灰色の男⑦教会がヘカテの居場所だと、母に言われてからここから出ることは出来なくなった。
その女の言葉は、幼いヘカテに絶対的な力を感じさせた。
死して尚、腐らず美しいその肢体は、
ヘカテをこの教会へと尚のこと縛りつけた。
このモノの言葉は彼女を今も彼女の正常な思考を蝕み続ける。
正常な思考を教えようとした者は勿論いる。彼女自体も自分を間違えいると理解していた。それでも、それはどんな欲情よりも強かった。それは、本能とも言える。
自身はそう出来ているからそうとしか生きられないのだとヘカテはこれまでの人生で痛感した。
冷えた地下、土の匂い。ここは教会の地下。
教会にもとより設備されている安置室とはまた別の、
この特別な棺を置くだけの部屋だ。それ以外のものはここには何も無かった。
ひんやりとした空気の暗い部屋の中にはこの、木の棺しか置かれておらず、
そこに縋るようにヘカテは眠ってしまっていたようだ。毎日の行なっている懺悔の習慣、
その途中で眠ってしまった様だった。
慌てて身体を起こし、地下室を後にしようと身体を起こした。
「お目覚めかね。眠り姫。」
男の冷めた声。背後に立つ男にヘカテは息を呑む。男はヘカテの背後で愉しむようにヘカテの肢体をゆっくりと眺める。
「もっとも姫というには、些か不似合いな姿見だが」
「何故ここに...?」
「無防備。こんなにデカいgiftならもう少し防犯面を強化すべきだったな」
「代償と対価が合いませんもの。私と直接の戦闘は勿論土地を得たとて、この辺境の廃教会では利益を得ようとしても得られない。」
「なるほど、今までそう狙われることも、負かされることもなかったと」
「ここに悪意を持って誰か来たら気づかない筈がない。そういう対策をしてた筈ですがね」
特別なことなんてなかった。ただ。ヘカテは直感的にこの教会に悪意を持つ者が近づくと感づく様になっていたのだ。これにより、今までこうも大きい教会が狙われることはあっても、持ち前のセンス、実力、全てでこの教会を守ってきたのだろう。
ヘカテがそう言うと、納得したように男は頷いてみせた。
「なるほど、悪意はない...。だからか」
男の雰囲気はまるで水の含まない灰色の絵の具を壁に塗りたくったかのような。ベタベタとした様な悍ましさ。
「純然なる好意からの行動だからだろう」
「好意...」
「なに、愛する者を殺したからと言って君を責めることはしない」
「私も、一時は愛を誓ったのにも関わらず、
クリオネと出会ったことで、愛が冷め、殺した妻子がいるのだから。」
メッキの剥がれた左手薬指にはめられた指輪を右手指先で触れる。
その異様さにヘカテは背筋が冷えるのを感じる。
袖に隠していた隠しナイフ。刃渡りの長く、柄には派手な装飾の施された、ウェディングケーキナイフを構えた。
「なにをしにきたのですか?」
「クリオネに会いに来た」
その言葉にヘカテの思考が止まる。
死者に会いに来た。顔を拝みに来たと言う事だろうかと頭の中で答えの無い疑問が廻る。
その刹那、腹部に重たい一撃。
デカい針、機械人形の千枚通しの様な腕がヘカテの腹を貫いた。腕は引き抜かれ、そのまま地面へ倒れると床に血の水溜りが作り出される。腹部の穴から溢れる血を抑えようと手を当てる指の隙間からどぶどぶと溢れていった。
「命の天秤は同等の重さだと仮定したとして、身代わりを用意できるのではないかって。そして、探したよ。彼女が自身の死を悟ったそのときに、そういう取引を良しとする存在がいないものかと」
そして、いたのだと。男は続けるように笑みを見せた。
「この無垢な子供の人生をクリオネに捧げる」
それは神に捧げるとうぜんの行いだと言わんばかりの言葉を紡いだ男は、まだ息のある少女を機械人形から受け取った。
「やめなさい!!」
ヘカテはどうか、起きないでと此処で毎日祈っていた。それ故の悲痛の叫びがこだまする。
ヒューヒューと漏れる息が、冷めていく体温は確実に死に近づいていく。
「私の命だけにしなさい!!」
懇願に近い声で、彼女は叫んだ。
男は一瞬思案して、そしてヘカテを見下ろした。
「この子供の方が無垢だし、彼女の生贄としては似合うのではないか?」
思う様に動かない身体を起こしてでもこの男だけは生きていてはいけないのだと頭が警笛を鳴らす。血を吐きこぼし身体を起こそうとしたその時、銃の発砲音と同時に
地下へ侵入し、そのまま男の肩を踏み倒し見下ろしたのはディーゼルだった。
額に玉の様な汗を浮かべ、肩で息をしている。機械人形は銃に込められた魔術による変形でギリギリと身体を捻じ曲げられていた。
ディーゼルの銃によるものだ。彼の銃弾には
身体を変質、変形させる術がかけられている。魔術師が使う道具や器具を扱える。彼は''魔術使い''だ。
「相性か...油断か...」
遠のく意識の中ディーゼルの声がヘカテの耳に聞こえる。
「くだらない死に方をしやがって...」
ディーゼルの煙草臭さをどことなく感じながら、ヘカテは意識を手放した。