無垢の白百合梅雨を迎え、じめじめとした湿気に見舞われて気分までじっとりと水分を含んだように重さを増す。おまけにいくら湿度が上がったところで、水を打ったような涼しさは無く、昇華され切ることのない劣情のように中途半端な熱気を持て余している。
「はぁ〜あ」
ため息をつくと不幸がくるなどとはよく言われたものだが、不幸だからため息をつくのであって、その因果関係は謂わば鶏と卵のそれに等しい。
「どうしたの、ため息なんかついちゃって」
天気が悪いとでも答えれば満足か、確かにそれもあるが、たかだかそれだけでここまで深い溜め息は出ない。
健全な男子高校生が憂うのは、祝日一つない月の中でも何ものでもない日に何らかの特異性を見出すことで、退屈な日をなんとかしてやり過ごさんとする人間の愚行が偶発的に起こしてしまったとある事故のことだ。
「…忘れた」
「忘れた?ものによっては貸せないこともないけど」
「いや、物じゃな………って百合子!?!?」
「ッッ…!いきなり大声出さないで、びっくりした」
「ごめん!……話しかけてくれたのに気づかなくて」
謝りついでに愛しの彼女に気づかなかったことも詫びておく。
俺としたことがとんだ不覚だ。
「こっちに気付かない程深く考え込ンでたみたいだし?誰のことなんだk「百合子のことに決まってるだろ」
食い気味に答えたらちょっと引かれた?いや、案外満更でもなさそうだ。付き合ってるとそれなりに表情の機微にも敏感になる。上唇を軽く噛んでよそ見をするのは、嬉しいけどそれを素直に表せないとき。といった具合に。少し赤くなってる頬がまたかわいい。
「ただ、言ったら絶対引かれるので言いません」
「へェ、余計気になるって言ったら?」
「…もし何言っても怒らないと誓えるなら」
「…ものによる、とりあえず言ってみろ。それから考える」
「そんな無体な……」
煩悩が9割を占めるような10代男子の戯言なんて箸にも棒にも引っかからないですのことよ〜と誤魔化しても追及の手は弛まない。なんでこんな日に限って大雨暴風警報なんか発令されるんだ。会議が長引く教師達は会議室で缶詰にされたまま戻らない。自習時間が続く限り、百合子のマークが俺から外れることはない。嬉しいような気もするが、素直に喜べないのも事実。しかし、チラチラこちらを見遣る級友の野次馬的視線を考慮すると、一旦白旗を上げた方が賢明かもしれない、と考えを改めた。
「先日、6/9でしたね」
「おォ、そうだな?」
「それが何の日かご存知でせうか…」
「サイバー防災の日?」
「それは知らなかった」
どうやら69(ロック)とかけているらしい。俺にとっては百合子のロックが一番厳しいよ。
「ピョートル1世の誕生日?」
「…百合子には俺がそれを忘れて落ち込むような人間に見えるの?」
「ミーシャ=クロイツェフへの興味からロシア史の勉強を始めたとか」
「俺にそんな勤勉性があったらあんなに補習に追われるわけがありませんのことよ…」
「たしかに」
ふんふんと頷く百合子に自分で言ってて悲しくなる。同じ69でも百合子は無垢だ。
正直かの単語を知らない可能性もある。内容が内容なので声を顰めて訊いてみることにした。
「…百合子さんは、シックスナインという単語をご存知でせうか」
「しっくすないん?」
「シー!」
を堂々と教室で口に出す彼女の口を慌てて塞ぐ。手で。
相変わらず百合子の唇はぷるぷるしっとりしていて気持ちいい。
おまけに美少女の口から出る隠語からしか摂取できない栄養まで享受してしまった。
『なに?言っちゃいけないことなの?』
『少なくとも公の場所では』
『先に言ったのは上条じゃん』
あ、黄泉川先生の口調が移ってる。かわいい。
なんて思ってる後ろでガラガラと引き戸の開く音。
視界に人物像が映らない、つまり入室者は学園都市の七不思議だ。
「みなさぁん、今日は休校になりました〜!気をつけて帰るのです」
途端悲喜交々声が上がる。比率は2:8くらいだが。
ともあれお陰でさっきのインパクトが薄れた、ありがたい。
「ねェ、さっきの…続き聞きたいンだけど」
喧騒の中、おずおずと小さい声で訊いてくる百合子。気遣い出来過ぎかわいい。
「そうだな…この後俺の部屋で教えてあげる、とか「行く!!」
ありがとう途中下校。
*
「本当酷い天気」
「本当百合子様々です」
下心満載で自宅に誘ったにも関わらず、恐れ多いことに俺にまで反射を使ってもらった。
一応外から見て変に思われないよう一応折りたたみ傘を広げ、俗に言う相合傘までして。
反射を打ち消さないよう俺の右手で傘を持ち、百合子が後ろから腰に手を回すという最高陣形(ベスポジ)。隣からは百合子の体臭成分が空気中の水分子と結合し、漂ってくる(ちなみに百合子からはいつもカサブランカのような香りがする、上条調べ)。雨にここまで感謝したのは多分生まれて初めて。
流石にダイレクトに話を戻すわけにもいかず、飲み物を出したり世間話をしてしばらく茶を濁していたが、いい加減痺れを切らした百合子からとうとう爆弾が投下される。
「で、シックスナインってなんなの?」
「おお…今度ははっきり言うんだな」
「だって私たち二人しかいないし」
そうだよな、かしこいかわいいユリーチカ。
男と二人きりの場所で猥語の意味を尋ねるなんて破壊力が過ぎる。
さて、どこから話したものか。
「まずシックスナインを数字の表記にしてください」
「ロクとキュウだな」
「それを90度右に倒してください」
「…蟹座?」
「そっちか〜」
星座の形まで知ってるなんて、演算能力に依存せず知識の吸収にも貪欲に生きてるんだな。
残念ながら俺は雨上がりの空で天体観測をしようと思っていたわけじゃない。
プラネタリウムデートだったら喜んでしたいけど。
「違うの?」
「えー、そうですね…6と9の丸部分を人の頭に見立ててクダサイ」
「人の頭に…」
「ヒントはセックスの体位です」
「……それはヒントじゃなくて答えって言うンじゃない?」
口元は笑っているが、心なしか目元には若干軽蔑の色が浮かんで見える。
さっきは星座なんて言ってたもんな、そりゃそうだよな。
言い出した手前、いたたまれない気持ちになる。
「ふゥン…つまり上条くンは6/9に託けて私とシックスナインしたかった、と」
「はい、おっしゃる通りでございます…」
あまりの圧迫感に耐えきれず、思わず頭を下げた。
シックスナインどころか、もしかしたらお預けかもしれない。
むしろお預けで済むならいいけど
「…いいよ」
お預けで済ませてくれるんですね、ありがとうございます。
もう下手なことは言わないようにしないと…
「シャワー借りるけどイイ?」
「え?」
「シたいンでしょ?流石に汗かいてるのに…舐めさせたくないし」
そういうと百合子はそそくさとバスルームへ向かった。
残された俺はあまりのショックにぼんやりしていた。
最後の方は早口で小声だったけど、確かにはっきりと聴こえた。
聴覚に異常がなければ、確かに自分の本願を遂げさせてくれる意思表示の言葉だった。