あほえろアス 各々の心に深く残る傷を残しながらも大災を退けた帝国は、ヴィンセント皇帝のもと全帝国民が日々忙しなく復興に精を出している。その成果は目を見張るほどで、大災という名のままに帝国にもたらされた甚大な被害の傷跡は、わずか数ヶ月の短期間でかなり回復していた。
その根底には老若男女を問わない帝国民一人ひとりの活力はもちろん、やはりヴィンセント皇帝の手腕によるものがかなり大きい。
一国の頂点の座にも決して胡座をかかず、寝る間も惜しみ朝から晩まで彼の持ちうる限りの頭脳を働かせる。ともすれば民や兵たちよりもよっぽど過労傾向のヴィンセント皇帝は、大災から約半年にしてようやくその執務が少しは落ち着きつつあった。
毒味済みの温くなったコーフを煽り、約半年もの間絶えず張り詰めていた息を小さく吐く。……と、そんな一瞬を決して見逃さない老人がここに一人。
「閣下」
たった一言。それだけだ。
素晴らしく賢く、効率を突き詰めるヴィンセント皇帝にはそれだけで十分だった。
「今はまだ、それどころではあるまい」
視線すら寄越さずに短く返された言葉は、さすがは賢帝というべきか。己の一言への的を射た正論に、老人もまたそれだけのやり取りでこれ以上の問答は無用だと悟り、静かに口を噤んだ。
そんなやり取りから数ヶ月後。
帝都の見通しは変わらず良いままではあるものの、各地に避難していた人々は再び帝都に集まり、日常生活を送れるまでの復興を遂げた。
ヴィンセント皇帝の執務も落ち着き、未だ両の瞼が伏せられることはなくとも、夜は眠りに就くことができるようになった頃。
老人の細い瞳が、衰えを感じさせない鋭さをもってヴィンセント皇帝を射抜いた。
「閣下」
数ヶ月ぶりにして二度目の言葉だ。否、その呼び方自体は日に何度も口にされるものであるが、短い言葉に込められた意図は同じものだった。
紙の上にペンを走らせる手は止まらない。
「そう焦るな。すぐに結果がでるものでもなかろう」
つとめて平静な声で返された答えは、なるほどたしかに正論である。――まだ、正論で通る。
やはり老人の方を見向きもしない皇帝に、糸目の奥に隠された鋭い瞳は少しの逡巡ののちやがて鋭さを隠した。
それからまた数ヶ月後。大災からは早くも一年が経つ。
一部の巨大な建造物を除き、街並みのほとんどが再構築された帝都は、以前と同じ、もしくはそれ以上の活気を取り戻していた。
「閣下」
三度目だ。
大災から一年にして三度目の追求に、ヴィンセント皇帝の脳裏に「三度目の正直」などとという、聞き慣れない言い回しの慣用句が思い浮かぶ。
必然的に己と同じ色の髪と目をした少年のことも思い出され、ヴィンセント皇帝は密かに眉を顰めた。
「…………」
紙の上を走るペン先が動きを止める。
一年間、三度目にしてようやく手応えのある反応に、老人は二度目までは口を噤んできたその先を声に出した。
「次第によってはこのベルステツ、今一度謀叛を企てなければなりませんが」
本人を前にした謀叛宣言。それも彼の言う通り、もしも実行されたのならば二度目の謀叛である。わずか一年にして、同じ人物から二度の謀叛。
何度も謀叛を起こされる皇帝も、そして大衆の意見など無関係に己の意思だけで謀叛を起こす者も。一般常識ではどちらも決して良しとされないそれらは、しかしこの帝国においては真逆の価値をもつ。
善も悪も、正解も不正解も、武力も知力も、帝国民には関係ない。ただ、勝者のみが全てだ。
武力を掲げての謀叛であれば、話は簡単である。九神将の壱である帝国最強を置いておけば、それで全てが解決するのだから。
しかし老人――ベルステツは違った。
実力主義の帝国で、彼は肌に深い皺を刻む年齢になってもなお、宰相の地位に着いている。そこに確たる実力があることは、言うまでもない。
柔和な老人の見た目にそぐわず、確実に抜け目なく獲物を追い込む彼の相手をするとなると、それなりの思考をそちらへ割かれることは必須だ。
約一年の尽力の結果、ようやく国の全土が活気を取り戻してきた今。ベルステツの二度目の謀叛など、どうあっても避けたい無駄事である。
賢帝たるヴィンセント皇帝は効率を重視し、無駄を嫌う。
「……あれを――」
少しの沈黙ののち、ペンを置いて口を開く。
不機嫌をあらわに眉を寄せてもなお、彼の魔貌はその美しさを欠片も損なわない。
大きな溜息とともに口にされた名前は、奇しくも数秒前にも思い浮かべたものだった。
「ナツキ・スバルを呼べ」
***
それからの動きは早かった。――いや、速かった、と言うべきか。
ロズワール邸にてしばらく穏やかな日常を送っていたスバルに、それは突如としてやってきた。
すっかり日々の日課に組み込まれているラジオ体操。エミリアとベアトリス、今朝はそこにガーフィールも加えた面々で、広い庭園でラジオ体操をしていた時のことだった。
「ヴィ――、」
両腕を上に上げ大きく息を吸い込み、最後のひと言でラジオ体操を終えようとしていたその時。
「ちょっとボスお借りしますね!」
瞬きの間に、スバルの視界は一転していた。
鮮やかな緑と、色とりどりの花々が咲き誇る美しい庭園をはるか彼方に置き去りにして、スバルの視界は目まぐるしく変わっていく。
帝国最強とは思えない華奢な肩に雑に担がれたスバルは、猛スピードで後ろ向きに流れていく視界をただぼんやりと眺めていることしかできなかった。
爽やかな朝日が頭の真上にきて、それから空を橙色に染めてやがて山の向こうに沈んでも、光の速さは変わらない。さらに恐るべきことになんとこの男、高速で駆け抜けながらも口の方も動き続けているのである。
しかしスバルもスバルで、彼の常識外れで規格外な身体能力とネジの飛んだ頭には慣れていた。
肩に担がれながらもしばらくは懐かしい喧しさに付き合っていたスバルだったが、月明かりだけが照らす暗闇に、いつの間にか意識を手放していた。
そうして次に目が覚めた時にはスバルの寝室よりも広い立派な執務室と、ムカつくくらいに整った美貌の男の仏頂面である。
唯一の窓から見える外の景色は爽やかな晴天で、昨日の朝にロズワール邸から連れ去られてからの時間の経過を教えてくれる。
寝起きがいいスバルが丸一日寝ていたことは――それもあんな状況下では、ほぼ有り得ないと断言していいだろう。つまり、最速の男はなんと一日もかけずに国境を跨いだということになる。
普通では前者の方が選ばれる状況も、彼を知る者であればきっと誰もが後者の思考に行き着く。スバルもまた、その一人だ。
硬い床に全身を打ち付けての覚醒に、しかし戸惑いはわずか数秒だった。
「……んで? いきなり呼び出して……つーか連れ去って、一体何の用事だよ」
身体を打ち付けた床に胡座をかいて、今回の誘拐事件の元凶というべき男を睨み付ける。スバル輸送中、宅配業者の彼は「トップシークレットです!」などと言っていたが、トップシークレットであること自体がほぼ答えのようなものだ。それに、彼を動かせる存在も一人しかいない。
「まさか、まーた謀叛されようってんじゃねぇだろうな」
ヴォラキアの「青き雷光」セシルス・セグムントが従う唯一、神聖ヴォラキア帝国第七十七代皇帝ヴィンセント・ヴォラキア――という名はスバルの口には馴染まない。彼が最初に名乗った日から皇帝の座を取り戻した今もなお、スバルはアベルと呼び続ける美丈夫を鋭い瞳が睨みつける。
ルグニカとヴォラキアの間に不可侵条約が結ばれているとはいえ、そしてかつて協力関係を結んだ間柄とはいえ。一国の皇帝に対してあまりに命知らずな態度である。
だがしかしアベルはスバルの無礼極まりない態度には慣れているようで、片目を瞑って腕を組み、こちらもまたふてぶてしい態度で応じる。
「そうだ」
「そうだ!?」
何の躊躇いも憂慮もなく、正々堂々と己への謀叛を肯定したアベルに、スバルは目を剥き床から尻を上げた。
「おま、俺があんだけ死っ……ぬ思いで必死こいたってのに、また謀叛されてんの!? 俺もう知らないからなって言ったよね!? わぶっ!?」
「黙れ。まったく、貴様という奴は相変わらず喧しく落ち着きのない……俺の話はまだ終わっていない」
豪奢な椅子に座るアベルに詰め寄り、その美しい顔に唾を飛ばすスバルの顔面に紙の束が叩き付けられる。
不要な書類だったのだろう。スバルの唇とキスをして部分的にわずかに湿った紙を机の隅の方に積み、アベルは腕を組み直した。
「――あれからもう一年か。あの時のベルステツめの謀叛の理由は知っていよう」
「んえ?」
さも当然とばかりに向けられた言葉に、けれどスバルの方はまったくもって思い当たる節がない。
約一年前、スバルが巻き込まれた全てのきっかけともいえる、皇帝閣下への謀叛。それらの企ては、宰相と腹心によるものであることは知っている。腹心であるチシャという人物のことは残念ながら最後まで知ることはなかったが、もう一人の老人の方は顔も名前も知っている。面と向かい合って、言葉を交わしたことだってある。皇帝へ謀叛を起こした人物という人となりからスバルが想像していたよりも、ずっと温厚な印象を受けたものだ。
本当の顔すらも知らないチシャがアベルを、世界を欺いた理由は多分、なんとなく分かる。分かった。
だがしかし、大災を生き延びた老人がかつて起こした謀叛の理由は考えたことすらなかったし、考えたとしてスバルには皆目検討もつかなかった。
「…………」
「…………」
瞳の鋭さをおさめてまるくした目で黙り込むスバルに、アベルは眉間に深い皺を刻んだ。やがて、机の上にのる大量の書類など素知らぬ顔をした、真っ白な手袋をはめた手が額に添えられる。
「……貴様、そんなことも知らずに首を突っ込んでいたのか……」
「好きで首突っ込んだわけじゃねぇし、お前が何も言わなかったんだろうが!」
相手があのアベルであるとはいえ、さすがにあまりに身勝手で理不尽な言いようである。
ひとまずしっかりと正論だけは返しておいてスバルは短い腕を組み、未だ立派な椅子に座ったままのアベルを見下ろす。
「……で? ベルステツさんの謀叛の理由って? 皇帝のパワハラにムカついたから?」
「たわけ。なんだこの意味不明な言葉は。彼奴(あやつ)が斯様な馬鹿馬鹿しい行動原理で動くわけがなかろう。貴様でもあるまいに」
「そういうところなんだよなぁ。俺がベルステツさんだったら百回以上は謀叛起こしてるわ」
「二度目があると思っているのか? 一度目でその首を叩き落としているに決まっている」
周囲が見れば卒倒するほどに不敬なやり取りも、二人にとっては息をするように当然のものだった。それに、立派な執務室には内側から厳重に鍵がかけられており、二人の密会を邪魔するものは誰もいない。
片目を瞑りスバルの首に視線を向けたアベルは、一呼吸おいて口を開く。
「――世継ぎだ」
あまり身近でない単語だが、スバルとてそれくらいの教養はある。
「よつぎ……っていうと、子どもってこと?」
「あぁ」
分かりやすく言い直したスバルに頷きを返し、アベルは静かに淡々と言葉を続ける。
「世継ぎの不在。それがかつての彼奴の謀叛の理由だ」
「へー。そうだったんだ」
突如として飛ばされた先の異国の地で巻き込まれた、世界を巻き込む騒動から約一年後にして知らされた事実にも、スバルの興味はごく薄い。なぜなら全てがもう終わったことなのだから。
今さらあの時の事実を知ったところで、失った命は戻ってはこないし、理由がどうであれ、帝国を襲う大災に命を賭けて抗ったことに後悔も怒りもない。
「そして今回も、な」
「へー。…………ん!?」
いつかどこかで話のネタくらいにはなるだろうと、一応は頭の隅に引っ掛けておいた一年前の事実は、やはり淡々としたアベルの言葉によって一瞬で吹き飛んだ。
「謀叛って、またベルステツさんなの!?」
「そうだ」
「しかも前回とまったく同じ理由!?」
「そうだ」
「いやだから『そうだ』じゃねぇよ! なんでだよ!? だってお前……!」
驚きと衝撃のあまり勢いのままに口走る言葉を、スバルはすんでのところで飲み込む。
それから恐ろしく整った魔貌に近付けていた平凡な顔をそっと離し、鋭い目が行き場をなくして宙を泳ぐ。
ぐるぐるふよふよと視線を空中浮遊させて、ぱくぱくもぐもぐお口を開けては閉じて。しばらくの間、無駄な挙動でたっぷりともったいぶったのち、ようやく覚悟を決める。
「……ぉ、奥さん、たくさんいるじゃん」
先ほどまでの威勢は一体どこへいったのか。
わずかに頬を赤く染めた呟きは、消え入りそうな声だった。様子のおかしいスバルにも、当然ながらアベルは顔色一つ変えない。
「あぁ」
「……っ、ぅ」
恥ずかしさと、気まずさと。二つの感情がごちゃ混ぜになって、口ごもるスバルの頬をどんどん赤く染めていく。
――顔見知りの生々しい性事情は何か嫌だ。
元の世界を生きていた頃にネット上で知った至極どうでもいい情報を、まさか今になって実感させられることになるとは。人生何があるか分からない。
何せ元いた世界では友人と呼べる存在などいなかったし、この世界でできた唯一無二の友人も容姿性格ともに女性に好かれそうなくせして、浮いた話題にはなぜかてんで縁がないもので。
一応はキスまで済ませた好きな子が手の届く距離にいるとはいえ、彼女の情操教育は驚きの幼さだ。好意を向けられてはいても、それが恋だと自覚するまでにはまだまだ道のりは長く、スバルもまた美しく清らかな彼女に劣情を向けることを己にも許していなかった。
ペトラやメィリィにすら呆れられるほどの初心な恋をゆっくりと育んでいたところに、突如として生々しい大人の性事情をぶち込まれてはたまったものではない。
思春期真っ只中の男の子の脳内はどう足掻いたって性への好奇心を完全には拭いきれず、けれど目の前の美丈夫がそういったことをしている場面の想像に強い忌避を示す。
「……だ、だったら、なんで」
視線を逸らしながらも、どうにか紡いだ当然の疑問。そこでほんのわずかではあるものの、アベルにはじめて変化が生まれた。
「…………」
整った顔はそのままに、それまで淡々と言葉を紡いでいた唇が引き結ばれる。
二人の間に流れる沈黙は、効率を重視する彼が嫌うものだ。
「……な、なんだよ」
なのに、アベルはたっぷりと時間を浪費して。
「あれらと情を交わしてはおらん」
もしもこの場にベルステツがいたのなら、謀叛実行即決の事実を暴露した。
「は? ……はぁ?」
驚きの事実にスバルは間抜けな顔をさらし、それから謎の安堵を覚える。
「おま、そりゃまたなんで……あっ、もしかしてお前、皇帝としての職務が忙しすぎてとか言うんじゃ……やだやだ、仕事を理由に奥さん大切にしない男とか、サイテーですわ」
世継ぎ不在=子作り=夜の話題をされた時は、顔見知りの生々しい性事情にひどく狼狽えたものだが、アベルが妻たちと「そういったこと」をしていないという事実にスバルはすっかりいつもの調子を取り戻す。ナツミの時よりもはるかに雑な女声を出して自らの肩を抱き、美しい顔をじとりと睨みつける。
「ぶへっ」
そんな度量も力もないくせに、目つきだけは一丁前に大犯罪者の睨みにもアベルはやはり動じることなく、再び書類をその顔に叩き付ける。
「たわけ。大災後の始末で俺ができることはもう粗方片付けた。貴様の勝手な想像で俺を愚弄するな。そんなに首を落とされたいか」
「だから、じゃあ何でなんだよ」
繰り返される、同じ質問。
当然ながら例に漏れず、アベルの嫌う無駄だ。
だがしかし、それも仕方がないことである。なにせ彼の事情を理解しようにも、説明も言葉も何もかもがあまりに足りていないのだから。これでもしたわけだの何だのと罵られでもしたその時は、百倍にして文句を返してやる。
心の中で構えた臨戦態勢は、けれど構えるばかりで一向に本領を発揮できないでいた。理由は単純明快。
「…………」
再びの沈黙である。
このわずかな短時間にして、二度目の沈黙だ。
もしもこの場にかつて謀叛を起こした――それから今まさに再び謀叛を起こさんとするベルステツがいれば、細い目の下で大いに驚いただろうし、かつて皇帝や世界をも欺いたチシャがいれば、腹を抱えて笑ったことだろう。
スバルにとっての小さな違和感は、本来それほどまでの威力をもっている。
「――反応しない」
「……は?」
しかしその後に続く言葉の方が、スバルにはよっぽど衝撃的だった。
――反応しない?
凛とした声で告げられたひと言が、スバルの頭の中をぐるぐると回る。
口を半開きにした間抜け顔のまま固まるスバルに、アベルは呆れたように小さく息を吐いて腕を組み直す。そしてヴォラキア帝国の皇帝らしく、胸を張り正々堂々と事実を言ってのけた。
「二度も言わせるな。だから、反応しないと言っている」
「……は、反応しない、……って、なにが……、」
決して大きな声量ではないはずのに、一言一句漏らさず頭と心に入ってくる声で繰り返し告げられる、「反応しない」という事実。
――「反応しない」。主語のない言葉だ。
一見していたく不親切に思えるそれは、けれど前後の会話の内容を考えれば自然と答えは導き出せるものだった。
「いや待て! お前の口から下ネタとか聞きたくねぇ! すんごい解釈違い!」
賢帝にはもちろん、身内の内政官にも遠く及ばない頭でも行き着いた答えに、スバルは反射的に両手を勢いよく前に突き出した。
「くっ、」
「っ!?」
勢いあまって顔面に軽くぶつかってしまった手の仕返しとばかりに、無防備な脛に遠慮を知らないつま先が叩き込まれる。
「ッッ……! っ……おま、くそっ……! はぁ……」
床にうずくまって蹴られた脛をさすりつつ、スバルは目の前の美丈夫をまじまじと見上げた。
改めて、何度見てもとんでもない美しさだ。かつて皇太子でだった時もあったが、この美貌からこんな平凡顔が生まれるわけがないことに気付かないものだろうか。
普段から美男美女に囲まれるスバルだが、そして己の好きな子が世界一かわいくて美しいことは揺るがないスバルだが、それでもアベルの美しさは他とは一線を画している。
これが皇帝がもつカリスマというものなのだろうか。神が作った造形美のラインハルトとも、女性受け抜群の美しさをもつユリウスとも違う。アベルの美しさは誰もが圧倒される、絶対的で暴力的なものを与える。
……だというのに。
「はー……まさか神聖ヴォラキア帝国の現皇帝閣下様がEDだったとは……」
こちらの世界に来てからこの方信憑性を失った、天は二物を与えずなどという諺(ことわざ)が、まさかここにきて信頼を取り戻すとは。それもヴォラキア帝国の皇帝閣下様々に。それもそれも下(シモ)の方で。
あの傲岸不遜な皇帝閣下様に弱点があった事実はたしかに嬉しいものの、それはそれとしてスバルは解釈というものを大事にする質(たち)だ。妻たちを毎夜抱きまくっているアベルも解釈違い甚だしいが、EDのアベルというのもそれはそれでかなり問題がある。
ベルステツによる二度目の謀叛の危機とその理由。それからそれらの元凶であるアベルのED問題。何もかも、できることなら知りたくなかった事実だ。
小さくうずくまって頭を抱えるスバルを、椅子にふんぞり返るアベルの黒瞳が見下ろす。
「その『いーでぃ』とやらが何のことかは知らぬが、貴様のことだ。どうせ不敬極まりない言葉であろう」
約一年ぶりにして、ちっとも変わらないふてぶてしい態度と物言いに思わず顔を上げたスバルは、ふとあることに気付き首を傾げた。
「……ん? 待てよ、それでなんでお前のED問題に俺が呼ばれたんだ?」
明かされた衝撃の事実と、今ここに己がいることがてんで結びつかずうんうん唸るスバルを足元にして、かたちの良い鼻が小さく鳴る。
「この件について知っているのは、俺と貴様だけだ」
さも当然とばかりに告げられた衝撃の事実その二に、スバルは卒倒しそうになる意識をどうにか繋ぎ止め、目の前の賢帝改め馬鹿に噛み付いた。
「勝手に巻き込まないでくれる!? 帝国のゴタゴタはもう懲り懲りなんだけど!?」
帝国なんて大嫌い。約一年前のスバルの一時(いっとき)の口癖である。
突如として飛ばされた先の地の理解し難い国風を、一体何度呪ったことか。その回数はもはや数え切れない。
帝国にも好きな人たち、大事な人たち、守りたい人たちはたくさんいる。大切なものが、たくさんできた。そこにはもちろん、アベルだって。
それでもやっぱり、嫌いなものは嫌いだ。帝国に関わるなんて、絶対にロクなことにはならない。これは経験談だ。
帝国なんて大嫌い。忘れかけていた口癖が再び蘇らんとするスバルに向けられる笑みは、憎たらしいほどに美しかった。
「何を勝手なことを。あの日リンガの味を分け合ったのは他でもない、貴様自身だ。それとも何だ、あの日のリンガの味は偽りであったとでも?」
スバルの自室より広く豪華といえど、ここはあくまで執務室。アベルが腰掛ける椅子だって、機能性を重視した飾り気のないものだ。だというのに、椅子にふんぞり返りムカつくまでに美しく見事なドヤ顔を浮かべる姿には、上質な深紅の布地と眩しく輝く金色の緻密な飾りで作られた豪奢な椅子の幻覚が見える気がする。さらにいうとその背景は鍵のしまった密室でなく、広大なジャングルの幻覚のおまけ付きだ。
「くっ……! あのキャットファイトめっちゃ引きずってくんじゃん……!」
思わず殴りたくなる美しい顔に、けれどスバルはそれ以上は何も言い返せず、攻撃力の低い拳をなくなくおさめた。攻撃力が低いといっても、それはスバルの周囲の常識外の強さに向けた場合であって、アベルに対してはそれなりの威力を発揮するだろう。それでも拳を振り抜かなかったのは、あの日のリンガの味を嘘にはしたくなかったからだ。
おさめた拳で、そのまま頭をガリガリと掻く。
「……で? 俺に何しろってんだよ。言っとくけど俺の現代知識でも、さすがに薬なんてもんは無理だぜ? 天才高校生科学者でもあるまいし」
ED、つまり勃起障害と聞いて、まず最初に思い浮かぶ解決策はやはり薬による治療だ。
しかし有名な治療薬の名前を知ってはいても、薬の作り方なんてものはもってのほか。そのうえ他の治療法だって、スバルにはちっとも思い浮かばない。戦力外にもほどがある。
正直にベルステツに打ち明けていた方がまだマシだったのではないかと、目の前の賢帝の頭を疑いはじめた時だった。
「ん? ……あれ、つーかもしかしなくても俺って、お前のとんでもないスキャンダル握りすぎじゃねぇ?」
今日のスバルの頭はよく冴えていた。――もしくは、余計な勘とも。
本日二度目のスバルの気付きに、アベルはやはりムカつくドヤ顔で。
「秘密の一つも二つも変わらぬであろう」
「こいつ……! だから俺を」
こうして、王国の騎士ナツキ・スバルによるヴィンセント・ヴォラキア皇帝のED治療が幕を開けた。