップからはまだ湯気が微かに立ちこめている。
「美味しい内にいただこう」
リュウガの言葉にまた笑ってしまいそうになったトキは、一つ咳払いをしてそれを誤魔化すと、カップを持ち薄い縁に口をつけ中に満ちた紅茶を一口、口に含む。喉を伝う苦みを含んだ熱い液体は、じんわりとトキの身体を内側から温める。
「そうだな」
シュウはスタンドの中に鎮座していたサンドイッチを取る。
リュウガはそんな二人の様子を見る。
戦乱の世から、争いの運命から解放された聖者と仁者。穏やかに、あどけなく、楽しげに笑う二人の姿に、自然とリュウガの胸がきつく締め付けられる。
平和というものは、かくも美しく、眩いものか。
リュウガは、真一文字に引き結んでいた唇の端を少し緩めた。
さて、次は何の紅茶を淹れようか。リュウガは頭の中で、二人のために揃えた茶葉を思い浮かべながら、低く耳障りの良いトキとシュウの声に耳を傾けた。