星に願いを文明が滅んだ世界は、夏の夜空を汚すことなく星を煌々と瞬かせる。
南斗との戦いは熾烈を極めていた。終わりなき戦は、病み上がりのトキの身体を確実に疲弊させていた。しかし、立ち止まる訳にはいかない。己の使命のため。ついてきてくれている民のため。トキは進み続けなければいけない。
「眠れないのか?」
満天の星空を一人見上げるトキに、声をかけてきたのはリュウガだった。
「明日は東の村へと向かわなければいけない。休息を取り疲労を回復しろ」
焚き火の火を絶やさぬよう火を見守っていたトキに、リュウガはそう言いトキの隣に腰を下ろす。
ラオウの腹心であるこの男は、トキの護衛として後ろにつくようになってから随分変わった。
以前は冷徹で触れにくい男であったが、こうしてトキを気遣うように声をかけてくるようになった。一体どんな心境の変化があったのかは、トキには分からない。しかし、話しにくいよりは話しやすい方がいい。
「今日は七夕だったな、と思ってな」
「七夕?」
トキが夜空を見上げながら口にすると、リュウガは訝しげに眉を顰めトキの方へ顔を向ける。トキはリュウガの鸚鵡返しに、こくりと小さく頷く。
「織姫と彦星が年に一度会うことができる、という話だ。幼い頃、ケンシロウやユリアと短冊に願い事を書いたのを思い出していた」
まだ幼かった頃のケンシロウとユリアの笑顔。拙い字で紙に書いた願い事。織姫様と彦星様が会えますように、と祈った夜空。そのどれもが懐かしく、愛おしい。
「願い事、か」
リュウガはトキにつられるように夜空を見上げ、ポツリと呟く。
そういえば。この男はなにか願うことがあるのだろうか。北斗を戦場へと導くこの清廉な狼は、己のために、誰かのために、願うことはあるのだろうか。
ラオウやケンシロウ、守るべき民以外の存在に興味が湧いたのは久しぶりだった。
「リュウガは、なにか願い事はあるのか?」
そうトキが問うと、リュウガは少し目を細める。
「この世界が鎮まり、乱世が終わることだ」
はっきりと、どこか投げやりに、リュウガが答える。およそ予想通りのその返答に、トキは思わず口元に苦笑いを浮かべる。
この乱れた世を正すための、巨木。それを願い求めるリュウガが望む先といえば、確かにそれはそうだろう。
「その後は」
トキはリュウガがその言葉の続きを発したことに、少し驚きリュウガの方へ顔を向けた。
星空を眺めていたはずのリュウガは、いつの間にかトキを見つめていた。
月と星の光、焚き火の灯りに照らされたリュウガの端正な顔に表情は無い。しかし、その透き通った瞳はキラキラと光を反射し、何かの含みを持ちトキをただ見つめている。
どうして、私を見ている。トキはリュウガに問いかけようと唇を開きかけたが、すぐに噤んだ。それは聞いてはいけない気がした。
「この乱世を収めた者のそばで、己の為すべきことを為す」
乱世を収めた者。これから乱世を収めていく者。リュウガは、それは南斗ではなく北斗であると確信している。
ならばそれは、ラオウか、はたまたトキか。リュウガの、天狼の瞳は、トキを見つめながら何を見ているのか。
ただひたすらに、直向きに。真っ直ぐトキを見つめるリュウガの瞳に、トキは吸い込まれてしまいそうな気がした。
「治世を始めるならば傍らで膝をつき、世界を見聞するというならば共に駆け、支える」
す、とリュウガの目が伏せられる。トキは無意識に止めていた呼吸を思い出し、反射的にすぅと息を吸い込む。
「それが、俺の願いだ」
リュウガは、変わった。以前はトキにここまで己を開示することはなかった。トキを見つめることもなかった。
その変化は、何がもたらしたのか。何が彼を変えたのか。トキは纏まらない思考で少しだけ考えた。
「くだらないが、眠る前の雑談にはちょうど良かろう」
リュウガは目を細め、トキを見つめる。パチリ、と炎の中で枝が爆ぜる。リュウガは最初から、トキを少しでも眠らせるために、眠気を誘うために付き合っていたのだと気づいた。確かに、トキの瞼は少し重みを増してきている。目を閉じれば、少しでも眠りにつくことが出来そうな気配を感じる。
「リュウガは眠らないのか?」
トキの問いに、リュウガは口を閉ざす。多分、この男は眠らない。乱世が終わる、その日まで。
「一緒に目を閉じよう」
トキはふと表情を緩め、リュウガを手招く。一瞬リュウガは眉を顰めトキを睨んだが、トキが緩んだ表情のままリュウガを見つめたため、諦めたように少し腰を浮かせて座り直した。
肩同士が触れ合う距離。ほんの僅かに、互いの熱が伝わり、交わり合う。生ぬるい外気でもなく、焚き火の熱でもない。穏やかな温もりが、確かに在る。
「おやすみ、リュウガ」
トキが歌うように言葉を紡ぎ、すぅと目を閉じ頭を伏せる。恐らく、トキは五分と眠ることはないだろう。
リュウガはじっと暗闇に目を光らせる。主を守る狼のように。いつ何時、野党が襲ってくるかもしれない。この世は、そういう世だ。ラオウにトキを託されたリュウガは、ただトキを守ることを己の使命としている。
それは果たして、ラオウの命だけが理由だろうか。
リュウガは再び夜空を見上げる。牛乳を流したように流れる星の道に、薄い雲がかかっていた。
織姫と彦星が、年に一度会うことができる日。
くだらない、とリュウガは内心で吐き捨てる。
星の川など、越えて攫ってしまえばいいものを。そんなことを考えた。
しかし。
リュウガはちらりとトキに視線を向ける。
己を信用しているのかいないのかは定かではないが、トキはリュウガの前で無防備な姿を見せることが増えた。
乱世に相応しくない柔らかい笑顔も、温もりも、言葉も。
すべては、覇王からの借り物。仮初めのひととき。
ケンシロウから北斗神拳伝承者の座を譲り受けた男は、未だ兄であるラオウにその心は囚われている。
何も期待をするな。己はただ、トキを導くだけだ。
何度目かわからない己への叱咤を繰り返し、リュウガはトキに聞こえないようため息を付いた。
(誰にも言えない密かな願い)
(星に願いを)