めくるめくめぐる 瑶光の浜、その波間の拠点でヒルチャールが動いているのを粒子に返した彼は、石突でとんと波上の足場を打つ。ふっとその場から姿を消して、次の瞬間には波打ち寄せる砂上にいた。ヒルチャール達がなぜあのような場所にいるのか彼には全く理解できない。戦いの場において自らが窮地を招くかもしれない位置に進んで陣取る必要はない。それすら上回る力でもって敵を捩じ伏せられるというのであれば話は別だけれど。
白く美しい珠の輝きで日光を跳ね除ける砂を踏みしめて歩く。潮騒が耳奥で揺れ、眩しい昼の光が視界を鈍く撓ませる。寄せる波に攫われてきたのか、不意にこつんとつま先に当たったわずかな感触をなぜか無視することができなくて腰をかがめる。彼の拳より二回り小さいほどの、それは巻き貝だった。それで、ふと彼が思い出したことがある。
──星螺を、耳に当てると言葉が聞こえるのだというのに驚いたような顔をしていた。貝殻からは海の音がするんだと思ってたと言って苦笑していた笑みが、もうとても遠い。どんなものだったか薄れている。最後のそれがどれだけ遠くなったのか指折り数えるのも全く意味がないのでやらない。 海の音とはどのようなものか、と問えば海の音は波の音だよと返された。 そういった声も、笑顔もひどく薄れているくせに、それがあったということばかりを覚えている。けれど、そういう状況が思っていたようなものではなかったことを、彼はわずかに不思議に思っている。
失うことについて、彼はそれまで深く考えたことがなかった。正確に言えば、失うこと、その後についてを考えたことがなかった。 彼が失うことを恐れているものは多くない。何より敬愛している方が失われるときは彼自身がとっくに散っているし、わずかに交流がある凡人が失われるとき、彼はそれをたしかに悼みはするだろうが、恐れるということはない。嘗ての──仲間たちに対するそれも、恐れよりは敬意により近いものであったように思う。彼らは仙人であり、夜叉であり、そして何より死に絶える場所が間違えようもなく戦場にあるという至上の武人であった。散ることに対して、恐れがその足元にも及ばない敬意と誇りを持っていた。
ゆえに、あれは初めて彼に喪失の恐れを強く実感させる存在であった。手遅れだと思ったのはいつのことだっただろうか。そのあとでもう遅いと言ったことは誇張でも何でもない。あのとき、彼らはいつかその繋がりが断ち切られるときに痛みがもたらされる線を越えてしまったのだ。そばにいるときに暖かく眩しく穏やかに彼に触れたすべてが、別れを隔てた瞬間にその性質を変えて、追憶の鋭さを研いだ牙を剥くことになるだろう、というような線。
けれど、想像に反してその生活が苦痛に彩られたものになる、というようなことはなかった。
もちろん、少したりとも彼に影響を及ぼしはしなかったというわけではない。喪失はいつも彼についてまわったし、思い浮かぶときに伴うのは痛みに他ならなかった。満たされることすら知らないままで孤独の死体を引きずっているのと、満たされることを知ってから否応なく奪われるのではどちらがましか、という問いの答えを、彼は朽ち果てるまで知ることはないだろうと思う。
巻き貝を拾い上げる。ふっと息を吹きかけて砂を払った。なんの変哲もない貝殻だった。己らしくない、と思いつつも耳元にかかる髪をのけて、手に持ったそれを耳に近づけて目を閉じる。静かに巻き貝の音を聞く。
(波音というよりは、)
それはきっと血の潮だった。返しては引くその音を聞いていると、不思議と生の実感が得られるような気がする。命のめぐる音。
きっと見る景色は冷たいものになるのだと思っていた。そばにいたから暖かく思えていたのだから、失ったらそれは冷えきってしまうに決まっていると。
それでも、その予想は外れたままで彼は時間を重ねている。たとえば美しいものを見ること、たとえば春のめぐりの花の咲くこと、たとえば彼が少しばかり血を流して野に座り込んでいること、そのたびにもしお前がここにいればどんな言葉を使ったのだろうかと、そういうことを思う。
たぶん愛しいと思うことで世界は優しく彼に触れた。彼の見る景色は、そういう生き方しか知らない以上、血のどす黒さ越しに見ることしかゆるされないと思っていたのに。
歩いた道の、寝転がった野の、見上げた空の、すべてにあれの面影を見た。もしかしたら世にありふれていて幸福な、得難い温度を彼女に教えられた。だから、それを失った今でも指先がほのかに温かい気がする。未練がましいと言われればそれまでだけれど。
「……なにか聞こえてる?」
そんなことを考えていたから、耳が己の都合の良いように記憶を掬い上げたのかと思った。または耳に当てているものがただの巻き貝ではなかったりしたのだろうか、なんて、彼にしては珍しくふわふわして地に足のつかないことが胸中を通り過ぎる。
ゆっくりと首を振って声がした方を振り向いた。温かみのある金糸が風に靡いている。体がかっと熱を持つ。とす、と軽やかな音を立てて、かろうじて彼の指先に引っかかっていた巻き貝がすべり落ちて砂浜にささった。それにも気づかないほどに。
(……これが夢ならば、)
さめろ、今すぐ。目覚めに安堵が克つうちに。
そう確かに思っているのに、潮風や陽射しは感覚に訴えてくるし、目線は逸らせなかった。薄い唇が微笑みの形に動くのを、どこか恐れるような、もう逃げられないとでもいうような心境のままで見つめている。
「何が聞こえたのか聞きたいな。……久しぶり、魈」
◇
「あのときの魈、見たこともないくらいびっくりした顔してた」
「いつまでその話をするつもりだ……」
眉を寄せた魈がそう言って苦い顔をするのを、蛍は静かに笑いながら眺めていた。笑いを含む吐息が混じる声で囁くようにだって嬉しかったから、と言う。何が、と魈は問い返せば少し考えた後で口を開いた。
「話したいって思うことがたくさんあって、それが話せるんだって思ったことかも」
魈はそれに一瞬目を見開いて、それからぐっと唇を噛む。呻くような声音でお前はいつまでたっても甘い、と零した。甘くしたいからそうしてるんだよ、蛍は笑う。はあ、と呆れたようなため息がくらくなった部屋を満たした。それがかき消える前に優しく腕が引かれて、花の褥に倒れこむ。
◇
「ふむ……」
「何か顔についてます?」
旅人がふたたび璃月の地に立ったことを眦を緩めて歓迎してくれて、今日も茶飲みの場に招いてくれたこの青年はいつ見ても変わらない。掴みどころがないくせにすべてを知っているような雰囲気が、いま一心に蛍に注がれている。知らんぷりをし続けるのにも限界を覚えた蛍は挑戦的ともとれる目で鍾離を見返した。
「いやなに、まるで魈が二人いるような気配がすると思ってな」
「!」
さっと動揺を滲ませて、すぐにそれを奥に押し込んだ蛍を鍾離は少しだけ眉を下げて見つめる。わずかに張り詰めた沈黙が流れた後、取り繕うのをあきらめた蛍は唸った。
「そんなにすぐ分かってしまうもの?」
「いや。俺は、……まあ、こういったことを知らないわけではないからな。もしや、と思った程度だ」
今気づくことができるのはよほど察しが良いか鼻が利く者だろう、と言われた蛍は安堵にすこしだけ表情を緩めた。するりと、なんでもないことを告げるみたいな口調で言わないのか、と鍾離が言った。蛍はそれに沈黙で答えると、気配ってどんなものなのかと呟く。
「端的に言えば、混ざっているということだ」
「混ざっている」
「ああ、説明しがたいが……お前の気配の中に不意に彼が滲むと言うのだろうか」
それを聞いた蛍は顔をひきつらせた。
「け、結構露骨……」
「見る者が見れば、と言う話ではあるが」
手で頬を抑えていた蛍は仕方なさげにため息をついた。
それから何事もなかったように笑って今日は楽しかった、と言うから、鍾離もそれに合わせて穏やかな笑みを浮かべる。手を振り振り去っていく姿を見送ってから目を閉じた。すぐにその金珀は現れると、目の前に置かれていた器を手に取る。璃月ではあまりお目にかかることがない色をしたその飲み物は蒲公英茶だ。風神の国、モンドの特産品であるそれは酒の材料になることが多いが、時折こうやって茶として飲まれることもある。効能としては──彼の良すぎる記憶力はその答えを正確に探り当てることができた。それから、難儀なことだ、と呟いて器を揺らす。傾けて琥珀色を喉にすべり落とした。
◇
それから幾日か過ぎただろうか。わずかな倦怠感をおくびにも出さないで蛍は過ごしていた。ときどき魈が鋭い目線で蛍を見ることがあって、そのたびにひやっとする。けれど、何か欲しているようなその色のわりに、魈のほうから何か言ってくるようなことはなかった。
そんな日々の延長線上にある夜だった。月は円環の巡りのなか、猫の目のように細い姿で輝いている。夜空の裂け目のような光が差し込む部屋の中。壁のほうを向いて微睡みかけていた蛍の布団にもぐりこんできた魈が、一人ではとれない暖をとるためか、つま先を添わせるみたいにして少しばかり冷えた足を蛍のそれに這わせてきた。自分のものではない温度が肌をたどる、その感覚に嫌悪ではない何かを覚えて肌を粟立たせた蛍の跳ねた体を、後ろから手を回した魈がゆるく引き寄せて閉じ込める。足先がわずかに冷えて、それが終わると触れ合っている場所からじんわりと熱が生まれる。それを追うように蛍の体から力が抜けていった。そのまま居心地の良さでまどろみのあわいを揺蕩っていた蛍だったけれど、回されたままの魈の手が自分の、まだ薄っぺらいお腹あたりを優しく撫でているのに気づいて、一気に体を強張らせた。それを見逃してくれるような魈ではなく、耳元でかすかな吐息がした。
「お前が何を考えているのか、我には分かる」
どうせくだらんことだ、と内容の鋭さの割に呆れた甘さを含む声音で言いきられて、蛍はどうしたらいいのかわからなくなった。
「くだらんが、理解できなくはない。だが、お前から言ってくれると……我は、嬉しい」
決して、黙っていた蛍を責めるような色はなかった。ただ静かに待つ切実さでそう言った魈は、するりと蛍のお腹を撫でていた腕を解こうとする。ぐっと息を呑んだ蛍が、それを掴んで引き止めた。離さないままで背を向けていた体勢からぐるりと魈の方を向く。
「お、おい……」
「魈、っ……聞いてほしいことがある」
まっすぐに見つめ返してくるその瞳を見てまばたきを二つした魈は、それから花がほころぶように微笑んだ。
◇
む、と思ったのは少し前のことだった。不思議な気配を蛍から感じて、魈はすんと鼻を動かす。彼女から時折己の気配がすることは気づいていた。結果的にそうするように仕向けたのは他ならぬ魈であるし、彼らを知る敏い知り合いたちが物言いたげに、はたまた微笑ましげに自分を見てくることも、蛍と二人きりでいるときにちらりと目線が寄越されることも知っている。予想が確信に変わった後も、魈は蛍に何を言うこともなかった。そうすることで彼女が悩むこともわかっていてそうしたのだ。
抱きしめる手にそっと力を込める。肌が熱くなってゆっくりと溶け合うこと、その恍惚を知っている。この体が、いま閉じ込めている細い体を覚えてそれ以外じゃ駄目だと喚く。血の味を知った獣のようだと他人事みたいに思う。少しでも違うことがあるとすれば、人の血なら何でもいいのではなく、ただ一人の体をめぐる血潮でないと満足できないことぐらいだ。
だから、と思う。言ってほしい。いくら引き寄せていたって、大人しく居心地の良い棲み家でまどろんでくれるような者ではない。彼が死ぬときまで寸分揺らがず血濡れた武人であることと同じように、旅人であることを死ぬまで忘れないようなやつだった。その事実の重さに悩むことを知っていてそうした。重力にしか縛られていない身体を、少しでも己で満たしていたかった。そんなことを思うとき、どんな顔をしていただろう。不意に蛍が動いたかと思うと、視界いっぱいにその顔が映される。その目を見てはっとした。たぶん、ずっとこの瞬間が欲しかった。まだ少し迷うような口調で福音を紡いだ蛍の頭を、そっと肩口に抱き込んだ。うん、と答える声音が幸福に震えて部屋に溶けた。