シリウスの告解第一章 夜霧のむこう
──私は、ひとを殺した。
あのまばゆい光を、この手で、奪ったのだ。
──それでも構わない。
おまえを愛してる。
◇
己よりも随分と小さな足が、白銀の平原に新たな標を刻んでいく。さくさくと氷の粒が擦れる音は深い雪の中へ沈み、それ以上は響かない。言い知れぬ閉塞感を覚えておもむろに顔を上げれば、頭上に広がる大空は昨日の猛吹雪が嘘のように広く晴れ渡っていた。小さく吸い込んだ空気は澄んでいて、肺腑の底までも洗い流してくれるようだ。
「──」
しばらくの間、雪原を踏み締める音に夢中だった小さな命が、私の存在を確かめるように振り返った。わずかに表情を緩めれば、大きな瞳がきらりと輝いて、小さな手のひらが差し出された。本来は私よりうんと温かいはずのそれは、雪遊びのせいですっかり冷え切ってしまっている。なけなしの熱を分け与えるように冷たい手のひらをそっと握り込んでやれば、晴れやかな顔で力強く頷いたこどもは、その身体からは想像できない力で私を引っ張っていく。ほのかな朱色に染まった指で示したのは、どこまでも伸びていく地平線の先で。
──美しいこどもだった。
宝石のような大きな瞳は、綺麗なものばかりでない世界を満遍なく映しながらも、いつも鮮やかに輝いて。その一挙一動のすべてが私の心を惹きつけて離さない。
あの日繋いだ手の温もりも、きらきらと輝く雪原も。晴れ渡った空の色も、鮮やかなその瞳の色も。途方もない時間が経った今でも、すべて鮮明に思い出せる。
けれど、この世界に。私のもとに。
あの星(こ)はもういない。
◆
近頃、不思議な夢を見る。
幼いこどもと、そのこどもを愛おしげに見つめる男の夢だ。映画のようなドラマチックな展開なんかはこれっぽっちもなくって、ふたりの間にはただただ穏やかな時間だけが在った。
その夢を見るのは決まって『あれ』が行われる日の夜のことだった。いや、これは夢というより――いつの日か、確かに存在していた彼らの日常なのだろう。星の欠片のようなこどもとの、眩く愛おしい日々の記憶。どういうわけか、フィガロはその一部をこうしてのぞき見する羽目になっている。
夢の中に出てくる男には覚えがあった。あいつは自分にこれを見せてどうしたいのだろう。目を閉じたまま、昨晩ここへ来た男と夢の中にいた男のふたりを並べ、まぶたの裏に淡く描く。ああそうか、フィガロが夢を見ていることをあいつが知らない可能性もある。それなら教えてやるべきだろうか。でも、そうするにはあまりにも──。
緩慢な動作で寝台から起き上がったフィガロは、裸足のまま洗面所へ向かった。蛇口を軽く捻り両の手のひらで作った器に水を溜め、まぶたの裏に描いた男の姿と夢で見たを光景をまとめて濯ぐようにして、冷たい水の中へ顔を潜らせる。水を新しいものに替えて何度かそれを繰り返し、柔らかなタオルでそっと顔を拭けば、鏡に映るのは見慣れた己の姿だけだった。
洗面所から離れ、フィガロは淡々と身支度を進めていく。ローマンカラーの上から皺ひとつない漆黒のカソックを身に纏うと、最後にもう一度洗面所へ戻り、髪を整えてから自室の扉を開けた。本音を言えば休みの日は昼近くまでだらだらと寝台の上で過ごしたいのだが、教会にくる信徒たちの前で、草臥れた姿を見せるわけにはいかない。
礼拝堂にはすでに多くの信徒たちが集まっていた。整然と並んだ長椅子に腰掛け、ささやかなおしゃべりを楽しんでいた彼らは、フィガロの姿を認めると朗らかに表情を緩ませる。心がほわりと温まるのを感じながら同じように笑みを返し、フィガロは説教台の方へ歩いていく。祭壇の後方、巨大なステンドグラスを通り抜けた陽光が、礼拝堂のあちこちに淡い光の花びらを落としていた。
「おはようございます、フィガロ様」
「ああ、みんなおはよう、良い朝だね」
「何日振りの晴れでしょうねえ」
「ようやく寝具の湿気がとれるわあ」
「フィガロ様、今日は物置の扉を開けて空気を入れ替えるのよ」
「ええ、いい加減黴び臭くなってきましたからね」
「うちの娘を手伝いにやろうかねえ」
「よせやい、あんたのとこの娘はフィガロ様に見惚れてまともに手を動かしやしないだろう」
「はは、そんなことないですよ。彼女からしたら俺はもうおじさんでしょう」
「やだあ、これだからモテる男は罪深いのよお」
「結婚はできないってわかってるからこそ燃えるってやつよねえ」
「もう、あんたたちいい加減にしな。フィガロ様が困ってるじゃあないか」
「いえいえ、俺はこうしてお喋りに混ぜてもらえて嬉しいですよ。そういえば、今年の葡萄はどうですか」
「ああ、それならとびきりのを──」
説教台の上に置いた聖書から栞を抜き、ぱらぱらとページをめくりながら、フィガロはいつものように信徒たちと他愛もないやりとりを続けた。そうこうしているうちに、ばたばたと外から残りの信徒たちが慌てた様子で礼拝堂の中へ入ってくる。よく見る顔ぶれがあらかた着席したところで、ちょうど毎朝の礼拝の時刻となった。フィガロが背筋を伸ばして唇を閉じれば、信徒たちも居住まいを正す。
「──さあ、今日も神の恵みに感謝しましょう」
礼拝堂の外からは、鈴の音を転がすような音がわずかに聞こえていた。フィガロの口上とともにその音色を覆い尽くしたのは、パイプオルガンの力強くも清廉な響きだ。続けて、信徒たちの神を讃美する歌声が重なっていく。
オルガンの旋律を辿って歌いながら、フィガロは清々しい心地で、説教台の上に落ちた淡い光をなぞる。
ああ、なんて気持ちの良い朝だろう。
俺にとっても、あいつにとっても、今日はきっといい日になる。
今から一ヶ月ほど前のこと。
フィガロの住む小さな村をぐるりと囲う森の奥に、ひとりの吸血鬼が現れた。
オズと名乗ったその吸血鬼は、森の中に打ち捨てられている館を自分に譲ってくれないかと申し出てきた。すでに廃墟と化し、持ち主もわからぬ館を惜しむ住民はいない。けれど森の奥にある館を譲るということは、そこに吸血鬼が棲むのを許容するということだ。オズもそういう意味でこちらにお伺いを立てたのだろう。勝手に棲みついて何かトラブルが起きれば、処罰されるのは彼の方だからだ。
申し出を受け、村ではすぐに外から来た吸血鬼を受け入れるか否かの話し合いが行われた。各家の代表が礼拝堂に集まり、物々しい雰囲気に包まれた時にはどうしたものかと頭を抱えたのだが、フィガロの予想に反し、村民たちは特段揉めることもなく、驚くほどあっさり『吸血鬼の申し出を受け入れる』という結論を出したのだった。
「そういやフィガロさま、新入りの吸血鬼さんの調子はどうだい」
朝の礼拝を終えた後は、おしゃべりをしながら皆で礼拝堂の掃除をするのが日課だ。と言っても、毎日大勢で取り組んでいるおかげで目立った汚れはほとんどなく、おしゃべりの方が主のようなものだった。フィガロは毛先が灰色になったモップを引きずりながら、金物屋の店主の方へ顔を向ける。
「元気そうですよ。気を遣って村の方には出てこないつもりみたいですね」
住民たちから居住の許可を得た吸血鬼――オズが森に棲むようになってから、フィガロは単純な興味と、神に仕える者として、何か不都合があれば助けになってやろうという思いで、数日おきに様子を見に行っていた。最初の数回は荒れ果てた館を手入れするのに奮闘している姿を拝むことができたが、どうやらそちらの方がイレギュラーだったようで、今では何をするでもなく、暖炉の前でぼんやりとしている姿を見ることの方が多い。
「そうかい。ただでさえうちは天気がどんよりしてるってのに、あんな森の中に引っ込んじまって寂しくしてないかねえ」
「ばかいえ、吸血鬼なんだから曇ってた方がいいだろう」
「ああ、だからこの村が気に入ったのか!」
言われてなるほど、とフィガロも頷いた。
悲しいことに、この村は一年を通して天候に恵まれない。たとえ晴れの日でも雲ひとつない快晴となることはほどんどなく、気がつけば澄んでいたはずの空が灰色になっていた、というのが日常茶飯事だ。確かに、日光が苦手だという吸血鬼には御誂え向きの環境だろう。
「にしても、皆は吸血鬼が怖くないんですね」
周囲の地形と気候の関係上、この村は人や物の出入りが少なく非常に閉鎖的な環境にある。普通なら思考が停滞し昔ながらの価値観で雁字搦めになっているだろうに、村民には保守的な考えを持つ者がほとんどいない。余所者を嫌うどころか、人から敬遠されがちな吸血鬼ですらすんなりと受け入れてしまう。
「だって昔は闇夜から人間を守ってくれたんだろ? 血だって大量に要るわけじゃあないみたいだし、なにも人間の生き血である必要もねえってきいたよ。それなら私らと一緒じゃあないか」
「一部の吸血鬼が悪さをしてるって話だけど、人間だって似たようなもんだろう」
「……ええ。俺もそう思います」
吸血鬼。文字通り血を吸う存在である彼らは、世界各地に残る伝承の中で、守り神として登場することが多い。
──古来、人間にとって、夜は脅威そのものだった。
当然だ。大して夜目の効かない人間が暗闇に潜む獣から己を守るのは至難の業である。鳥であれば、獣の牙が届かぬ場所に逃げられただろう。己を覆う頑丈な皮膚を持っていれば、獣の爪を防げただろう。けれど人間に翼はない。硬い殻も持たない。獣に勝る武器も、視覚も、嗅覚もない。その卓越した知能を駆使して脅威に対抗するには、まだ時間が足りなかった。ゆえに、夜に活動ができる吸血鬼という存在は人間にとって非常に心強いものだったのだ。
『血液を捧げる代わりに、夜の安全を保障してもらう』
人間と吸血鬼の間にはそういう共生関係が成り立っていた。けれども、人間が火薬や電球を発明し、暗闇を照らす術と脅威を排除できる力の双方を得てから両者の関係は一変する。
彼ら吸血鬼が、人とよく似た姿形をしていたのが良くなかったのかもしれない。狼男であれば姿形が人間とかけ離れている故に、はなから同じ共同体の中にいられなかっただろう。魔女であれば、よほどのヘマをしなければ人間社会に上手く溶け込めたはずだ。その頃には魔女狩りも終息していたし、魔女は見た目も性質も人とほとんど変わらない。
けれど吸血鬼は違った。
見た目は人間と相違ないが、その性質はあまりに異質だった。大まかな枠組みで見たとき、人間にとって彼らは『捕食者』に他ならない。ゆえに、これまで共生関係にあった彼らに人間が敵意を向けるのは、唯一の『天敵』を前に、生物としての防衛本能が正しく働いた結果とも言えた。
然して、これまで通りの関係を望んだ吸血鬼に待っていたのは、魔女狩りを超える迫害と虐殺の日々だった。魔女狩りよりも数的被害が出なかったのは、彼らの個体数が少なかったことと、単純に彼らが生物として人間よりもはるかに強かったからだと言われている。けれども、人間とは異なった限定的な繁殖方法を持つのだという吸血鬼は、その性質ゆえに次第に数を減らし、一時絶滅の危機に陥る。
そんな危機的な状況に終止符を打ったのが、グランヴェル協会と呼ばれる団体だったのだという。フィガロもあまり詳しくはないのだが、およそ百年前、協会の名の下に吸血鬼と人間の間にはいくつかの盟約が結ばれたそうだ。その中で最も重要だとされているのが『吸血鬼は無闇に人を襲わない。人間は吸血鬼を狩らない』と言う協定で、これに違反した人間や吸血鬼は、協会から厳しい罰を受けるらしい。
そうして絶滅の危機を免れた吸血鬼たちは、人間と一定の距離をとりながら静かに暮らすようになった。とはいえ、人間側にも吸血鬼への差別感情は未だ根深く残っているし、吸血鬼側もこれまで庇護してきた、言ってしまえば格下であった人間に裏切られたことに強い恨みを抱いている。噂によると特定の地域では未だ人間と吸血鬼との小競り合いが続いており、協会が定期的に鎮圧を行っているらしい。
それがどこまでが真実なのかはわからないし、大して興味もなかった。穏やかな人々と共にこの村で暮らすフィガロにとってはどうでもいいことだからだ。
「でも、余所者に寛容な土地でも吸血鬼は敬遠されるそうですよ。この村の皆さんは優しいですね」
「そりゃあ、あんたがそうだからさ」
予想だにしない言葉が返ってきて、フィガロは目をぱちくりとさせる。きょとんとした顔をするフィガロに村民たちもびっくりしているようで、なんとも言えない静寂が周囲を包んだ。そうして数十秒、仕立て屋の主人がぶふっと噴き出したのを皮切りに、村民たちは揃ってわっはっはっと快活な笑い声をあげはじめた。
「フィガロ様、あの吸血鬼さんから申し出があったとき、はなっから断る気なかっただろう」
「そうそう。話し合いの場で私らが言い争いにならないかばかり気にしてさ、吸血鬼については心配するそぶりすら見せなかった。申し出を却下するって結論になったとしてもこっそり匿うつもりだったね?」
「だからわしらも承諾したんだよ。フィガロ様がその気ならって」
笑顔を浮かべたままの村民に次々に種明かしをされて、フィガロはなんだがむず痒い気持ちになった。尻のあたりがぞわぞわする。唇をむにゃむにゃと意味もなく波うたせて、頭をかき混ぜながら細く息を吐いたけれど、残念ながら誤魔化しきれそうにない。
「はは、参ったなあ。俺ってそんなにわかりやすいかな」
「いいや、私らは知ってるのさ。相手が吸血鬼だろうと、フィガロ様はこの村を頼って来た者が不幸になるようなことを許すような人じゃないって」
ああ、やっぱり。
フィガロは気恥ずかしさをやり過ごすために彷徨わせていた視線をしかと彼らの方へ向けた。その表情は皆揃ってやわらかく、あたたかく、おだやかな愛に満ちている。
「皆さんが、俺をそうさせるんですよ。でも、ありがとう」
嬉しさを隠さずに相好を崩せば、当然のように同じ表情が返ってくる。そんな彼らと、彼らの生きるこの村を、フィガロは心の底から愛おしく思う。
教会から歩いて小一時間ほどの場所に、その館は在る。
村を囲む森は深い。鬱蒼と生い茂る木々と村の中よりもうんと濃い霧は、人間の視界を容易く奪う。けれども一方で、飢えた獣が跋扈しているとか、足元がすこぶる悪いだとか、そう言う危険のまったくない穏やかな森でもあった。村民は滅多なことがない限り森には近寄らないが、軽装で入ったとて、目印通りに進みさえすれば迷うことはない。月に一度の頻度で訪れる行商たちもいつも慣れた様子でこの森を抜けてきているし、ごく稀に外の人間がふらりとやって来ることだってあるのだ。
天気に恵まれたこともあって、今日は珍しく霧がほとんど出ていなかった。木々の間から見える澄んだ空の色を眺めながら、フィガロは石造りの館へ呼びかける。
「おーい、オズ、俺だよー」
廃墟としか呼べなかった館は、今やそれなりの荘厳さを取り戻していた。まだ中は手付かずの部分が多いように見えるが、薄汚れた白壁に這う草が青々としているだけで印象がガラリと変わるのだから不思議なものだ。
館の周りをぐるりと囲む石壁の切れ目、鉄製の門から前庭へと足を踏み入れる。長さを揃えきれていない草が擦れて、青くさい匂いが鼻腔を抜けていった。そのまま十数歩進めばお目当ての男が視界に入る。
「……」
城の二階部分、中途半端にひらいた磨りガラスの窓から不機嫌そうな紅玉がのぞいた。暗い室内に溶けゆきそうな紺糸がさらりと揺れて、血の気のない白皙の頬の上を滑ってゆく。
「オズ、またずっと引きこもってたのか」
「……今日は日差しが強かった」
「とか言って、曇りの日だってろくに出ないだろ」
今日はたまたま晴天だが、昨日も一昨日も、先一昨日だって、どんよりとした曇り空が広がる一日だった。その前の日も、だ。先述の通り、この村は一年のほとんどが曇天であり、この森に至っては村よりも濃い霧に包まれている。吸血鬼の感覚は違うのだろうが、人間の感覚で言えばちょっとやそっとのことでは『日差しが強い』とはならない。それに、晴れてようが曇っていようが、はたまた雨が降っていようが同じだ。館の手入れに勤しんでいた最初の数回を除き、フィガロはこの吸血鬼が自ら館の外へ出ている姿を一度も見たことがない。
とは言え、オズは吸血鬼なのだから定期的に食料を『狩る』必要があるのではないか。最初にここを訪れたとき、無礼を承知の上でそう問いかけたら、オズは表情を変えぬまま『協会』からの支給品で事足りると言った。話によれば、グランヴェル協会では質の良い血液を安定供給できるだけの人材を確保しているようで、定期的に各地の吸血鬼への配給があるらしい。
吸血鬼が人間と盟約を結ぶに至ったのは、この血液の存在が大きかったという。そりゃあ彼らとてリスクを冒して人間を狩るよりも、定期的に良い餌が手に入る方が良いだろう。たとえそれが――己より弱い立場にある『被食者』(人間)と対等どころか、力関係が逆転するような施しであったとしても。
「今日は石窯を整える」
フィガロの方をちらとも見ずにそう言うと、オズは質の良さそうなガウンを脱いで室内へと引っ込んだ。珍しい。今日もまた暖炉の前でぼんやりしているオズに一方的に話しかける数時間になると思っていたのに。口元をわずかに緩ませながら、二階の窓に向けていた視線を入り口の大きな扉へ向ける。その鍵が当然のようにあいていることを、フィガロはとうに知っているのだ。
初めてここを訪ねたとき、意外にもオズはフィガロを拒絶しなかった。てっきり人間とは必要以上に関わりたくないタイプだと思ったのだが、オズはただびっくりするほど愛想が悪いだけで、こちらに対する敵意も憎悪も全く持ち合わせていない。むしろ好意的と言っていいくらいだ。口数は少ないが、会話を嫌がる様子もないし、知らせもなくふらりとやってくるフィガロを文句も言わずに迎え入れてくれる。
吸血鬼は五感に優れており、彼にはフィガロが森に入った時点でその気配がわかるのだという。出迎えなどは決してしないものの、フィガロが訪れるタイミングに合わせて二階の窓を少しだけ開けているのに気がついたときには、年甲斐もなく心躍ったものだ。一週間ほど前のひどい雨の日だって、ずぶ濡れになったフィガロを見て、オズは慌てた様子で門まで駆け寄ってきた。子供じゃあるまいし、小一時間雨にうたれた程度では体調を崩すこともないのだが、人も吸血鬼もきっと根っこでは似たもの同士なのだろう。
鍵のかかっていない大きな扉を開ければ、広々とした玄関ホールに扉の軋む音が響いた。すぐ目の前にあるのは二階へ続く大階段だ。ワインレッドのカーペットはまだところどころに汚れが目立つが、蜘蛛の巣だらけでもはや繭のようになっていたシャンデリアはその輝きを取り戻し、大階段を燦々と照らしている。オズの私室がある二階にはまだ足を踏み入れたことがないが、一階の部屋は一通り制覇している。大階段を正面にして右手側が応接室や晩餐室、左手側が客間になっており、大階段の裏手に回ると厨房とランドリールームへ続く扉があるのだ。他よりも質素なそれを開けて、左側の厨房へと向かう。ちょうど応接室と晩餐室の裏側が厨房、客間側がランドリールームになっている構造だ。
中へ入りきょろきょろと周囲を見渡せば、埃っぽい調理台の先、狭い小部屋のような空間に紺糸が見える。フィガロは調理台の縁をなぞるようにしてオズの元へ歩み寄った。
「まだこの辺は手をつけていないのか」
そうやって声をかけてもオズはぴくりとも動かなかった。真紅の瞳は彼の目の前にある石と泥の残骸をじっと見つめている。
朧げに残るその形状と厨房と地続きにある場所、そして先ほどのオズの言葉からするに、そこにはおそらく立派な石窯があったのだろう。残骸の近くに備え付けられた扉は位置的に考えて裏庭につながっていそうだし、きっと昔住んでいた人は森から木を切り出してきて、裏庭で薪にして石窯へ投げ入れていたに違いない。
「……なあ、もしかしてピザとかパンとか焼くつもり?」
「そうだ」
即答したオズに、フィガロは目を丸くした。厨房が未だ埃っぽいのはひとえに使っていないからだ。当然だろう、吸血鬼に人間の食事は必要ない。聞いたところ嗜好品の一種にはなるらしいのだが、一月経っても埃が積もったままの厨房を見るに、オズにとっては大した代物ではないのだろう。だというのに、なぜわざわざ石窯でパンを焼こうとしているのか。謎である。
「吸血鬼が、たかがパンのために石窯から整えるのか?」
フィガロが訝しげな顔で問い詰めれば、オズの眉が不機嫌そうに歪む。
「何か問題でもあるのか」
「いや、ごめん、気に障ったなら謝るよ。でも、パンを作るって言ったって、うちの村では小麦はかなり手に入りにくいけど……」
小麦は乾燥した水はけの良い土地でなければ育たない。一年中曇に覆われているようなこの村で栽培することは当然難しく、主な入手方法は月に一度訪れる行商から買うのみだ。それだって確実とは言い切れない。行商の持ってくる品はその都度変化するし、小麦は競争率が高いためすぐ品切れになってしまうのだ。
「ならば米から作れば良い。小麦には劣るが十分美味だ」
「米から?」
「知らないのか」
「ああ。聞いたこともなかったよ。だって米ってそのまま食べても十分美味しいだろ? それをわざわざ加工するなんて」
米はこの村の主食だ。村の皆も普通に米は米のまま食べる。ふやかしたり揚げたりすることはあっても、他の形にすることはない。パンにするということは粉状にして水を混ぜながら練り上げるということだろうか。米が小麦のようにもっちりとした生地になるとは思えないけれど。
「なあ、それってどこかの地方の伝統料理とかだったりする? それとも吸血鬼の知恵的なやつ?」
「おそらくは後者だろう。私も同族から教わった」
「へえ。いいな、ちょっと食べてみたいかも」
「石窯が完成した後であれば振る舞ってやる」
なんてことのないようにそう言ったオズは、残骸の中から小ぶりの石を手に取ってまじまじと観察し始めた。フィガロもオズに倣って石窯の欠片を手にとる。肝心の石がここまでボロボロだと石を集めるところから始めなければならないだろうが、幸いにもこのあたりはいい石が採れる場所が多い。主に建材用に販売している石材は、農耕との相性が悪い村の数少ない収入源のひとつだ。よっぽど酷い天候でない限り、村の男たちはほぼ毎日のように鉱山へ採掘に出かけている。加工もお手のものだ。石窯を一基作る程度なら加工したものを快く分けてもらえるだろう。
「それにしても意外だったな。おまえってこういう地道な作業やるようには見えないと思ってたんだけど」
「吸血鬼ならば時間のかかる趣味の一つや二つくらい持っておいた方がいいと言われたことがある」
そうか、そもそも吸血鬼と人間では生きる時間が違う。人間にとっては時間の無駄だと思えることが、きっと彼らにとっては良い暇つぶしになるのだ。長い時を生きるのも楽ではないのだろう。
「あれ、そういえばオズって今いくつくらいなの?」
「……たしか、二百……を超えた頃だろうか」
「え、そんなに!?」
「私は同族でもかなり若い方だ。同族に会ったことは多くないが、皆五百を超えていた。それに、最年長の吸血鬼は私の十倍――いや、おそらくそれ以上生きている」
五倍、つまり最年長だという吸血鬼は二千年以上前から生きているということだ。それってもはや神話の時代じゃあないか。途方もない話にフィガロは口を小さく開いたまま、目の前の吸血鬼をまじまじと見つめる。血よりも濃い真紅の瞳の奥に、途方もない時の深淵がのぞいた気がした。この男も、きっとこれから千年以上の時を生きるのだ。目まぐるしく変化する人の歴史なんてお構いなしに。
「人間の俺には想像もつかない時間だ……」
「私も同じようなものだ。最年長の二人や他の同族とは少し感覚が違うらしい」
「確かに二百歳のおまえと三十二歳の俺の方がずれが少ない……のか?」
オズは小さく頷いたが、それでもやはり人の一生を三回分生きてきた吸血鬼とフィガロの感覚が同じとは思えない。けれどもなぜか満足げなオズに水をさすことは憚られて、フィガとはふうんと納得するように息を吐いた。
その後、オズとフィガロは石窯周りの寸法を測りながら、ああだこうだと意見を出し合って設計図を拵えた。石窯を組み上げるのはオズが一人でやるつもりだったようだが、どうもその前に第三者の意見を聞いて設計の調整をしたかったらしい。満足いく形になった頃には中天に輝いていた太陽はすっかり傾いて、鬱蒼とした森はいつも以上の静寂に包まれていた。
「じゃ、オズ。またね」
短い別れの言葉と共に、フィガロは屋敷を後にし、己の住居である教会へと戻る。
次の約束はしない。だって今夜もきっと、彼はフィガロのもとに現れる。
真夜中の教会──その片隅にある告解室へ、己の罪を告白するために。
◇
窓に激しく打ちつける雨音で目が覚めた。
どうやら私はいつの間にか眠ってしまったようだ。眠る前は何をしていただろうか、ああそうか、確か夕食の支度を済ませて、あの子の服を縫ってやろうとして──。
と、いつもそばにある温もりを感じられずに、私は慌てて分厚い硝子が嵌まった窓を開け放つ。大量の雨粒が強風と共に室内へ吹き込んでくるが、そんなことを気にしている余裕などなかった。ザアザアとうるさい雨音をかき分けるように、神経を研ぎ澄ましてその気配を探る。門の外に小さな光を感じた時、私はすでに窓から外へ飛び降りていた。
ぐっしょりと湿った草の葉の上に難なく着地し、門の方へと駆け出せば、滝のような雨の中にちいさな子どもの姿がぼんやりと浮かび上がってくる。
「無事か!」
「──」
大きな声に驚いたのか、子どもの肩がびくんと跳ねた。同時に、大きな瞳が私の姿を捉えてぱあっと輝く。駆け寄ってその愛おしい身体を抱きしめれば、触れた肌が思った以上に冷たくて思わず息を呑んだ。大丈夫だ、血の匂いはない。脈も正常だ。雨に打たれて冷え切っているだけだ。そう己に言い聞かせ、小さな身体を抱き上げる。星の子は私の心境など露知らずといった様子で、その鮮やかな瞳を輝かせながら雨の中の冒険譚を語った。それはもう楽しそうに、嬉しそうに。
「……っ」
冷たいものが背筋をぞわりと這い上がってゆく。
それは、私にとって未知の感覚だった。これまでの長い長い時の中で、初めて得た感情だった。
急いで屋敷に戻り、乾いた布で濡れた身体を優しく拭きあげれば、青白かった頬に朱が差す。ひとつ安堵の息を吐きながら、私はこれでもかと薪を焚べた暖炉の前で、冷え切ってしまった身体をきつく抱きしめた。
人の子の命は脆く儚い。こんなにも美しく眩い星の光は、雨粒如きにでもたやすくかき消されてしまう。
──恐ろしく思った。
星のない夜空など、見上げたところで何の感慨もない。
私は失いたくない。手放したくない。この輝きを、光を、決して。
◆
オズの作る石窯が完成したのは、それから二月ほど経った頃だった。
正直に言おう。随分とのんびりとした工期だった。フィガロや村民たちがやれば一週間とかからない作業だったように思う。けれどもオズは丁寧に──人間からすれば時間の無駄としか思えぬやり方で──二ヶ月もの時間をかけて石窯を完成させたのだった。
扇状に積み重なった石は、もはやミリどころかナノメートル単位のずれすらもなくぴたりと合わさっている。一日かけて石のブロックが三つしかくっつかなかったとき、フィガロはオズのあまりの要領の悪さに白目を剥いて倒れかけたが、長命な彼らにとっては、『必要以上の時間をかけずに終わらせてしまうこと』こそが『時間を無駄にする』ということなのだった。急ぐことは悪で、愚か者のすること。永遠に近い時を生きる彼らは、人間とはまったく真逆の意味で時間の使い方を工夫しなければならない生き物なのである。先日言葉で聞いて理解したつもりになっていたことを、フィガロはこの時改めて思い知ることになったのだった。
「オズ、石窯の完成おめでとう」
いつものように大階段の扉から厨房へ入って、完成した石窯の前で腕を組み仁王立ちをしている男に声をかける。おろしていた瞼をゆっくりと持ち上げたオズは、その紅玉にフィガロの姿を映すと怪訝そうな顔で言った。
「……あと一月はかけられたはずだった」
「あはは、早めの完工で何よりだね。そんな頑張り屋のオズに、俺からとっておきのプレゼントがあるよ」
背中に抱えていた麻袋を床に下ろし、口を縛っていた麻紐を解いて中を見せてやる。白く眩いそれに、オズも驚いたように目を瞬かせた。
「随分と質が良い小麦粉だな」
「だろ? 昨日の夜遅くにやってきた行商がたまたま良い小麦粉を持っててさあ。おまえにって思ってね」
量も質も申し分ない小麦粉を三ヶ月ぶりに村に持ち込んだ行商の一団は、今朝早くから村民たちの視線を釘付けにしていた。朝の礼拝を早めに済ませ、掃除は明日すればいいからと一声かければ、教会の信徒たちも皆一目散に村の中央にある広場に駆け出していった。今頃村民たちによる熾烈な争奪戦が繰り広げられていることだろう。
ちなみにフィガロは昨晩たまたま村の宿屋に入る直前の行商たちと出会い、顔馴染みの商人から先んじて小麦粉を買い取らせてもらったので、今朝からの大戦に参加することなく良い品を確保できたのだ。まあ、ルール違反だと言われればそうなのだが、最低限しか購入していないし支払いには色をつけておいたし、神様もきっと見て見ぬふりをしてくれるだろう。
「ついでに良い葡萄酒も持ってきた。うちの村の特産品といえば石材とこの葡萄酒でね。今年のはかなり出来がいいって」
「そうか。ならば今日はピザと共にサラヴァンも焼こう」
「ほんと? おれ、サヴァラン大好き。葡萄酒と一緒に食べられるなんて最高だな。あ、つまみにと思って持ってきたくるみがあるから好きに使ってよ」
小さな鞄の中から紙袋を取り出してオズに渡す。これも昨日行商から買ったものだ。そのままでも手軽につまめるし、『吸血鬼流』の一手間が必要だというのなら、塩とバターで炒めても良いだろうと思って持ってきたのだ。
「……少し時間がかかるが仕事に支障はないか」
「今日はみんな行商たちが持ち込んだ品に夢中で、神様になんて構ってる暇はないだろうね。ああでも、完成するのは明日の朝、とかにはならないよな?」
そうやって軽口を叩いて片目を閉じてやれば、オズは腕を捲りながら溜め息を吐いて、石窯のある部屋の奥、外へ通じる扉の方に視線をやる。
「望むのなら、薪を切り出してくるところから始めてやるが」
その口元がわずかに綻んでいるのを見て、フィガロは大仰な仕草で肩をすくめながらも、オズと同じように微笑んだ。
それからオズは石窯を作っていた時の要領の悪さが嘘のように、丁寧だが手際よくピザとサヴァランを焼き上げた。大人二人分だと思うといささか小さいように見えるが、オズにとって食事は腹を満たすためのものではないし、フィガロも今日は食事というよりも酒をメインに楽しみたいところだ。このくらいの量がちょうどいいだろう。
「グラスは?」
「部屋にある」
「じゃあ片方持つよ」
ワインボトルを片手に持ちながら空いている方の手を差し出せば、必要ないとでもいうように視線をふいと逸らされる。そのまま厨房を出ていく背中を追いかけて行くと、扉の反対側にまわったオズは迷いない足取りで大階段を登り始めた。
「あれ、晩餐室でなくていいの?」
オズと食事のようなことをするのは今日がはじめてだが、客と食事をするのなら晩餐室を使うべきだろう。石窯を作っている合間に暇つぶしがてらのぞいた晩餐室は、思いの外綺麗に整えられていた。
「私の部屋にいく。嫌か」
「逆におまえは嫌じゃないの? おれ、今まで二階には入ったことないけど」
オズはいつも二階からフィガロがここへやってくるのを眺めているが、フィガロが敷地内に入ると決まって一階まで降りてきていたので、てっきり二階には自分以外の生物を入れる気はなく、そこで一つの線引きをしているのかと思っていた。フィガロとて教会にある私室には自分以外の人間を立ち入らせるつもりはないし、誰にだってそういうテリトリーのようなものはあるだろう。種族が違うのなら尚更だ。
「おまえならば問題ない」
フィガロの問いかけに、オズはさらりとそう言ってのける。一瞬その言葉の意味を理解できなくて、フィガロは口をわずかに開けたまま目をぱちくりとさせてしまった。
「……なにそれ、もしかしてオズってば結構おれのことが好きだったりする?」
茶化すように言ったフィガロのことは完全に無視して、オズは大階段を一定のリズムで登っていく。フィガロもその背を追いかけて、ここへ来た時に比べ随分と綺麗になったワインレッドのカーペットに爪先を沈めた。ふわふわとした心地よい弾力が靴底から足へと伝わったのと同時に、ゆるゆると口元が緩む。誰が相手だって、いつだって。特別扱いって、嬉しくなっちゃうよね。
大階段を登って右に曲がると、短い廊下には扉が二つ並んでいた。奥の方の扉に手をかけたオズに続きフィガロも部屋の中へ入る。日没まではまだたっぷり時間があるが、磨りガラスの窓から差し込む光はあまりに淡く、室内を明瞭に照らすには至らない。それもそうだ、今日も今日とてこの森の空は分厚い雲に覆われている。
これは確かに吸血鬼にとっては最高の環境だろう、とフィガロは薄暗い室内を見渡した。ぼんやりと淡い光を放つ窓と扉の間にはメダリオン柄の分厚い絨毯が敷かれており、その中央に置かれたローテーブルを挟むように、一人がけのソファが二脚ある。左右の壁は床から天井まで隙間なく本棚に覆われ、いかにも年代物と言った渋い色の背表紙がずらりと並んでいた。流石にというか、他の部屋とは比べ物にならぬほど隅から隅まで掃除が行き届いていて、本棚にも大量の書籍にも埃ひとつ見当たらなかった。
滑らかな白の石材でできたローテーブルにピザとサヴァランの載った皿を並べたオズは、視線だけでフィガロに座れと言う。それに従ってフィガロが大人しくソファに身を預けると、オズは美しく整頓された本棚をがさごそと漁り始めた。
「何それ、隠し扉的なやつ?」
「そうだ」
「え、ほんとに?」
冗談で問いかけたのに真顔で即答されて、フィガロは思わず身を乗り出して目をぱちくりとさせた。確かにオズの手元を見れば、本棚の一部が外れたり動いたりして、明らかに本棚とは違うものが露わになっている。
「なんか手慣れてない? もしかしてこの城、もともとお前のものだったりするの? その……例の時に、無理やり人間に追い出された、とか」
可能性は大いにある。およそ百五十年前から始まった吸血鬼狩りでは、ほとんどの吸血鬼が棲家を手放すことになったという。あの時無理やり追い出された棲家に、再び戻ってきたのだとしたら――と、そんなフィガロのセンチメンタルな妄想はオズの言葉で一蹴されてしまった。
「私のものではない。この程度の仕組み、三月も住んでいたら慣れる」
そうして二人は短い会話と長い沈黙を繰り返しながら、ゆるりとした晩酌を楽しんだ。
口数の少ない男であるオズとの会話はなかなかに一方的だ。フィガロが喋れば続くし、黙ればそこで終わる。けれどもオズが相手だと何故かそれが苦にならなかった。短い会話の後の長い沈黙にはむしろ安堵すら覚える。火照った身体が、冷たい水でひたひたと満たされていくような、そんな心地の良い沈黙なのだ。
「ん、美味い」
「……そうか」
短い賞賛の言葉に、オズは小さく答えてゆるりと瞳を伏せた。その表情がひどく満足げに見えるのは何もフィガロの気のせいというわけではないだろう。
事実、オズの作ってくれたピザとサヴァランは絶品だった。普段は酒のつまみ程度にしか食事を摂らないフィガロの手も驚くほど進む。
吸血鬼の味覚は人間とは異なるらしい。人間の感覚で語るのは難しいそうだが、大まかに言えば、甘味と苦味にはそれなりに敏感で他はかなり鈍いようだ。それでここまで美味いものが作れるなんて、とフィガロは素直に感心した。これも吸血鬼流の『暇つぶし』の賜物だろうか。一人暮らしのフィガロも料理はするものの、振る舞う相手がいないうえに、大して食に興味もないせいか一向に上達しない。
出来上がった時には十分な量だと思っていた料理たちは、気づけばもうほとんど残りがない。このまま冷え切らないうちに食べ切ってしまうか、まだまだ量のある酒に合わせてペースダウンをするべきか、フィガロは難しい選択を迫られていた。
「あれ、オズって酒は呑まないのか?」
ふと、自分とオズのワイングラスを交互に見たフィガロは、彼のグラスの中身に変化がないことに気がついた。吸血鬼ってもしかして酒が呑めなかったりするのだろうか。いいや、そんなことはないはずだ。ここの厨房に立派なワインクーラーが備え付けられており、中に年代物のワインがいくらか入っているのをフィガロはとうにチェック済みである。
「……厄介なことになると困る」
「あー……そういうことか……」
言われて、フィガロは己の浅慮さに思わず手のひらで顔を覆った。厄介なこととはつまり、そういうことだ。協定があろうがなかろうが、よほどの空腹でない限り吸血鬼は人を襲わないらしいが、酒に酔って万が一ということがあれば、オズは教会から粛清されてしまう。
「悪かった。しっかり自衛してるオズの前でぱかぱかグラスあけちゃって、俺ってば捕食者の前で無防備がすぎたね。ああ、こういう言い方もよくないか……」
「私は気にしない。それに、こちらもお前の気遣いを無碍にした」
そう言って、オズはワイングラスをそっと持ち上げる。
「この程度であれば……咎められることもないだろうが……」
乾杯してから全く減っていない中身が揺れる。その波間に紛れるように、ほんの一瞬だけ、美しい紅玉が物欲しげに輝いた。そうしてオズの眉間の皺がわずかに深まったのを見届けたところで、フィガロは努めて明るい声で話題を変える。
「そうだ、おまえさ、骨に良い食べ物とか知らない?」
無理やり感は否めないが致し方ない。同じ酒好きとして、呑みたくても呑めない時の気持ちは痛いほどよくわかるのだ。オズの返答を待つ間、グラスに残っていた中身をさっさと空にしてボトルに栓をする。酒をやめにするなら料理も食べてしまおう、フィガロはそう思いながら、まだかろうじて熱の残っているピザに手を伸ばした。
「……何故」
「このあたりは気候のせいで作物が育ちにくい上に、行商も月に一度しか来ない。正直、あまりみんなの栄養状態がいいとは言えないんだ。高齢化が進んでるせいか、特に骨の弱い人が多くてさ……」
フィガロの住む町は決して豊かとはいえない。自分たちで農作ができないこともあり、食料の調達についてはその大部分を月に一度の行商に頼っているというのが現状だ。もちろん川で魚は獲れるし、森で獣も狩れる。けれどそれだけでは不十分なのだ。
「私はおまえが思うほど博識ではないが」
「でも、三十年ちょっとしか生きていない俺よりは詳しいだろう。米をパンにするなんて発想も俺にはなかったし」
ね、とお願いすれば、オズは呆れたような顔をして息を吐く。
「本気で知りたいのなら、同族にも声をかけてみるが……」
「たしか吸血鬼同士ってすごく仲が悪いんじゃないっけ」
吸血鬼は縄張り意識が強く、同族からの干渉をひどく嫌う。それは人の間にも広く知れ渡ってる彼らの性質の一つだった。暗闇から人間を守護していた頃から、人間同士の争いの影には必ず吸血鬼同士の縄張り争いがあったのだと言う。彼らに人間と同じような仲間意識と結束力があれば、絶滅の危機に陥っていたのは人間の方だっただろう。
「おまえが言っているのは力の弱い吸血鬼たちのことだろう。力のある吸血鬼たちは争わない。過度な干渉はしないが、必要以上に同族を遠ざけるということもない」
「って言うことは、おまえって強いんだ? もしかして吸血鬼にも魔女と同じように階級?みたいなのがあるのか?」
魔女には扱える魔術の種類によって明確な階級がある。先の魔女狩りでは、人間がするまじないと大して変わらない程度の魔術しか使えない下級の魔女がこぞって狙われ、中級の魔女の一部にも被害が及んだ。一方で、人智を越える魔術を行使できる上級魔女はかの迫害から難なく逃れ、人の中に紛れながら暮らしているのだと言う。歴史に名を残している『大魔女チレッタ』や『厄災の魔女ムル』も未だ健在とする説が一般的だ。
「吸血鬼には魔女のような明確な階級はない。ただ……いや、今日はもう遅い。詳しいことは次に話す」
オズが視線を上げた先を追えば、古びた時計が長針と短針をそれぞれ上と下に伸ばし、美しい縦の直線を作っていた。くすんだ文字盤を覆う飴色の木が、窓の外からわずかに漏れる光を浴びて静かに艶めいている。
「なんだ、もうこんな時間か」
分厚い雲に覆われた空にはさほど変化はないが、じきに夜がやってくる。そろそろ帰らなければ明日に響くだろう。行商の品に夢中な信徒たちでも朝の礼拝には必ず出席する。ならばフィガロもきちんと迎えなければ。
オズのグラスと途中で栓をしたワインボトルを除き、テーブルの上に並んでいた食器はすっかり綺麗になり、白くつるりとした姿を晒していた。それらをそっと重ねて持ち上げれば、貸せと言わんばかりにオズが手を差し出してくる。素直に重ねた食器を渡して、フィガロはワイングラスの方へ手を伸ばした。オズが背を向けた隙に、まったく減っていない中身をくいっと一気に飲み干す。瞬間、舌が淡く痺れるような感覚に包まれ、フィガロは思わず口元を緩めた。じわりと染み渡る果実由来のほのかな甘味と丁寧に熟成された故の豊かな苦味。鼻に抜ける芳醇な香り。やはり村の葡萄酒は格別に美味い。これが呑めないなんて、オズには本当に悪いことをした。彼を守るのに必要なピースの一つにはなったけれど。
フィガロはさっさと部屋を出ていくオズの後を追うようにして、空になったワイングラスを二つ持って部屋を後にする。残りものにはなってしまうが、ボトルは置いていってやることにした。ひとりで楽しむ分には問題ないだろう。気に入ってくれればまた今度新しいボトルも持ってきてやれるし。
「なあオズ」
オズに続き、ゆったりとした足取りで大階段を降りてゆく。途中でそう呼びかければ、オズは両手に皿を持ったまま、首だけを捻ってこちらに視線を向けた。
「なんだ」
「……最近、夜中に村のまわりを彷徨く怪しい人影があるらしいんだ」
それは、月に一度行われている村の定例会議で議題に上がったことだった。
フィガロはその人影の正体を知っている。夜中に村のまわりを彷徨いている彼がどこへ向かい、何をしているのかも。しかしながら、そのことを村人たちに正直に話すわけにはいかなかった。
告解室を訪れる者の素性と告白の内容については、他言無用が教会における絶対的なルールだ。神に仕えるものとしてそれを破るわけにはいかない。けれども今後村人の不信感が募るようなことがあれば、打ち明けなくてはならない時がくるかもしれない。
現時点では、村人たちがオズを疑っている様子はない。むしろ彼らは危機感というものを揃ってどこかに落っことしてきたのか、吸血鬼さんにも用心するように伝えてね、と呑気なことを言ってくる始末だ。普通なら『夜中に何者かが村のまわりを彷徨いている』という情報を耳にしただけで、『吸血鬼のオズが人間という餌を狙って徘徊しているのだ』と考え、その脅威を排除しようとする。実際に他所ではそういう事件も起きているわけだし、それが発展してかの吸血鬼狩りは行われたわけだ。
「おまえも気をつけろよ」
「それは……疑われぬようにという意味か」
シャンデリアの光を湛えた深い紅の瞳が、こちらの真意を探るように輝く。そうして瞬きの間に、一際濃い色の瞳孔が鋭さを増してフィガロを射抜いた。薄い唇の隙間から、白い牙がちろりと覗く。冷たい何かがぞわぞわと背筋を這い上がっていく。張り詰めた空気の中、ごくりと鳴った喉の音が、やたらと生々しく響いた。
「……ふ、冗談だ」
けれど、それからすぐにふっと微笑んだオズの表情は殊の外柔らかくて、フィガロの頬も自然と緩んだ。
「下手くそ」
「効くとは思っていなかった」
「あのなあ、よほどの馬鹿じゃない限り、本能的な恐怖っていうのは誰でも持っているものなの。とにかく、下手なことはしてくれるなよ。おまえも困るだろ」
「わかった」
その言葉にフィガロはほっと胸を撫で下ろしながら、一段飛ばしで階段を降りてオズの隣に並ぶ。肩が触れ合いそうなくらい近づいても、その体温を感じることはない。この男は吸血鬼だ。人肌とはまるで違う冷たい皮膚は新雪のように白く、ただ美しかった。
「それにしても、おまえと話してると、なんだか最近知り合ったばかりの気がしないな。実は俺たちってどこかで会ったことある?」
「そのような使い古された口説き文句を使う男には会った記憶がない」
表情筋をぴくりともさせずに即答したオズに、フィガロは目をぱちくりさせる。
「……だから、もっと面白い冗談を言えってば」
言いながらその肩を小突けば、真一文字に結ばれたその唇の端が、わずかに緩んだ。
大階段を降りたフィガロとオズは厨房の方へさっさと食器を片付けて、再び玄関ホールへと戻ってきた。小麦を入れてきた麻袋を背負いながら大きな飴色の扉に手をかけ、そのまま力を込めて押し開く。ギギ、と木材と金属の擦れる音がして、一瞬だけ細長い光が差したかと思うと、長方形の空間はあっという間に外の景色に変わっていく。青くさい匂いと共に、慣れ親しんだ湿っぽい空気が身体をそろりと撫ぜた。この調子では明日は一日中雨になるだろう。そういえば、もう一月以上青空を見ていない気がする。
「今日はごちそうさま。ピザもサヴァランも美味しかった。酒の残りを部屋に置いてきたから、あとで一人で楽しんで」
そう言いながら庭へ一歩踏み出すと、オズは待てとでも言うように、小さくフィガロの名を呼んだ。
「先ほどの話は誰から聞いた」
「ああ、人影の話? 目撃者は何人かいるみたいだけど……一番最初に見たっていうのは川沿いに住む仕立て屋の娘さんだね。夜中に目が覚めて窓の外を眺めてたら、ってさ」
「……」
考え込むオズだったが、全くピンときていなさそうだった。無理もない。彼女は滅多に村の外には出ないし、オズもこの森から離れることはあまりないはずだ。まともに顔を合わせたことすらないだろう。オズの知る村人といえば、フィガロとこの館に住まう許可を申し出てきた時に相手をした数人くらいのものだろう。
「腰まである栗毛がすごく綺麗な娘なんだけど、俺に気があるのか、見かけるたびに控えめに手を振ってくれるのが可愛いんだよ。ね、オズも気になる?」
二十二歳のおっとりした娘だよ、と茶化すように続ければ、オズは呆れた顔で息を吐いて、今度はさっさとフィガロに背を向け大階段を上っていく。
「……またね、オズ」
そう呟きながらフィガロも踵を返した。人間ならばきっと聞き取れない声量だったけれど、吸血鬼であるオズにはきっと正しくその意味が伝わってしまっただろう。
青々とした芝生を越えて森の中へと入る。湿った土を踏み締める足には次第に力がこもり、気づけばフィガロは早歩きで教会までの帰路をずんずんと止まることなく進んでいった。いつものようにのんびりと歩いていたら、途中で引き返してしまいたくなると思ったからだ。今夜は来るなと、彼を館に引き留めておきたくなってしまうと思ったからだ。
どうか今夜は部屋に残してきたあのボトルを空にして、そのまま眠ってほしい。だって、あんな風に穏やかな時間を過ごして、なんでもないような顔をして別れたのだ。
「……今夜は聞きたくないよ、おれ」
森を抜け、オズの聴覚が届かなくなったところでフィガロはそっと呟いた。
見上げた空は昏く、沈んだ灰色をしていた。
梟の鳴き声すら聞こえぬ静寂な宵闇の中に、微かな物音が響いた。次いでチリン、と小さな鈴の音がフィガロの鼓膜を控えめに揺らす。
教会の中には、告解室と呼ばれる部屋が存在する。その名の通り、己の罪を神に告白し、赦しを得ることのできる場だ。フィガロは常日頃から信徒たちとの対話を欠かさないよう心がけており、何か悩みがあれば毎朝の礼拝後に聞くようにしているので、ここまでわざわざ足を運ぶ村人はさほど多くない。それこそ半年に一度か二度、罪の告白というよりは、フィガロの持つ医学の知識を求め扉を叩く者がほとんどだった。
けれど近頃──そう、三ヶ月ほど前から、頻繁にここを訪れる者がいる。
告解室は教会の敷地内にあるフィガロの部屋と地続きの構造になっている。礼拝堂から正門へと続く本廊下とは真逆の方向、裏門へ続く廊下を途中で曲がり、十メートルほどの石畳を超えた先にある白いブロックのような建物がフィガロの私室だが、告解室はそのさらに奥に入口がある。フィガロの私室の死角になるような位置にあるそこは、教会の敷地内で最も人目につきにくく、けれども裏門からはアクセスがしやすい場所だった。
部屋の中は狭く、人が一人座るだけで精一杯のスペースしかない。少し広めの電話ボックスとでも言えばわかりやすいだろうか。鉄製の鈴がぶら下がっている扉を開けたすぐ正面、低い天井からはベロア生地の分厚いカーテンが垂れ下がっており、裾のあたりから机代わりの木の板が突き出している。隅には小さなランプが置いてあり、備え付けの小さな木製の椅子はカーテンと同じ濃紺の生地が貼られていた。
告解室らしい特徴として、壁から直接生えたような机の少し上、人が座った時にちょうど口元がくる場所の壁に縦十センチ横三十センチほどの穴が空いている。穴の先はフィガロの私室に繋がっており、声だけが届く構造になっていた。言い換えればフィガロの私室と告解室は一部がくり抜かれた壁と分厚いカーテンで仕切られているだけということになるが、告解室があるのはリビングから折れ曲がった廊下の先なので、セキリュティ上は特に問題ない。
チリン。
鈴の音が再びフィガロの鼓膜を撫ぜて、告解室の扉が閉まった。次いで響く音を、フィガロは嫌というほどに知っている。
そうだ。男は、いつも同じ言葉を紡ぐ。
『──私は、ひとを殺した』
地を這うような声だった。深い後悔と、悲哀の滲む声色だった。語尾は掠れてほとんど言葉にはなっておらず、絶望に震える吐息だけが食いしばった牙の隙間から漏れ出ているようだった。
求められない限り、こちらからの言葉は要らない。だからフィガロはただ、濃紺の布の向こうにいる男の、罪の告白を聞いてやることしかできない。
ほんの数時間前、穏やかな時の中に見た、彼の吸血鬼の表情を思い出す。そして分厚い布の向こうにいる男の表情を想像して、フィガロはやりきれぬ感情に拳をにぎりしめた。
フィガロとて長年この教会で神に仕えている身だ、告解の言葉を聞くのはなにもこれが初めてではない。けれど、ここまで深く、重く。肺腑の奥底までを埋め尽くすような絶望と悔恨の音を耳にしたことなぞ一度もなかった。
『大切なあの星を、この手で──』
ああ、きっと今日もフィガロは夢を見る。
彼が命を奪ったという小さな星の子との、在りし日の夢を。
◇
小麦は貴重だ。この土地ではほとんど摂れないため、必要であれば外から調達してくる必要がある。それでも限度があったので、星の子には小麦で作ったパンよりも流通の多い米を食べさせてやることの方が多かった。
吸血鬼である私には米と小麦の違いなどよくわからない。けれどある時どうしてもパンが食べたいのだとごねられ、私はそこで初めて子どもの好みを知った。
しかし間の悪いことにその年の小麦は不作で、離れた村へ足を伸ばしても手に入れることは叶わなかった。色鮮やかな瞳が次第に翳りを帯びてゆく様に耐えきれず、私は己よりも長く生きている同族の知恵を借り、米からパンを作ることにした。あっても困らないだろうと石窯まで自作して、同族から聞いた作り方を端から端まで丁寧になぞって。
出来上がったパンを前にした子どもの表情はひどく晴れやかで、私の心にもほのかな熱が灯る。特別な日にしか使わない木苺のジャムを今回は好きなだけ使って良いと言えば、まあるい瞳はきらきらと流星のように輝いた。
しかし──米のパンを口にした瞬間、その表情が一気に曇る。まるで雪山の空模様のように瞬きの間に暗く沈んでいく。なんでもよく食べる子どもにしては珍しい反応に、私は何か人によくないものでも入っていたかと、小さな手からパンを奪って自身の口の中へ放り込んだ。感覚を最大限に研ぎ澄ませ、丁寧に咀嚼する。けれども人体に有害であろう物質はこれっぽっちも確認できなかった。まあ、要するに、ただ恐ろしく不味かったのだろう。悲しいかな、人体に有害かどうかの判断はできても、私には味の良し悪しはわからない。
「無理して食べずとも良い」
そう言いながら、食べかけのそれを処分してやろうと手を伸ばすと、星の子の薄っぺらい腹がきゅるきゅると音を立てた。まずいパンを前にしても腹は減るらしい。そういえば、このところ身体の成長が早い気がする。普段の食事の量をもう少し増やした方が良いのかもしれない。明日にでも貢物の量を倍にするよう命じなければ。
「食べるか?」
問い掛ければ、星の子の瞳は複雑な色を孕んで揺れる。空腹を満たすか不味いパンを食べるかを脳内で天秤にかけているのだろう。その答えを待ってはやらずに、私は小さくちぎったパンをぴたりと閉じたままの口元に運んだ。ふに、と隙間だらけの生地が潰れて桜色の唇を押す。数秒そのままでいると、星の子は雛鳥がするように押し当てられたパンを唇で啄み、そうしてやはり若干不満の残る表情をしながらもこくんと飲み込んだ。再び閉ざされた唇に同じようにパンを押しつけてやれば、一連の動作を表情までセットで繰り返す。
「……ふ、」
軽やかな空気が唇から漏れ出ていったことに、星の子よりも先に私自身が驚いた。
こんな風に笑うのなんて、何年振りだろうか。驚く私を見て、目の前の子どももその大きな瞳をぱちくりとさせてからふはっ、と私がしたのと同じように笑って見せた。
「悪かった、練習不足だった。次は失敗のないようにする」
そう言って謝罪の言葉と共に星の子の身体を抱き上げれば、小さな手のひらが私を慰めるようにぽんぽんと優しく頭に触れた。
あたたかい日々だった。
吸血鬼として孤独に過ごした歳月など忘れてしまうほどに、輝かしい日々だった。人の子とのそれが、永遠に続くものではないことなど端からわかっている。だからこそ私は、せめて最後は美しい幕引きであるようにと願っていた。このかけがえのない日々を、まばゆい光の中で終わらせたかった。
星が眠る時のように。
ただ、それだけだったのだ。
◆
川沿いに住む仕立て屋の娘の行方がわからない、という報告がフィガロの元へあがってきたのは、告解の翌朝、あたたかな夢の残滓が消えゆく頃のことだった。
第二章に続く