ワンライ0220(猫) ファントムに裏切られ、大怪我を負った私は、国内のとある場所に潜伏していた。
広大な国土の半分ほどを森林が占める極北の国。深い森の中に佇む、一軒の瀟洒な邸宅。定期的な治療のために通わせる医者と、生活に必要な物資を金の力で届けさせる以外に、人間は誰も立ち入らない。暗い森の奥深くで、私は醜く穢された顔と向き合いながら、日々、ファントムへの情念を濁らせていた。
邸には先住者がいた。
一匹の猫だ。
この邸は私が建てたものではない。かつてヴィンウェイ国内で勢力を強めていたマフィアのドンが建設した私邸。滅多に人間が踏み入らない土地、森の木々に覆われて空からの視認も難しく、電波からも隔離された環境。人知れず愛人たちを囲うには最高の場所だっただろう。ドンの没後も、邸を相続した彼のファミリーが、闇オークションや後ろ暗い取引に利用していた。その元締めを潰し、ファミリーごと壊滅させたのが、数年前の私だ。
この邸の存在を知り、部下たちを連れて踏み込んだ時から、その猫はここにいた。
こんな後ろ暗い邸の中で誰が世話をしていたのか、艶やかな毛並みをした猫だった。
けれど私がこの邸の存在を思い出し、根城とするべく再度訪れた時には、主なき獣となった猫の美しかった長毛はくすみ、森のどこかで負ったのか顔に一筋の傷が刻まれていた。
猫と私は、同じ邸で生活をしているにも関わらず、互いの存在を認識こそすれ、一切の関わりを持たなかった。
私の生活圏内は、寝室のうちの一つ、キッチン、バスルーム。
猫の生活圏内は、邸の全て。
時折、姿を見かけることはあれど、食事や睡眠を共にすることはなかった。キッチンに備蓄していた食糧を奪われていることもあったが、それを咎めはしなかった。先住者への家賃のようなものだ。囓られた食糧は、すぐに生ゴミとして捨てた。足跡の残る床や家具は、徹底的に掃除した。不干渉なりに、先住者とはうまくやっていたと思う。
ファントムに裏切られた冬、深手を負った顔の治療をしているうちに過ぎた春、敵だらけの国内で人目を忍ぶために森へと逃げ込んだ夏。
そして時は過ぎ、この邸に潜伏して初めて迎えた春。
猫が、恐ろしいほど濁った声で鳴き出した。
あの猫が雌だということを、春の訪れにより初めて知った。
「ウォォォォーン……」
はしたなく雄猫を恋う声は、邸中に響いた。
ひとりぼっち。誰もいない、誰も来ない邸。森には様々な獣たちが棲んでいたが、猫はいなかった。
あんな声で鳴いたところで、誰にも届きやしない。それなのに、毎夜、毎夜、猫はけたたましく鳴いた。
――ああ、濁ってる……濁ってるわ……!
次第に母の声まで聞こえてくる。
雄を求めて鳴く声が、私の睡眠時間と思考力を奪っていく。
……私も、プライドなど捨てて、憐れに泣き叫んでいれば。縋り付いていれば。あの男は、銃を向けた相手へと振り向いただろうか。
わからない、何も。
夏の訪れを待たず、私は邸を後にした。
左の目元にアートメイクを施し、仮面の詐欺師として活動を始めるのは、まだ少し先の話だ。
あの猫はまだ、あの邸でひとり鳴いているのだろうか。
「……チェズレイ!!」
名前を呼ばれ振り向くと、背後に立ちはだかっていた敵が突然どさりと崩れ落ちた。
「は~、やれやれ。間一髪だったねえ」
どこからともなく現れたモクマが、チェズレイに襲い掛かろうとしていた敵を一撃でなぎ払ったのだ。
「ありがとうございます、モクマさん」
「どういたしまして。……ちゅうか、お前さんねえ、危ない時はちゃんと呼びなさいよ」
「これしきであれば一人で対処できると踏んでいましたので」
「お前さんも十分強いのはわかってるけどもさあ、ふたりの方が楽っちゅうこともあるでしょ」
「ちなみに、あなたにお任せしていた退路の確保はどうなりました?」
「あっちはもうきれいさっぱり片付いてるよ」
「そうですか。こちらの用事もこれで完了です。さっさと退散いたしましょう」
室内にいた見張りたちをモクマの活躍で全て倒し、隠し金庫から書類を抜き取る。標的と定めた裏組織、その闇帳簿。これを明るみに出せば、バックについている親組織ごと一網打尽にできる。
首尾良く事を成し遂げ、チェズレイとモクマは敵のアジトを後にした。
暗い夜道に紛れるように、この国での拠点であるセーフハウスへの帰路に着く。
真っ暗な空には、大きな満月が浮かんでいた。時刻は丑三つ時。草木も街の住民たちも眠りにつき、あたりは静まり返っている。
「ウォォォォーン……」
深夜の住宅街に、突然、獣の鳴き声が響いた。
「……!」
「あー、そんな季節か。春だねえ」
のんきにつぶやくモクマの視線の先には、一匹の白猫がいた。
雄を恋い、発情して鳴き続ける雌猫。
脳裏に蘇ったのは、森の邸で過ごした日々。
……あの猫とは違う。あの猫が、こんなところにいるはずがない。彼女はあの邸に囚われ、あの邸で朽ちていく存在だ。まるで濁りを拗らせ命を絶った母のように。
「そういや、お前さんの故郷ってえらく寒いんでしょ。野良猫とかっていたの?」
「……ええ、おりましたよ。暖かい場所を選んで、したたかに生きていました。室内で過ごす時間が長い国ですので、自宅で飼っている人間も多かったですね」
「そうなんだ。お前さんは?」
「生き物を飼った経験はありません。獣は好きではありませんので」
「あー、そうだった。俺もないんだよねえ。あんまり好かれたことないし」
「獣にはあなたが下衆だとわかるのでは?」
「たは~、手厳しいねえ」
気を紛らわすかのような、彼との他愛もない会話が心地良かった。
さっさと帰りましょう。そう切り出そうとした時だった。
「ウォォォォーン……」
雌猫に応えるかのような、もう一匹の鳴き声。
「おや、お相手さんが見つかったみたいだ」
白猫の元に、一匹の猫が姿を現した。野良らしく薄汚れた、目つきの悪い雄猫。
「恋の季節だねえ」
雌猫は彼の求愛を受けるつもりなのか、ゆっくりと歩み寄っていく。
気づけば、春だ。モクマと出会い、同道を誓ってから、二度目の春。
「さ、これ以上は野暮天だ。さっさと帰ろうや」
モクマが歩き出す。チェズレイはその背を追おうとして、また立ち止まった。漆黒の忍びの装束が、闇夜に紛れようとしている。
……みっともなく鳴けば、あの人は。
振り向いて、くれるのだろうか。
「……モクマさん!」
「うん?」
夜中に突然大声を出したチェズレイに、振り返ったモクマは目を丸くしていた。
「暗くて……よく、見えないのです。帰るまで、手を引いていただけませんか?」
黒い皮手袋を嵌めたままの手を差し出す。
今宵は満月。月は闇夜にありて、人と猫と地上とを煌々と照らしていた。チェズレイの歪んだ視力でも、モクマの驚いた表情がはっきりとわかるほどに。
「……いいけどもさあ」
月を背にしたモクマが、チェズレイの元へと戻ってくる。そして徐に、細身の体を両腕で抱き上げた。
「……!?」
「この方が早いな。近道して帰ろうや」
そう言うなり、モクマはそばの建物の屋根の上に鎖鎌を引っかけ、チェズレイを抱いたまま屋上へと飛び上がった。
「モクマさん、ちょっと……!」
「お前さん軽いねえ。帰ったらおじさんと夜食にしようか。運動したら腹減っちまってさあ」
有無を言う隙も与えず、モクマはまっすぐにふたりの棲家へ向かってひた走る。
重たく濁った想いも、報われることがある。
求めて縋れば、届く人がいる。
「ねェ、モクマさん……」
このまま寝室まで運んでいただいて、夜食ではなく私を召し上がりませんか。
そうねだれば、あなたはどんな顔をするのでしょうか。