ブランク――桐ケ谷?全く、久しぶりに学校へ来たかと思えばこれか。
名前を呼ぶ声と、嫌味たらしい小言が不思議と懐かしい。机に伏したまま、桐ケ谷は近づく足音に耳を澄ませた。
こいつと二人だけの時間というのは久しぶりな気がした。別に喧嘩をしたわけでもないし、疎遠になったわけでもない。ただ、お互いそれなりに多忙だったのだろう。
特に刑部は、生徒会や家の事で駆り出されているにも関わらず、近頃は横浜まで足繁く通っていた。刑部にスターライトオーケストラという学生オケから声がかかったのはこの春のことだ。学校経由での誘いだったこともあり、優等生の面を被る刑部は断れなかったのだろう。「せいぜい楽しんでくるさ」と自嘲気味に笑う横顔を見た夜から三ヶ月ほどが経つ。そのオケは界隈でも名が知られていて、週末などはホールで演奏会なども行っているそうだ。どこにそんな時間があるのか全く理解できないが、忙しくしている方が性に合っているのだろう。
刑部と顔を合わせる時間が減り、つまらなく感じたことも確かだが、不満に思うことは一度もなかった。本人は認めないだろうが、刑部が相当な音楽バカだと言うことを桐ケ谷はよく知っている。
「いつまで寝ているんだ、晃」
親の他に、桐ケ谷をそう呼ぶ人物は一人しかいない。呆れたような物言いに、甘さを纏った声で鼓膜をくすぐられる。机の前に腰掛けたのだろう。床とスチールの脚が擦れる音は、木板の表面を振動させた。素直に起きてやるにはなんだかつまらない気がして、たぬき寝入りを続けてみる。こういう戯れも久しぶりだと思うと、どこか浮ついた気分になった。近くに刑部の息遣いを感じて、ほんの少しの期待がよぎる。
そっと、冷たい指先が桐ケ谷の頭に触れた。後頭部の形を確かめるように移動し、毛束を掬われると、先までするすると優しく撫でられる。
「…晃」
不意に、耳元でそう囁かれた。
すでに目が覚めていることはお見通しなのだろう。はやく起きて相手をしろとでも言うように、低く、柔らかい声が小さく響く。一体どんな顔をして言っているんだか。
「ここが教室だって忘れてるんじゃねえのか、会長サン」
刑部の手を捕まえて顔を上げる。さっきまで空調の効いた部屋にいたのだろう、まだ冷たさの残った手の持ち主は薄い唇を機嫌良さげに綻ばせてこちらを見つめている。目は口ほどに物を言うとはよく言ったものだ。教室中が夕日色に染まっていて、数時間ぶりに浴びた光がひどく眩しい。
「久しぶりの逢瀬だからね。それに施錠は済ませてある」
「用意周到かよ」
刑部は、桐ケ谷と合わせるように手のひらをゆったりと半回転させ、オレンジ色に投写された手指を絡める。肌の厚みに触れると、手の届く場所に刑部がいるのだと、やっと実感した。
「それにしても、いつから寝ていたんだ?」
手を弄り合いながら、揶揄うようにそう聞かれる。
「あー、飯食ってからだから五限?」
「馬鹿だな」
嘲笑混じりに言われ、少々ムッとした。これは本当に馬鹿にされている方のやつだ。それでも、愉しげな刑部の表情を見てしまうと苛立ちのようなものは凪いでしまう。長い付き合いだからというだけではない刑部にだけ湧いてくる情というのが、桐ケ谷の中に確かにある。
「お前が単位がどうだとか言うから来てやったのに」
「俺を先輩と呼ぶことになって良いのなら好きにするといい」
「誰が呼ぶかよ。気持ちわりい」
本気とも冗談とも取れる軽口を交わしながら、互いの手のひらの形を思い出すように指を絡め合う。ほんの少しの間があった。悪戯に動いていた指は一瞬力を緩め、桐ケ谷の手は丁寧な動作で包まれる。
「寂しかったかい?」
本音を纏った、自負と不安が混じったような眼差しを向けられる。ここで寂しかったなんて返せるほどの愛嬌は持ち合わせていないが、はぐらかしてしまうには刑部に悪い気がした。几帳面に結ばれたネクタイを掴み、乱暴に引き寄せる。触れた、柔らな部分から、全部伝わるだろう。
寂しくなかったなんて言えば嘘になる。学校や水戸で起こる諍いは自分一人でどうにでもできたし、ウロボロスのメンバーも増えてきた。それでもどこか物足りなく感じていたのは、きっと知らずのうちに刑部が隣にいることが当たり前になっていたからだ。
唇をゆっくり離すと、桐ケ谷の鼓動が大きく跳ねた。そこには素直に答えた方が良かったと思ってしまうほどに、満足そうな刑部の笑顔があって居た堪れなくなる。それでももっと触れ合いたくて、桐ケ谷は再び刑部の口を塞いだ。