うちの褪せ人君で書いたモゴ褪02 ドン、と眼前におかれた硝子の器にモーゴットは訝しむ目を向けた。
器に山と盛られた白い綿のような物。それをこの部屋に運び込んできた褪せ人が胸を張る。
「御多忙なローデイル王に憩いの品を献上いたしたく。……なんてね。それより見て、きれいな器でしょ。マギの体格に合うやつ見つけるのは大変だったよ」
褪せ人が起居している王都の円卓城館は、一階奥に厨房がある。近頃まで使われていた形跡があり、調理器具も一通り揃っていて、煮炊きに支障ない環境が整っていた。褪せ人は戸棚を端から端まで漁って、モーゴットへ出すのに相応しい作りでそれなりに大ぶりな器を苦労して探し当てたのだった。
遠い目をして散らかり放題の厨房の惨状に思い馳せた褪せ人だったが、はっと我に返った。もたもたしていると器に盛ったものが溶けてしまう。
「遠慮なくどうぞ、マギに食べてもらうために作ったんだ」
モーゴットは胡乱な目つきで褪せ人を見下ろしてくる。小言の気配を察知して、モーゴットが口を開く前に素早く言葉を続けた。
「ごめん文句も小言も後から聞くから、ひと口だけでいいから食べてみてほしい。溶けやすいんだ」
手にしていた金褐色のベールを小箱にしまい込み、褪せ人の手が届かない高さの棚へ片づけながら、モーゴットは重々しい溜息をついた。
「説明が先であろうが。しばらく姿を見せないと思えば……」
「マギも忙しそうだったでしょ。邪魔しちゃいけないと思ったんだよ」
褪せ人は近頃夜騎兵たちに指示を出すモーゴットの姿を見かけていた。姿なき王と呼び表されるデミゴッドはここ数日あちらこちらへと精力的に動き回っているようだった。
モーゴットは普段している事の話はあまりしない。褪せ人も祝福王の職務にさほどの関心はないので別にそれは構わなかった。モーゴットが明かさないのであれば、邪魔にならないよう遠巻きに様子見する程度の分別はある。
いつものようにモーゴットについて回るのを多少謹んだ褪せ人は、手持ち無沙汰のついでに所用を済ませて王都に戻ってきたところで、折よく人心地ついているモーゴットを発見した。モーゴットの手が空いているタイミングは実のところ貴重だ。
「なんだこれは?」
「削り氷。単純に氷を細かく削っただけだよ。初めて見る?」
王都近郊の水源から汲んだ水を煮沸し、魔術で凍らせて細かく削っただけ。文章にすれば、それだけの代物だ。霧の彼方、海の向こうでは特権階級しか口にできない嗜好品として扱われる国もあるらしい。
「シロップとかも用意してみたかったんだけど、また今度だ」
褪せ人は細かい氷でできた白い山にいそいそと木匙を突っ込んだ。しゃり、と小気味好い音が鳴る。
魔法で物を試すついでに涼もとれて一石二鳥、どうせ作るならモーゴットにも味わってほしい、という動機で用意したものだが、素人としてはよく出来た方じゃないだろうかと褪せ人は自画自賛した。
モーゴットは尚も無言で氷菓を見分している。逡巡する様子を眺めていた褪せ人は、はたと思い至った。
「もしかして、毒味がいる?」
王都を統治する立場にあるのだから、口にするものに警戒するのは当然だ。ましてや褪せ人が持ち込んだものときている。
王都の滞在を許されているとはいえ、害する意思など微塵もなくとも"褪せ人"である以上疑心がついて回るのは、褪せ人も理解している。モーゴットの気が済むのであればその程度は褪せ人には些細な事だ。
「厨房に銀の匙ってあったっけ……ちょっと待ってて、探して来る」
厨房までひとっ走りしてこようと身を翻しかけた褪せ人の襟首をモーゴットの手が素早く捕まえた。
「まったくせわしい……溶けると言ったのはどの口だ。これでいいだろう」
手を伸ばすのに難色を示していたのが嘘のようにあっさりと、モーゴットは匙を手に取った。崩した氷菓をひとかけ掬って、褪せ人の口元にずいと差し出す。
そう来たか、と褪せ人は反射的に半身を引きかけた。
モーゴットの疑念を晴らすために口にするのは容易い。毒の効かない体をしている褪せ人にとり、毒物など恐るるに足らない。毒物が推定盛られているかもしれないものを躊躇なく食べさせようとする容赦のなさにはさすがに慄かざるを得なかったが。
さぞや苦み走った面をしているのだろうと伺い見ると、見つめ返すモーゴットの目は思いがけず静かで、褪せ人は一瞬言葉を失った。
普段から周囲をうろちょろと動き回っている褪せ人は、モーゴットの鬱陶しげにするか呆れかえる表情ばかり見慣れている。渋い反応を示すだけなら他愛もないものだ。モーゴットの無愛想具合を気に止めたこともなかった褪せ人の胸の内に小波が立つ。
褪せ人は大人しく口を開いた。
大柄な体格に合わせた大ぶりな匙を器用に使って、モーゴットは小さな褪せ人の口に氷菓を滑り込ませた。
褪せ人は咀嚼する風にして、いつまでも溶け切らずに口内に残る氷を四苦八苦して飲み込んだ。抵抗なく氷菓を食べた褪せ人の様子が変わらないのを注意深く観察して、ようやく納得したらしいモーゴットも氷菓を口に運ぶ。
「なぜこんなものを作っていた」
黙々と匙を進めながら、モーゴットはぼそりと言った。
「ゲルミア火山に登ってきたんだ。さすがに暑かったから冷たいものが欲しくなって。マギにもおすそ分け」
排律者なる集団の根城であるらしい火山館の様子も窺いたいと褪せ人は考えている。だが、モーゴットがどれだけこちらの動きを追跡したがるかを測りかねていた。
百智卿によれば、火山館には館の主たるデミゴッドがいる。そのお膝元に単身褪せ人が潜り込むと知れば、モーゴットはいい顔をしないだろう。放任してくれるなら褪せ人にとって願ったり叶ったりだが、褪せ人怪しさに労力を割いて追跡しようなどということになっては困る。
「火山くんだりに何用だ?」
「火種を探しに」
剣呑な顔をするモーゴットは想定内だった褪せ人は「溶けるよ」とのんびり促した。
モーゴットのわずかながら憩いに浸っていた空気を拭い去ってしまったことを惜しみつつ、褪せ人はこれまでの試行錯誤を思い返しながら説明を付け足した。
「拒絶の棘はおそらく黄金樹の枝ないし黄金樹そのものと同質だ。物理では歯が立たなかった。竜の雷撃も駄目、凍らせて砕けるかは前に試したね、まあこれも駄目だった。後はもう……部分的に焼き落とすのはどうかなって」
モーゴットがぎょろりとまなじりを吊り上げた。いかにして眼の前の不心得者を懲らしめようかと威圧的に睨め付ける眼差しに、褪せ人はちりちりと首筋を逆撫でる錯覚を感じた。
小気味良さに笑い出すのを褪せ人は堪えなければならなかった。平時であれば寡黙で思慮深いデミゴッドの剥き出しの敵意が、感覚の鈍い体表にすら伝わってくる、それがどれほど褪せ人の心をくすぐることだろうか。高揚に煽られるまま語って聞かせようものなら玉座の再演待ったなしなので口にはしないが。
威圧に怯える様子もなく、反発しようと睨み返すでもない、むしろ雰囲気を和ませる褪せ人に、モーゴットは返って辟易した。付き合っていては気が滅入るとばかりに首を横に降る。モーゴットが激情を起こすと満足げにする褪せ人は、やはりどこか気が触れているのでないかとモーゴットは疑念を持っている。
モーゴットはくすぶる心情に任せて匙を無造作に氷菓へ突き刺した。まずは問いただすところからだ、と言い聞かせて己を宥めすかす。
「黄金樹の枝を焼くなどと、よくも私の前で宣えたものだな」
「焼くのは棘の部分だけだって。全体から見れば、ほんの少しだ。マギの想う黄金樹は、末端を焼いた程度で障りがあるとでも?」
植物由来ならば火は定石、しかし手持ちの火魔術では心許なく、またモーゴットが嫌厭するだろうという予想のために、褪せ人は提案を後送りにしていた。カーリアの氷魔術でもグランサクスの雷槍でも傷一つ付かなかったあの棘相手では、これも効果は無いだろうなと褪せ人は薄々予感している。
「先っぽ焼いたらみんな燃えるって思ってるみたい。あれだけ大きい木なら、よほど大きな火を持ってこないとそんなこと起きないだろうに」
モーゴットは何とも言い難い顔をした。彼が生まれた時分にはすでに立派にそびえていただろう巨木になんとも心配性なことだと褪せ人は小首をかしげる。
「試す時はちゃんとマギに立ち会ってもらうよ。でも結局、火種になりそうなものを見つける前に帰ってきてしまって」
褪せ人は窓の外に目をやった。黄金の丘が続くアルター高原の果てに、荒れた山肌が広がっている。無惨に焼け焦げた小黄金樹の脇、褪せ人はひときわ高い岩柱を指した。
「あそこの高台がいい見晴らしになると思って行ってみたんだけどさ……なんか、虫みたいな牛みたいな、黒い角の獣が居るんだ。霊気流に乗って飛び上がったら、狙ってたみたいに突進して来るし……一回落ちたし……それで、やりあうのも面倒になって早々に降りてきた」
高層にある王都の一室から見ても、件の岩柱はそれなりに高度があるようだった。褪せ人がその天辺から勢いよく突き落とされる様を思い描いて、モーゴットは多少溜飲を下げた。
「マギの方は最近忙しそうにしていたね」
褪せ人が窓に向けていた顔を戻してくる。
モーゴットは憮然と氷菓を咀嚼したのち、きっちり嚥下してから口を開いた。
「郊外の森の小黄金樹に妙なものが居座っている。それの処置に動いていた」
「あー……でっかいミミズ顔?」
片目を眇めるモーゴットに「顔の部分からミミズがうじゃっと生えてるでしょ。だからミミズ顔」と褪せ人が補足すると、合点がいったらしく顎を引く。
豊饒の森の巨大なミミズ顔は褪せ人にも覚えがある。攻撃手段は小型の連中と似たようなものだが、如何せんあの巨体では範囲が馬鹿にならない。近接を主軸にしている褪せ人には相手取りたくないものだ。
「小黄金樹の根本から動こうとしない。近づけば……悍ましいものをばら撒いて暴れる。森には小型のものも徘徊しているが、あれの図体は放置できん。厄介なものだ」
「近接戦闘はしたくないな。崖の上から狙い撃てたりできない?」
「弓か、魔術や祈祷術の飛び道具か。だがあの森は霧が濃い」
街道を下っていく道中から遠目に眺めれば、森の様子を一望できる。それが、商人や指読み婆がいる橋の元まで近づく頃には、眼下にあった森は濃い乳白色の霧に沈んでしまう。不可解な天候に見舞われるエリアは豊穣の森だけでもない。
「妙な森だよね。遠くから見るぶんには綺麗に見渡せるのに、近づくと真っ白になる。霧さえなければな……」
射程の問題もあるか……いや誰かに目印になってもらえれば……と褪せ人はぶつぶつ呟いた。
不意に、匙を運ぶモーゴットの動きが止まった。徐々に顔をしかめていくのに気づいた褪せ人は戦術構想を中断した。
モーゴットは無言のまま額に手を当て、こめかみを揉むようにする。
「やっぱり、頭にきーんと来た?」
苦笑まじりに言う褪せ人に、モーゴットは目で問いただした。
「あははは、生理現象だから安心して。氷の冷たい刺激を誤認識するだとか、だったかな? ちょっと我慢すればそのうち引いてくるよ」
頭蓋の内側からきんきんと突つかれているような経験したことがない痛みにモーゴットは閉口した。
褪せ人は器を覗き込んで氷菓の嵩減り具合を確認した。山盛りだった削り氷は半分ほどになっている。
「けっこう食べてる。頭痛がひどいなら、無理して食べきらなくていいからね」
「……量を減らす手伝いをするという発想はないのか」
目を瞬いた褪せ人はモーゴットが握る匙をちらと見やった。
「僕は作った時にたくさん味見したから遠慮しておく。それに、厨房が散らかしっぱなしなんだ。片付けなきゃいけない」
言うが早いか褪せ人は踵を返して足早に部屋を出て行った。氷菓の消費に勤しむモーゴットは、尾のように揺れる黒いローブの裾が扉口の向こうに消えていくのを黙って見送った。
かと思えば、褪せ人が扉口からひょいと首だけを覗かせてくる。
「器はそのままにしておいて。あとで回収に来る」
今度こそ用は済んだと首が引っ込み、足甲の靴音は遠ざかっていった。
モーゴットは器を見下ろした。飲食に使える水の確保、氷結は魔術があるからいいとして、氷塊をこのような形に拵えるのは労力がかかっただろうことは想像できた。そんな技能が褪せ人にあったとは意外だったが。
氷の味見とは何を言うやら、と頭痛と駆け引きしながら食べ進め、器の底が見えるようになった辺りでモーゴットはふと手を止めた。
褪せ人が飲み食いしているところを見たことがない。
自慢ではないが、モーゴットは褪せ人の動向をそれなりに把握できている。褪せ人を逐一監視しているわけではなく、普段から視界のどこかによくよく入り込んでいるからだ。配下の兵卒たちには不審な動きがあれば報告せよと命じてはいるが、監視対象がおおよそ見える範囲にいるため活かされたことがない。
それだけ姿を見かけておいて、物を食べているところを見た覚えがないことにモーゴットは気づいた。
王都で生活するようになった褪せ人はごくごく平凡に過ごしている。円卓城館で起居し、蔵書室で文献を浚い、武器を手入れし、夜巫女と剣士の霊体を引き連れ、時折王都を出て各地を巡り、また王都に戻ってくる。
すでにデミゴッド二名を撃破し、玉座でその実力と対峙したモーゴットから見て、褪せ人は危険物であるのに変わりはなかった。王都に留まりたいと言うのを寛大に許した体でいるがその実、監視しやすい距離に留め置く利を取ったところが大きい。
拒絶の棘の対処で利害が一致しているために、モーゴットは褪せ人と共同戦線のようなものを張っているが、王座を求めていないという褪せ人の申告は、疑念六割、取り合う価値なし三割で受け止めている。不可解なのは、モーゴットの猜疑心に気付いているはずの褪せ人が友好的な態度を崩さずにいる、その拠り所は何なのかだ。
モーゴットは先程棚に片付けた小箱を再び取り出した。開いた小箱の中には、金褐色のヴェールが収まっている。繊細な意匠が施されたそのヴェールは、女王マリカの戯れとも例えられた王都の秘蔵品である。何ゆえかストームヴィル城でそれを発見した褪せ人から、モーゴットへと返却された物だった。
物体にしか擬態できないなんて──姿を誤魔化すだけなら別の手段があるし──などとぼやく褪せ人に、当然だろうと一蹴したモーゴットは、ヴェールの真価を引き出せる者は限られていることを知っていた。
モーゴットの頭上に掲げられたヴェールが、金輪草に似た柔らかな光を発する。
褪せ人が輝石杖の石突で床を打った瞬間、散乱した器具が紫の燐光を帯びて宙に浮かぶ。
すう、と息を整え、褪せ人は一節を唱えた。
<──そして坊やは眠りについた……>
重力魔術で器具を浮かせ、詠唱でその動きを制御する。レアルカリア大書庫の学徒たちが用いていた魔術の応用だ。
紫の燐光をまとった器具が厨房のあちらこちらへ飛び回り、あるものは整列し、あるものは同じもの同士で重ね合っていく。褪せ人は時折ふらふらと蛇行飛行する器を助けてやりながら口上を続けた。
<銀の瞳の揺らぐ夜に 生まれ落ちた──>
ふと背後に気配を感じ、褪せ人は振り返った。
厨房の戸口に夜の騎兵が一人佇んでいる。まだ日中の王都で姿を見るのは珍しい。そもそも彼らは特段の事情がなければ褪せ人の視認範囲には姿を現さないはずだった。
その手に抱えられた大ぶりな空の器を見て、褪せ人は納得した。
褪せ人が詠唱を中断すると、魔術の恩恵を失った器具たちがゆるやかに着地していく。小さな飛行物が飛び交う室内を大柄な体躯の騎兵に掻い潜らせるのは酷だろう。
「持ってきてくれたのか。わざわざありがとう。洗っておくから、そこに置いてくれていいよ」
洗い場を指せば、騎兵は黙然と器を運び入れた。
王都兵とは別に、モーゴットの指揮下には多くの夜の騎兵たちがいる。ほとんどは王都領域外に出払っているため、接敵時以外で間近に見られる物珍しさにまじまじと眺め回す褪せ人に、両手が空いた騎兵が向き直った。
漆黒の兜の目元に開いた暗い穴から視線を感じる。兜の下を見たことは無いが、剣が刺さるからには中身はあるのだろう。
騎兵はそのまま立ち尽くしている。すぐに立ち去るものだと思っていた褪せ人は意外な事もあると騎兵の出方を待った。親切に器を運んでくれた騎兵は、まだ用向きがあるらしい。
「マギ?」
一番可能性があるとすればモーゴット絡みか、という確認で褪せ人は端的に投げかけた。
褪せ人しか使わない主君の呼び名に反応した騎兵は一瞬身じろいで、ややあって首を横に降る。褪せ人は騎兵が運んできた器を指して「お仕事はこれで完了?」と続けた。騎兵が頷く。
「じゃあ……手が空いてる?」
これにも騎兵は頷いた。仕事が済んでも立ち去らない理由はわからないにしても、褪せ人には都合がいい。
褪せ人は輝石杖を腰に挿し、行儀よく並んだ食器から小皿を一枚引き抜いて、水差しを引き寄せた。
「ちょっと助けてほしいことがある。シロップ作ってみたんだけど、味見してもらえないか」
水差しの中身はアルター高原に自生している草花を煮出して作ったシロップだ。アイテム制作が日常茶飯事である褪せ人には素材さえあれば造作もない。
「舌が利かなくてね、僕じゃ味見は難しくって。香りとか歯触りは多少区別がつくんだけど。色々と手間でさ……」
淡い常緑色のシロップが注がれた小皿を騎兵は素直に受け取った。褪せ人は無意識に緊張していた体からそっと力を抜く。
騎兵が空いた方の手で兜の顎部分に触れ、その姿勢で動きを止めた。
「……うん? あぁ、見られるのは嫌か。じゃあ片付けの続きしてるから、あとで感想聞かせて」
窺われていると気付いた褪せ人はくるりと踵を回して騎兵に背を向けた。
散乱していた器具たちを整頓するのはちょうど終えたため、後は元あった場所にしまうだけだ。兜の留具が外れる音を背後に聞きながら、褪せ人はせっせと器を戸棚へ戻していった。
「マギに持ってった削り氷なんだけどね、実は持ち込むのは迷ったんだ。身分のある人なら食べ物に警戒して当然だし、ほら、持ち込んだのが僕だったから。捨て置かれても妥当と思ってたけども」
褪せ人がモーゴットに出すために選りすぐった器は一抱えもある大器で、持ち上げた腕にかかる重さに、この量の氷を食べきったモーゴットが頭痛に顔をしかめるところを思い出して、褪せ人は微笑んでいた。
「食べてもらいたかったのは本当。僕でも多少食べられる代物だから、マギにも味わってほしくて。みんななら一緒にご飯食べたこともあるのかなぁ」
王族の食卓風景を思い描こうとした褪せ人の頭の中に、円卓城館の食堂の椅子にモーゴットが居心地悪そうにおさまる想像が浮かんだ。想像力が貧弱すぎると首を振るった拍子、おろそかになった手元で器がぐらつく。
「わっ!!」
重量に押し負けバランスを崩した褪せ人の背後から、素早く手甲の腕が伸びてきて褪せ人の腕ごと器を支えた。
振り仰ぐ褪せ人の頭上、騎兵が兜の顎をわずかに引いて、褪せ人を見下ろしてくる。
「危なかった……ありがとう、助かったよ」
一旦洗い場へ戻そうとよろよろ器を抱える褪せ人に騎兵が手を貸す。
器を取り落としかけた動揺を落ち着かせた褪せ人は騎兵に問いかけた。
「どうだった?」
騎兵は首を横に振った。
「味は今はいいんだ、それ以外で。どう、薄かった? 違う? 逆か、濃すぎる。やっぱり加減が難しいな」
都度味をみて調節する方法が取れない以上、ちょうどいい塩梅になる時間感覚を掴むしかない。今回のシロップ作りは煮込み不足を気にして試したが、芳しい結果ではなかったようだ。ひとまず煮過ぎラインは確認できたと褪せ人は気を取り直した。
「付き合ってくれてありがとう。小皿はどこに置いた? そっちも片付けておくけど」
騎兵に渡した小皿の姿を探す褪せ人の顔に影がかかった。騎兵の腕が伸びてきて、反射的に押し黙った褪せ人の口脇をとんとんと指で突く。
褪せ人と夜の騎兵たちとの間に交流は皆無に等しい。褪せ人から友好的に接した覚えもないため、意図を測りかねる仕草は、万一に備えてカウンターを構えるべきか静観するべきか、褪せ人に逡巡させた。ローデイル王の命令無く独断で"褪せ人"に危害を加える可能性は低いと思いたいが、確証はない。幸いにも輝石杖はすぐ掴める位置にある。
褪せ人は短く言葉を発した。
「どうした? ぐえっ」
口を開いた瞬間を狙いすましたように、騎兵は手甲で覆われた指を褪せ人の口内に押し込んだ。
突然の蛮行に褪せ人が目を白黒させるうちに、騎兵は二本指で器用に褪せ人の舌を引っ張り出す。そのまま検分するように首をかたむけたり、より口を開かせて中を覗き込むようにする。
粘膜を無遠慮に探る感触が不快で褪せ人は顔をしかめた。
「なに……何なんだ。引っこ抜くのはやめてくれよ」
舌を引っ張られる程度なら発声に支障ないが、場所が場所だけに褪せ人の背筋に薄ら寒さが来る。騎兵の握力ならば引き千切るのも押しつぶすのも簡単だろう。
輝石のつぶてでもぶつけてやろうかと褪せ人が算段しはじめる頃合いに、騎兵は舌を解放した。
また捕まってはたまらないと褪せ人は瞬時に舌を引っ込めた。変な方向に力を加えられていたせいで妙な感覚が残ってしまっている。褪せ人はもつれる舌をもごもごと動かして文句をつけた。
「むぇ……拷問の予行なら僕じゃなくて別のひとにやってくれ……」
寡言な騎兵からは当然のごとく返事はなかった。騎兵は直前の野蛮などなかったように、どこからか出した小皿をしらりと褪せ人に差し出した。
口元──厳密に言うならその内側の舌──に騎兵の視線がまだ張り付いているような気がする。次同じことをしたら、重力魔術であの大器をぶつけてやろうと褪せ人は心に決めた。
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褪せ人:
マギ大好き(口には出さない)。一目惚れは玉座の戦いがきっかけだが、熱を上げている理由は別にある。
モーゴットへの認識は「私たち・我ら」。
状況によって五感の精度を変えている。味覚は一番優先度が低い。
王都より向こう側には、まだその時ではないので今のところ関心はない。
もともとは口を使って話すのは不得意で、普段はかなり注意を払って喋っている。主語を省いたり脈略をすっ飛ばして発言する時がたまにある。
祝福王:
褪せ人の好感度が最初からまあまあ高かったのが不思議でならない。
褪せ人への今の認識は「庭に居着いた比較的聞き分けの良い野生の生き物。ただし導火線が難解」。
氷菓は悪くない味わいだったが、頭痛に苛まされたので褪せ人も同じ思いをすればいいと思っている。
狭間の地を放浪する褪せ人が、いつ王都の封じられた道の向こう側に行きたいと言い出すか気を揉んでいる。
すわ見破られたかと一瞬の動揺が身じろぎに出た。
詠唱は魂のバイブル某人気作より引用。方舟編が好き。狭間の地では魔術として口伝されているという事でここはひとつ。