【MHW】安寧を敷く領域 徐々に白んでいく水平線を眼下に眺め、クレドは一等マイハウスの扉を億劫に押し開いた。
気が緩んだせいか、疲労がどっと押し寄せてとにかく眠い。身体は鉛のように重く、思考は油がきれた機械のごとく動きが鈍い。機動力を鑑みて片手剣を選んだのが幸いした。これが常のようにガンランスであったなら、さすがに気力が尽きて途中の階段で行き倒れていただろう。
調査報告のことが一瞬クレドの頭に浮かんだが、仮眠を取ってから赴くことにする。急を要するものでもなく、頭のおぼつかない状態を指南役などに見つかればむしろ心配させてしまう。
薄暗く静まり返った室内に、放し飼いのオソラノエボシがゆらゆらと泳ぎ回る。クレドは眼前を横切るそれらから寝台へと目を滑らせた。留守中にルームサービスが整えたのだろう、ベッドメイク済みの敷布の上に、白い毛玉が丸くなっている。
視線を察知したかのようなタイミングで、毛玉がばっと飛び起きた。丸い若芽色の目が一瞬クレドと見つめ合い、あっという間に寝台から駆け下りて、その勢いのままクレドの膝下に突進した。
気力ばかりで立っている身には中々に重い衝撃が防具を貫通し、クレドは思わず息を詰めた。見た目はふかふかの毛皮だが、防具を着込み武器を手にモンスターと渡り合うアイルーの体はそれなりに筋肉質だ。
たたらを踏みかけた足を気合で踏ん張り、クレドはしたたかに強打したであろうオトモの額を撫でた。オトモがぱっと顔を上げて、若芽色の目を元気いっぱいにきらきらさせてクレドを見上げる。
「にゃう!」
「シュネー……ただいま」
普段ならすぐに抱き上げてやるのだが、本当に疲れ果てていたクレドは曖昧に笑いかけるのに留めた。抱き上げてもらえないと悟ったシュネーが脚に体を擦り付けるのを好きにさせつつ、武器を外す。心得たシュネーはすぐに片手剣を引き取って、武器掛けへ立てかけに向かった。
「寝てたのか」
「ぐっすりにゃ!」
今回の調査は長期間張り込んでの観察が主だったためシュネーは同行させず、代わりにモンニャン隊の指揮を任せていた。先に帰還するだろうシュネーがきちんと休むかが気がかりだったクレドは「そうか……それはいい……」と相槌を打つ。
どれだけ頭が動かなくとも体に染み付いている習慣で、よどみなく剥ぎ取りナイフとポーチをボックスへ放り込み、防具を解いていく。
卓上には、帰還を見越してルームサービスが準備してくれたのだろう温水に濡れたタオルが用意されていた。ありがたく埃汚れを軽く拭い落とす。彼らの気配りには常々から頭が上がらない。
シュネーが引っ張り出した部屋着に着替え、クレドは耳元で揺れる羽飾りのピアスに手をやった。一瞬迷うが、外すのは後に回す。
寝台に近寄ったクレドはそこに青い布が敷かれていることに気づいた。よく見れば、非番の際に使っている着丈の長い羽織だ。シュネーはこれの上で丸まっていたらしい。私物にいたずらする子ではないが……はて、とクレドはシュネーに目をやった。
羽織をいそいそと持ち上げたシュネーは、どこか誇らしげにふすふすとひげを動かした。
「あったかくしておいたにゃ」
「……なるほど……?優しいな……ありがとう」
クレドは微笑ましく思いながら受け取った羽織りに袖を通した。シュネーが丸まっていた辺りであろう背中側がぬくもっている。
ぐっと眠気が引き寄せられ「クレドさん!」危うく遠のきかけた意識をシュネーの声が引き戻した。
「ルームサービスさんがまた来てくれるにゃ。でも、先にごはん食べるにゃ?」
クレドは、拠点ではシュネーと一緒に食事を取ることを習慣にしているが、今は疲労感の酷さで空腹を覚える余裕もなかった。
「……付き合えそうにない。悪いな、ひとりで行っておいで……」
眠気に絡め取られた体では、匙を握ったまま寝落ちしかねない予感がある。
クレドの予測通りに、シュネーはなごなごとごねて足元にまとわりついた。
「クレドさんが行かないなら、ぼくも行かないにゃ」
「空腹だろう……向こうには、お嬢さんもいるかもしれないぞ……一緒に食べればいい」
「おなかへってないにゃ!」
主張とともに伸び上がった瞬間、シュネーの腹の虫が大きな音を立てた。見る間に背中を丸めるシュネーに、クレドは「そら見ろ。やせ我慢は駄目だ」と笑い混じりに宥める。
折れてしぶしぶ出ていくシュネーと入れ違いに、水差しと洗濯籠を手にしたルームサービスが戸口に姿を見せた。
「お帰りなさいませ、ハンターさま。任務お疲れ様ですニャ」
「ただいま。ああ、これを……ありがとう。助かった」
「お役に立てて何よりですニャ」
ルームサービスは使われたタオルを回収し、水差しを机に移した。クレドの覇気のない様子に軽食を運び込むかどうか考え、あまりに物音がしないことに気付いてルームサービスがふと振り返れば、寝台の脇でクレドが立ち尽くしている。
「目が冴えてますニャ?温かい飲み物でも……」
「いや。すごく眠い。……いやになるぐらい、ねむいんだが」
クレドは胡乱な声で否定をしながら、ぼんやりと寝台を眺めおろした。
無理にでも横になれば、そのうち泥のように眠りに落ちるだろう。倦怠感で体も重く、眠気でクレドの頭は痛む程なのだが、横になる気が起こらない。いつも使っているはずの寝床が今はどうしても気に入らない。自制心の低下した意識はここで眠りたくないと体の欲求に逆らっている。
これだけ疲弊していれば一も二もなく眠れるだろうと思っていただけに、クレドは寝床を前にして抵抗感がある己自身に驚いた。
「……眠れそうですニャ?」
ルームサービスの問いかけに、クレドは気まずげな顔をした。寝台とルームサービスの間を視線がさまよう。
クレドの寝付きの早さも寝起きの良さも知っているルームサービスはしばし黙考した後、ぽんと両手を合わせた。
「ハンターさまのよい眠りの助けになる方法がありますニャ」
動きの鈍いクレドの手を取って、ルームサービスは一等マイハウスを出た。
夜明け前の刻限に住居が寄り集まる区画はひっそりとしていて、スリンガーも導蟲籠も身につけていない薄着のクレドがアイルーに手を引かれていく姿に気づく者はいない。
通路階段を登り、調査員の居住スペースから少し離れた、風の音と鳥の声が聞こえるばかりの位置。ひっそりと海に面したその建屋を前に、先導されるまま連れられて来たクレドは、見覚えのある扉にようやく気づいて眠気に閉じかける目をはたりと瞬いた。
「……あの人の部屋じゃないか」
そこは、調査団にただ一人の稀なるハンター、竜人族の賢人の家だった。鍵を開けたルームサービスに促され、クレドは中に足を踏み入れる。
間取りは大体同じはずだが、新大陸へ到着してからそう長くはない間に、環境生物を放ち机や椅子のあちこちに調査書やら文献やらが積み上がる雑然とした空間に変貌したクレドの自室と比べて、室内は備え付けの家具以外の私物の類は少なく、部屋の主が拠点で過ごした時間をうかがわせた。日焼けした壁掛け時計が針を刻む規則正しい音が静かな部屋に溶け込んでいく。
開放されていた窓をルームサービスが閉めて回り、庇が下りると室内に差し込む朝日の明度はかなり下がった。
ルームサービスは寝台の端にたたまれた掛布を広げ、クレドを手招いた。
「お掃除を済ませたところでしたのニャ。ちょうど良かったですニャア」
この新大陸で、賢人とクレドが留守中に部屋の出入りを自由にさせる間柄であることを知る者はほとんどいない。ルームサービスは数少ない知る者の内のひとりであり、これまでも様々な気配りをしてくれていた。
地脈の収束地でやりとりするまで、クレドと賢人は交流も面識も薄かった。片や長期間にわたり拠点に戻っていない一期団、片や新大陸に上陸したばかりの五期団である。
クレドは、大蟻塚の荒れ地で賢人と会ったことすら完璧に忘れていた。──大団長伝手に届いた誘いを受け取るまでは。
距離が近づく転機となったのは、休養後も不調が尾を引いたクレドが賢人の前で昏倒したことだ。次に意識を取り戻したとき、クレドは賢人の部屋に寝かされていた。
醜態を晒した上覚えがないうちに相手の部屋に上がり込んでいる状況に混乱するクレドに対し、賢人は会話の途中で昏倒したこと、様子が気がかりだったため連れ帰ったのだと説明した。
その一件から、二人の間にあった礼儀正しく遠慮するような距離感はなくなり、気軽な他愛のないやりとりも交わすようになった。いま進めている調査のことだとか、最近話すようになった調査員が誰か、ということだとか。部屋を行き来するようになったのもそれの延長だ。
お互いに、部屋にはいつでも入っていいと了承しているから、部屋主がいない間に出入りするのはいい。だがクレドには、賢人には黙っている後ろめたいことがあった。それが、ルームサービスが誘いかけている「これ」だ。
「……少し考える時間をくれ。いま……葛藤と戦っている……」
「いつもと同じことですニャア、お気になさらず。さあさあ」
ルームサービスが戸口から動かないクレドの手を引いて寝具のそばに連れて行く。
賢人が不在の部屋で、勝手に寝台を使って眠っていることが、クレドの動きを殊更重くする理由だった。それも今回が初めてではない。
最初のきっかけはもう思い出せないほど記憶が定かでない。
狩猟に出る際は歯牙にも掛けないことだが、拠点に留まっている間は、陽気に満ちた快晴が耐え難く感じることがある。冷たい石窟のようなひやりとした静寂を求めて体が逃げを打つに任せ、人気のない静かな場所──賢人の部屋を訪ったまでは良かった。
魔が差したとしか言いようがない。無人の寝台に少しだけのつもりで横になり──ふと目を覚まして開いた目に、すぐそばで繕い物をしているルームサービスの姿に気づいたクレドは文字通り飛び上がったのだった。
当のルームサービスは、他人の部屋のそれも寝具で寝こけていたクレドを訝しむでもなく、青い顔をするクレドを気遣った。
聞けば、クレドの胡乱な様子はそれとなく察せられていたらしく、自室を覗いても姿がなかったため、賢人の部屋も確認に来ていたのだと。そこで賢人の部屋を予測するルームサービスの慧眼に舌を巻きつつ、心配させている相手に黙っているのもと考えて、懺悔のつもりもあって、クレドは賢人の寝床を使った理由を打ち明けた。
ルームサービスはクレド自身も自覚が薄いらしい内面が滲むそれに耳を傾け、以来、クレドが草臥れた風情を醸していれば、良質な休息のためだとして、主人不在の部屋を使うよう勧めるようになった。
促されるまま、クレドは時折うたた寝をして、起きた後は痕跡を残さないようルームサービスに掃除を頼む、ということを繰り返している。そうして立ち回った結果、今に至るまで賢人に気取られた様子はなかった。
一度きりで辞めていればよかったものを、黙ったままずるずると続けている状況にクレドの負い目は募る一方だった。幸運にも露見していないだけで、無断で寝床を使っているのはまずい自覚がある。
よく眠れるのなら使えばいいとルームサービスが提案するのは──嘆かわしいことに──確かにいつものことだ。だが、汗や砂埃は軽く拭い落としたとはいえ、今のまま休むのはなおさら気が引ける。
「いつもより、長く寝ると……思う。そのあいだに……あの人が、戻ってきたら、どうする」
「ハンターさまが寝ておられると知っても、旦那さまは怒らないと思いますニャ」
「……無断だからな。気分が良くない……だろう?」
今すぐ踵を返して自室に戻るべきだ、と頭の冷静な部分が諌めている。しかしながらよく寝られる寝床は強烈な誘惑だった。理性と欲求に逡巡する思考がクレドの動きを鈍くさせた。
すすっとルームサービスが身を寄せてきて、ちょんちょんとクレドの膝をつつく。膝に乗りたい時にシュネーがする仕草とそっくり同じで、クレドは反射的に寝台に腰を下ろした。
ルームサービスがそこへすかさずひざ掛けをかぶせてきてから、クレドはまんまとはめられたことに気づいた。
丁重だが有無を言わせない勢いでクレドから羽織を剥ぎ取り、それを椅子へ掛けながらルームサービスが言い重ねる。
「旦那さまは先日拠点を出立されたばかりで、すぐには戻られないはずですニャ。お布団もハンターさまが起きた後に整えれば大丈夫ですニャ」
いつものことですニャ、とルームサービスが言うのを、クレドは上の空に反芻する。
今でこそ拠点に戻ってくる頻度も上がっているが、一度発てばしばらく戻ってこないのは短い付き合いでもよく知っている。
ここのところ入れ違いが続いていることに、常なら気にもとめない寂寞が一瞬クレドの胸をかすめた。無意識に閉じた瞼裏に朝日が透ける。その白い闇の中に、今は望むべくもない、軋む頭蓋を穏やかに撫でる指先が想い起こされた。
疲労感に判断力の鈍ったクレドの頭は、咎める理性を押し退けて危うい綱渡りを許す判断を下した。
「二時間……いや、一時間だけ、借りる」
「どうぞ、二時間でも三時間でもゆっくりお休みくださいニャ」
羽飾りのピアスを外し、クレドはためらいがちに寝台へ横たわった。もぞもぞ具合のいい姿勢を探る体にルームサービスがさっと上掛けを重ねる。
敷布のひんやりした手触りと洗いたての匂いにふわりと包まれ、際で塞き止められていた倦怠感がクレドを瞬く間に覆い尽くしていく。重いまぶたが降りるとともに、クレドは柔らかな闇の中へ意識を手放した。
壁掛け時計の長針が半周したあたりだった。
クレドが外したピアスは袖机に移動させ、水差しを持ち込んで、細々と動き回ったあともルームサービスは部屋にとどまっていた。
寝台では上掛けに包まったクレドが身じろぎひとつしないほど深く眠っている。平時の寝起きの早さを知っているルームサービスは、それほどまでに疲労困憊だったクレドに安らかな休息を提供できたささやかな達成感に浸った。ゆっくり休んでもらいたいし、今は留守にしている部屋主のかわりに、一人静かに寝入る彼を見守る責務に意気込んでいる。
寝具の傍らに椅子を寄せて、持ち込んだ繕い物に精を出していたルームサービスの耳が、遠くから慌ただしい足音を拾う。
徐々に近づいてくるそれに繕い物の手を止めた時、明かり取りのために空かした窓から飛び込んできたのはシュネーだった。
息を切らして部屋の中をさっと見回したシュネーの視線が寝台に向かう。
かと思うと、ルームサービスが止める間もなくシュネーは寝台の上に踊りかかった。上掛けに包まるクレドの上に勢いよく着地して、その体にしがみつく。
「クレドさん!」
呼びかけを聞き流すか逡巡したような間があり、敷布の隙間からぞろりとクレドの腕が伸びた。
さまよった手のひらがシュネーの顔を探り当て、わしわしと毛並みを撫でてそのまま敷布の中に戻ろうとするのを「ぬぁう!!」とシュネーが大きな声で引き止める。
「……なんだ」
薄目を開けたクレドの口から地を這う声が漏れる。体の上に陣取ったシュネーがそれでも引かないと悟り、億劫そうに目頭を揉む。
普段は行儀の良いシュネーのいつにない剣幕に根負けしたクレドは仰向けに寝返りを打ち、腹上へ器用にシュネーをすくい上げた。
「……どうした。おきてからにしてくれ……」
「帰ってきたにゃ!」
シュネーの頭を撫でていた手がぴたりと動きを止めた。
帰ってきた。シュネーが焦ってクレドを起こしにくるのなら、指し示される状況はひとつだけだった。
まどろみに宙空を漂っていた意識は、一瞬にして体の中へ飛び退るように戻ってくる。
「……わかった」
一言の後、クレドは体の上からシュネーを下ろし、敷布を除けて緩慢に身を起こすと、自身の体温が残る寝台へ腰をかけ直した。
疲れ切った体の欲求を意地で無理やり押し込めていた不快感は幾分薄れていた。やはり自室の寝具を使う時とは睡眠の質に明確な差があると感じる。ここは、何もかも懸念せず緊張をほどける場所だと受け入れてしまっている。他人のテリトリーで、それもあの賢人が寝床と定めた場所で無防備になれることが、何らかの休息をもたらすのだろうか。
現大陸の古巣にいた頃も弟妹たちと一緒に暮らし始めた時も、他人の寝具を使うなど意識にも上らなかったというのに、これはよくない傾向かもしれないとクレドは頭を抱えた。
項垂れるクレドの膝元に、ルームサービスが気遣わしげな顔でおずおずと寄ってくる。
「ハンターさま……」
「大丈夫だ。……少し頭もすっきりした」
鉛を詰めたようだった頭も、多少なりとも軽くなった気分だった。座ったままだと体を動かす気力がなくなりそうで、クレドは立ち上がって軽く伸びをした。
「……すまないが、後始末を頼む」
かろうじてそれだけを伝え、クレドは椅子の背もたれから取り上げた羽織に袖を通しながら、戸口でにゃあにゃあと急かすシュネーに続いて扉をくぐった。一人と一匹を見送りにルームサービスも部屋の外までついて出る。
心配そうに何度も振り返るシュネーに先導され、覇気のないクレドの背中が遠のく。
ふたりが見えなくなるまでその姿を見守り、ルームサービスはばっと身を翻して部屋に駆け戻った。枕を揃え、広げられた上掛けを手早く畳み、誰かが横臥していた形を残す敷布を大急ぎで伸ばして皺を整える。有能なルームサービスの腕にかけて、ここからは時間との勝負だった。
窓の外に長身の人影が立ち止まる。
こんこん、と礼儀正しいノックの音にルームサービスは肩を跳ねさせた。
「ニャ!ニャニャ……お帰りなさいませ、旦那さま」
「ただいま。掃除をしてくれていたのか、ありがとう」
留守だった部屋の主、竜人族の賢人とも謳われる男はゆったりと室内を見回して、ルームサービスに労りの笑みを向けた。
「お早いお戻りでしたニャ?」
「大蟻塚の荒地を経由するつもりだったのだが、ディアブロスとリオレイアが睨み合っているところにかち合ってしまってな。調査団への報告と、ルートを考え直すために引き返してきた」
危険度の高い大型モンスターが留まっていては、大蟻塚の荒れ地に赴く調査員にも少なからず影響が出る。報告と経路の練り直しに合わせて、賢人は拠点へ戻ってきたのだった。
わたわたと動き回るルームサービスの邪魔をしないよう、操虫棍を壁に凭せ掛けた賢人は寝台の近くに避けた。ちょうどよく机に配された水差しで喉を潤して、戻ってきたといえば、とルームサービスを振り返る。
「彼も戻ってきているようだな。流通エリアでシュネーを見かけたよ。珍しくひとりだけだったが、彼は部屋にいるだろうか」
拠点にいるクレドのそばからシュネーが離れないのは調査団の皆が知るところだ。
休養日のクレドが昼まで寝る質なのを賢人は知っているから、まだ朝方であるこの時間帯は、彼らは一緒に自室で寝ているものだと思っていた。そのシュネーがひとりきりで流通エリアに居て、調査拠点の門構えに現れたこちらの姿を見るなりどこかへ駆け出していったのが賢人には少し気がかりだった。
ルームサービスは目を泳がせながら答えた。
「ハンターさまなら、お部屋にいると思いますニャ。夜明け前に戻ってこられて、とてもお疲れのご様子でしたニャ」
「ならば寝ているか。……ふむ、様子だけでも見ておきたいが」
すでに司令部へ報告は済ませているが、まだ朝方ということもあり、すぐさまには対処方針が打ち出されることはないだろう。もし大蟻塚の件が依頼として出されるようであれば、賢人はクレドに声をかけるつもりでいた。連れ立ってフィールドに出られるまたとない好機に、心置きなく彼と語らう時間も得られるだろうと期待して。
賢人もクレドも拠点に戻る頻度が低く、ゆっくりと顔を合わせて話せた機会は少ない。互いに不満を訴えたことがないとはいえ、しばらくすれ違っていたことに賢人も思うところがないわけではない。
賢人の意識は降って湧いた小休止をどう過ごすかで占められていた。最たる関心事は、幸運にも拠点に留まっているクレドのことだ。彼が起きていれば、フィールド探索で見聞きした物事を語り合えたところだが、寝顔だけでも見ておくのは悪くない考えに思われた。
気がかりがあるとすれば、クレドは眠っているときは特に気配に敏いことだった。仮眠をとる彼を起こさないようにと気遣ったルームサービスや同期の調査員が、何度か度肝を抜かれる経験をしたと賢人は耳にしている。
予定を熟考する賢人が寝台に腰を下ろすと、ルームサービスは目に見えて落ち着きがなくなった。その様子に気付き、こちらをどう諭したものか困っているのだと受け取った賢人は苦笑する。
「いや、一眠りしてからにしよう。起きる頃には彼も起きてくる時間帯になるだろう」
「……それがよろしいと思いますニャ。旦那さまもお疲れのはずですニャ、しっかりお休みいただくニャ」
賢人は装備の上衣を脱ぎながら、窓辺に目をやった。
「庇をあげてもらえるか。少し明るいほうがいい」
「ニャッ、すぐにあげて来ますニャ」
わたわたとルームサービスが窓際に走っていく。
いつになく浮足立っているのをなだめるつもりで、きれいに皺の伸ばされた敷布に触れつつ賢人はルームサービスの背中に声をかけた。
「慌てなくても、」
言いかけて、敷布に滑らせた指先がぬくもりに触れ、はたと手を止めた。確かめるようにもう一度手を置くと、気の所為ではなく寝台の一部が温もっている。
戻ってくる直前までルームサービスが昼寝でもしていたのかと考えた賢人は、決まりの悪さに忙しなく動いていたのかと微笑ましい気持ちになり、何気なく範囲を探ろうとさらに手を滑らせた。
温かい名残の範囲は、アイルーにしては大きい。なぞるように確かめれば、賢人とさほど変わらない大きさの輪郭が浮き上がった。ちょうど、ひとが横臥するような。
庇を上げて戻ってきたルームサービスが、急に言葉を切った賢人を伺う。
ルームサービスを見やり、賢人は再度寝台に目を落とした。まさかという思いと、そうであればと逸りそうになる期待が頭の中で飛び回る。
留守中の部屋を出入りできる者は限られている。賢人が長期に渡って不在にしている間も、真摯に管理を続けたルームサービスは信頼に足り、拠点に帰還することが多くなった今も変わらず留守を預かってくれている。
以前と変わったのは、部屋に招き入れる相手ができたことだ。留守にしている時間のほうが長いとはいえ、自室はある種の縄張りに等しい。その領域の中で相手には自身の部屋と同じようにくつろいでほしいという思いを、賢人は誰にも明かしたことはない。だがもし、預かり知らぬうちに、彼が縄張りの中で、それも寝床で気を休めていたのだとしたら。
無意識に周囲を探った賢人の目は、袖机にひっそりと置かれた白い羽飾りに吸い寄せられた。
「……彼はどのくらいここにいた?」
ピアスを手に取って問いかけると、ルームサービスは耳をへたらせて口ごもった。その反応で、彼が寝具を使ったことを──それをどうやら隠したがっていることも──ルームサービスが承知していると見当付けた。
賢人はまだぬくもりが残る寝台を撫でた。ここに横になって寝入る彼の姿を脳裏に描きながら。
狩猟に出れば豪胆で揺らがず、平時は鷹揚として寛容的と評されるクレドは、誰に対しても自身からは深入りせず、また一定以上には立ち入らせない冷ややかな一面を持ち合わせていた。彼と親密になりたい者は多いだろう。けれど彼の中には絶対的な境界線があり、それを越えようとする者を冷徹に品定めする。賢人にしても例外ではなく、クレドの接し方は常に礼節をわきまえていた。
賢人は、それが綻んだ夜の──クレド自身の口から告げられた執着を、それを受け得た夜のことを鮮明に覚えている。
折り目正しい振る舞いにまた戻ってしまった彼が、己の寝床で人心地をつく、そのひそやかな発露の一端を逃すつもりはなかった。
「責めるつもりはない。ただ、彼はきちんと眠れたのかな。私の寝台がいいのなら、いくらでも使ってくれて構わない」
穏やかな賢人の言葉に背中を押されて、ルームサービスは躊躇いがちに顔を上げた。
「半日ほど休んでいただくつもりでしたニャ。でも……オトモさまが起こしに来られて……」
「…ああ、私が戻ってきたからか」
シュネーがひとりで流通エリアにいた理由に合点がいった。つい先日に出立したばかりの部屋主が戻ってこないか見張っていたのだろう。
羽飾りのピアスを手に賢人は寝台から腰をあげた。今頃、自室の冷えた寝具でまんじりともせずにいるのだろうクレドの一人寝を変更させて、共寝の誘いをするために。
訪ったクレドの部屋で、彼が床に突っ伏していたのを見たときは、さすがの賢人も肝を冷やした。
クレドを寝台へ引き上げようとシュネーが頑張っていたが、意識を失った壮年の男を持ち上げるのはアイルーには荷が重い。賢人はシュネーから彼を引き取ってすみやかに自らの部屋へ誘導したのだった。
動きが鈍いのを幸いと寝支度を整え、寝ぼけ眼で自室に戻ると渋るクレドを言いくるめて寝台に押し込んだ賢人は、睡魔に負けた彼の寝顔にしばらく無心で見入っていた。
腹の上で組まれた両手、静かな寝息に動く胸郭、普段撫で付けて整えている髪はゆるく解けて、力の抜けた顔にやわらかくまとわりついている。
寝入ってから起きるまで微動だにしないクレドのすこぶるつきの寝相の良さを、賢人は初めて夜を共に過ごした日に知った。彼が胸の内を晒して昏倒した夜のことだ。
クレドの寝姿は熟睡していても狸寝入りだとしても、傍目からは判別しにくい。それが周囲を惑わせる原因になっている。いわく、それまでぐっすり眠り込んでいる様子だったのに、起こそうと呼びかけた瞬間に、寝ていたとは思えない速さで目を開けて正確に応えてくるのだと。
穏やかに寝息をたてるクレドは、他人の寝具とは思えないほど寝心地良さそうに見えた。
目を閉じている横顔に賢人は密やかに独り言ちた。
「私の寝台がそんなに気に入ったのか」
前触れなく、クレドは薄目を開いた。
日の下では浅瀬の波色をしている瞳が、深い沖の闇を写したような仄暗さを湛えている。見られているのを初めからわかっていたかのように、瞳は迷いなく賢人を捉えた。
「……邪魔か」
微かな唇の動きに反して、声音は明瞭だった。
これは確かに驚かせるだろうなと考えながら、茫洋とした瞳から目を逸らさずに賢人も応えた。
「いいや、居心地がいいなら喜ばしいことだ。気兼ねせず好きなだけ居るといい」
賢人は本心からそう言った。手ずから場所を整えて留め置いているのだ。事実、寝台の上というテリトリーの最たる場所でクレドが緊張を解き、まどろんでいることを賢人は大いに歓迎している。
一拍遅れて、クレドは小さな息をついた。ため息というよりは、鼻先からかすかに笑いが漏れたような音だった。
「調子付かせるな……ひとの寝床で……かってに、寝るような、やからに。……あなたにあやまらないと」
「約束しただろう? 気にしなくて良い、君が眠りやすいならそれに越したことはない」
居るか居ないかに関わらず部屋は自由に出入りしていいと、二人で取り決めたことだ。もっとも、賢人はクレドが考えているよりも広い意味を含めて伝えたつもりでいたが。
クレドは腹の上で重ねていた手を解いて、脇へ無造作に投げ出した。
少しだけ険しくなった彼の目に陰鬱な気配を察し、賢人は先んじて言葉を続ける。
「自分のベッドが合わない?」
「……。そうでもない……」
「私のベッドがいいのか。あまり使っていないから、そこらの備品とあまり変わらないかもしれないが」
「…………」
日頃拠点で生活している調査員ならいざしらず、賢人は長く拠点を不在にしていた。当然自室も生活感は薄く、長く使われていない寝台は年季だけは入っているものの、賢人が使っている物としての気配は薄い。
「理由があるなら教えてくれないか。参考にする。もっと君がここに居たいと思ってくれるようにしたい」
朝方の、黙って寝台で眠っていたことを気に病んでいるらしいクレドが思い留まってくれればいい。賢人は投げ出されたクレドの手に己の手をそっと触れ合わせた。
クレドは緩慢に二、三度まばたきをして、深く息をつく。
「……ここは……静かでいい。まぶしくもない」
まろい声で呟いたクレドはちらと横目を流した。その先を賢人も追うと、小さな燭台が卓上でほのかな灯りを揺らめかせている。
儚い火の色が写し込まれた目を眇めるのを見留めた賢人は、身を寄せてクレドの顔に影を作った。賢人を上目遣いに見つめ返す双眸が柔らかく細まる。
「ここは、……あなたの、寝床、だろう……」
「そうだな。これからは君の寝床でもある」
紡がれる声は途切れがちになり、まばたきも感覚が長くなり始めている。戻りつつあるまどろみを妨げないよう、賢人は息を潜めた。
「……気配……におい、は、べつにいい。……それよりも……」
クレドが手のひらを上に向け、指先をゆっくりと握り、また開く。言葉なく訴えかけるものを感じ取り、賢人は誘われるようにそこへ手を重ねる。
満足げな吐息を漏らして、クレドはささやかに指を絡め合わせた。賢人は、握った手に不用意に力がこもりそうになるのを堪えた。
「あなたが、寝床と……みとめている……ここは。……安心して…………ねむれる────」
言葉尻は解けるような囁きに掠れ、ゆるゆるとクレドの瞳は閉じられて、静かな呼吸だけが胸を上下させていた。
繋いだ手を離すのは惜しかった。賢人は空いた手で目元にかかる髪を慎重に除けてやり、上掛けを胸元まで引き上げる。
必要ならばどんな状況下でも睡眠をとることなど、経験を積んだハンターには造作も無い。それでも、クレドにとって居心地が良く、疲れ切って安心して眠りにつきたい時に望む場所が、己の寝床であるという事実を、賢人は噛み締めた。
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うちのハンター:
五期団所属の"白い追い風"。四十路のガンランサー。
拠点にいる時はオトモにとても甘い。(ねだられて抱き上げたり膝に載せたりは日常茶飯事)
長年過ごした古巣での生活環境から、プライベートな空間に対する価値観が少々ずれている。
自分のテリトリーではなく、自分の認めた相手が寝床と定めた場所で休みたいと欲する心理についてあまり自覚が至っていない。
竜人族の賢人:
一期団所属の竜人族のハンター。
ハンターのオトモから微妙に塩対応されていることを薄々感じている。
寛容的で泰然としていると周囲から評されるハンターが内に持つ激情を垣間見ている。
彼の堅牢な自制心をどうやって絆すか模索していたところに、実はテリトリーの中で人心地ついていると知ってここぞとばかりに囲いに行った。