エメラルドグリーンの泡沫に、キスを。2「…………シンジ君、ここは?」
「喫茶店。コーヒーとか色々な食事が楽しめる場所だよ。空いてれば勉強もできる」
「キッサテン…………」
それから数日後の放課後。シンジはカヲルを連れて街中に建つ馴染みの喫茶店へと足を運んだ。
今までは食べるのが苦痛みたいだったからこういうところに渚と2人で来るのは敢えて避けてたんだよな。今日は渚も今までとは心持ち少し違うみたいだし、何かいいきっかけが作れるかもしれない…………
木造建築で寂れた店のドアを開けばカランカランと上部に取り付けられた小さな鐘が鳴り、コーヒーの香ばしい香りが鼻腔を擽る。平日の夕方ということもあってか、買い物帰りの親子やお年寄りが数名談笑する姿、女子高生がケーキを味わっている姿があるくらいで空席のほうが多かった。
「この曲、聴いたことある」
間接照明で照らされた店内は薄暗く、年季の入ったレコードから流れるFly me to the moonは陽気なテンポを刻む。店内の様子を見渡し話すカヲルに相槌を打ちながら、シンジは先導して席へと座った。天使の姿をあしらったステンドグラスの小窓がある席だ。
「綺麗だろ。ここ、僕のお気に入りの席なんだ」
「…………うん、綺麗。天使かぁ」
赤や橙のガラスで彩られた夕焼け色の空の下に大きな翼を広げた天使が降り立った絵柄の小窓を見れば、まだ出会ったばかりの頃に2人で過ごした湖の畔でのことを思い出す。先の戦闘でレイがシンジを庇って重症を負い、カヲルとは大きく気持ちが擦れ違ってしまっていた少し前のことだ。シンジは以前からこの喫茶店に通ってはいたが、カヲルが天使の名を持つ使徒であることを知った時以来、このステンドグラスを見るとカヲルを連想するようになっていた。少し寂しそうにも見える天使の表情が、カヲルがかつて自分のことをどう思っているのかと答えを懇願してきた時の表情ーーーー初めて触れた人間の感情の機微に翻弄されていたであろう表情を彷彿とさせるのだ。
「渚、今日は僕が奢ってやるから何か好きなの食べなよ。…………ほら、この前言ったろ。食事は楽しいもんだよって。だから今日ここに君を連れてきたんだ」
「ああ、なるほどね。……でも、僕今日もお腹空いてないからなあ。どうしようかな」
カヲルは、うーんと唸りながら考え込んでしまう。シンジがメニューを差し出すのにも構わず悩み続けてふと顔を上げると、カヲルはあるものに目を奪われ、シンジの背中の向こう側に見える光景を凝視した。不可思議なものを見つけ好奇心に輝くその大きく紅い双眸に、シンジはどきりとする。カヲルが興味を示したものはその視線の先にあるようだ。
「シンジ君、僕あれがいい」
「あれ……?」
カヲルが指差す先を振り返ると、そこにいたのは仲睦まじげな母子だった。子供の手元にはメロンクリームソーダが1杯。バニラアイスの上にはホイップクリームとさくらんぼがちょこんと乗っている、喫茶店ではお馴染みのメニューだ。シンジはカヲルが初めて強く興味を示したものがメロンクリームソーダであることに目を丸くする。使徒であるカヲルは、無難にコーヒーなどのあまり味覚に強くはたらき掛けずに腹にも溜まりにくい類のものを好むのではないかと勝手に想像していたからだ。
「メロンクリームソーダ? あれがいいの?」
「うん。メロンクリームソーダって言うんだ。僕あれ初めて見た。色も独特だし、上の赤いのも気になるし、あれ飲んでみたいかな」
「じゃあ、僕も同じのを頼むよ」
注文をし、再び母子が仲良くメロンクリームソーダを飲んでいる光景を目にすれば、シンジは自分にはあんなに楽しかった子供時代などなかったのだと改めて思い知らされる。母は幼い頃に亡くなり、父は仕事に明け暮れて自分を捨てて行った。親戚の家でもずっと疎外感を感じていた。肉親に外食に連れて行ってもらった記憶もない。1人で食事を摂ることは今よりも断然多く、ネルフへ来た時も自分1人だけでの生活を望んだ。1人でいることが当たり前のように思っていたのだ。だが、最近は少しずつその考え方も変わってきたような気がしていた。誰かと過ごすのも、食事を囲むのも悪いものではないと。環境のせいだろうか。
「メロンクリームソーダ2つ、お待たせしました」
「………あっ、ありがとうございます!」
物思いに耽っていると、ウエイトレスが目の前に丁寧な所作でグラスを置くのが視界に入って、シンジはびくりと肩を震わせて我に帰る。カヲルはと言えばその紅い瞳を輝かせ、エメラルドグリーンをしたメロンソーダを見つめていた。中に詰められた氷と、そこに集まりキラキラと煌めきながら上へと立ち昇っていく気泡。甘い香りの漂うバニラアイスに、ふわふわのホイップクリームの上に鎮座する真っ赤なさくらんぼ。その何もかもがカヲルには初めて目にするもので、幼い子どものようにわあっと大きく口を開けて笑みを浮かべながら眺めている。早く食べないとアイス溶けるぞ、なんて言ってもきっと耳にも入らないんだろうなとシンジは思うが、あどけないカヲルの表情に自身の心臓が早鐘を打つのがいやに大きく聞こえてくるのに気付けば、ほんのりと頬を赤らめてしまった。
渚の奴、子供みたいで可愛いな…………初めて見るジュース1杯でこんな顔するんだ。食事に関することではしゃぐ渚を見るのなんて、これが初めてかもしれない。なかなかレアなものを見たんじゃないか……?
「僕、本物の宝石とかも見たことないけど、実際に見たらこんな感じなのかな。この飲み物は不思議な緑色だし、中の泡がキラキラ動いて綺麗だね。上の赤いのは、コアみたい」
「渚、もしかして炭酸飲むの初めて?」
「タンサン? うん、初めてだけど」
「初めてか。じゃあ、びっくりして吐くなよ」
「えぇ、何それ……?」
意味がよく分からずにきょとんと首を傾げるカヲルがいじらしく、シンジは渚が初めて炭酸を飲んだらどんな反応するんだろ……と少し楽しみになってしまう。
「その紙袋に入ってるストローを刺して中のソーダを飲んで、上にあるアイスとかはそこのスプーンで食べるんだよ。アイスとソーダは沢山混ざるとグラスから溢れるから、先に少しだけソーダを飲むんだ」
「なるほど」
そもそもメロンクリームソーダを飲むのが初めてなら……と気を利かせたシンジは、自分の手元に置いてあるグラスにストローを刺して実際に飲んだ後、バニラアイスをスプーンで掬って一口食べて見せた。カヲルはすぐに見様見真似でストローを取り出し、ソーダを勢いよく吸い上げる。すると忽ち腔内に爽やかな甘味と激しく弾ける炭酸が流れ込んできた。
「ッッッッ!!?」
味よりもその炭酸の刺激に驚いて目を見開くカヲルにシンジは思わず吹き出してしまった。ふわふわと跳ねる癖毛が全て垂直に逆立つのではないかという衝撃に見舞われ、カヲルの両手は宙で無尽蔵に藻掻いた。口に含んだソーダをおっかなびっくり少しだけ飲み込むと、ビリビリとした電撃が体内の奥深くにまで迸っていくようだ。未知の感覚に、カヲルはらしくもなく恐怖に慄いてしまう。
「んッ……ん!! ん〜〜〜〜!!」
「渚、落ち着いて。ちゃんと飲み込んでから喋りなよ。炭酸なら、アイス食べれば落ち着くよ」
助言するシンジに従って腔内のソーダをごくりと飲み込むと、また喉を内側からバチバチと刺すような刺激的な感覚が迸る。カヲルは声を抑えるのを我慢できずに、う゛〜〜と呻きながら少し乱暴にアイスを掬って口へ放り込んだ。今度は冷たく舌触りが滑らかなアイスが、腔内で甘味とバニラの香りを振り撒いていく。カヲルは馴れない刺激に警戒しながらまた少しソーダを口に含むと、すぐにアイスを掻き込む。今度は爽やかなソーダにバニラアイスの甘い香りと滑らかな食感が混ざって、あのバチバチとした激しい刺激は緩和されたようだ。何度かアイスを食べてソーダを飲んでを繰り返し、少し間を開けて気を落ち着けてからその味に集中してみる。すると、カヲルはこの初めて飲んだメロンクリームソーダに対して徐々に『美味しい』という前向きな感想を抱いていた。
「………………口の中がビリビリして凄くびっくりしたけど、これ美味しいね」
「そうか、美味しい……か」
カヲルの口から出た『美味しい』という言葉を受け止めると、シンジは目を丸くし、それを反芻するように頭の中で繰り返した。
「……僕、食べることに対して『不味い』とか『もう入らない』って考えたことは何回もあるけど、『美味しい』って思って言葉にしたのは今日が初めてかもしれない。『美味しい』ってこんな感じなんだね」
紅い瞳をきらきらと輝かせてシンジを真っ直ぐに見つめるカヲルは幸せそうな笑みを浮かべている。もし彼の尻に犬のような尻尾が生えていたとしたら、まさに今それを千切れんばかりに振っていることだろう。その活気に満ち溢れた表情はシンジにはあまりにも眩しく見えて、あれほど食事に興味がなかった渚が『美味しい』ってこんな顔して言うなんて…………と思わず呆気に取られてぽかんとしてしまう。ぽかんとしつつも、心臓は相変わらず煩いほどに高鳴っていた。そして、シンジもだんだん嬉しくなってきて自然と笑みが溢れる。
「…………良かった」
普段は自分に対してつんけんとした態度ばかり見せるシンジがその口角を弛ませて笑うのが目に止まれば、カヲルも少し驚いて鼓動が速まるのを感じる。真白な頬はほんのりと薄桃色に染まり、その大きな紅い瞳はシンジの控え目な笑顔をまじまじと見つめてしまう。
「シンジ君が笑うなんて珍しいね。やっぱり僕がみんなと同じように何か食べたほうが君は幸せ?」
「うーん。それはちょっと違うかも…………渚が食べることで幸せそうにしているのを見るのが僕は幸せかな……? 『美味しい』とか『誰かと一緒に食べてると楽しい』とか、プラスの感情…………幸せの種みたいなものが1日に3回も感じることができるチャンス……だと思うから。食事って……」
真面目に口に出して伝えようとすると途中でだんだん恥ずかしくなってきて、シンジはカヲルの紅い瞳から視線を逸してしまう。ストローの曲がった部分を指で摘んで転がして何とかやり過ごすと、カヲルはシンジの顔の向く方へと身体を傾かせて覗き込むような仕草をしながらまた尋ねてくる。
「へぇ。…………シンジ君は今、僕と食事できて嬉しい? 幸せ?」
「うん。幸せだよ」
食い入るように見つめてくる大きな双眸に、シンジは照れ隠しの少し掠れた低い声で答える。それを聞くとカヲルの双眸は2度ほど瞬きをした後、蕩けるようにふにゃりと細められた。真白な肌には薄っすらと赤みが差して可愛らしく、それを見たシンジは何だか頬が熱くなって沸騰してしまいそうで堪らなくなった。
「そっかぁ。…………僕も幸せ、かも。『美味しい』が何なのか分かって、それを君と共有できて嬉しい」
「……そうだよ、僕達はそういう気持ちを食事からも感じ取って生きてるんだ。栄養とか健康を保つのにも大切だけど、渚には多分……僕やみんなと心の繋がりを持ったり大切にしたり、自分自身と向き合ったりするためにも必要なことなんだと思う」
シンジは喉を潤すべく、溶け始めたバニラアイスを掬って口に放った。アイスと混ざったメロンソーダは、火照った身体をひんやりと冷やしてくれるようだ。しかし、カヲルの嬉しそうな様子を見ながら味わうとそれもやけに甘怠く感じられる。
「シンジ君が僕のこと沢山考えてくれてたの、凄く嬉しいよ」
カヲルは、あはっと大きく口を開いて笑う。そして視線を下へと落とすと、溶けかけのバニラアイスの上に乗っているさくらんぼのヘタを摘んだ。その尻にはホイップクリームが付いていて、カヲルはそれをちろりと舌を出して舐め取る。その舌に絡め取られた果実と細やかな銀糸に縁取られた紅い双眸はよく似ていて瑞々しい。伏し目がちな表情にも見えるカヲルが何だか酷く艶っぽく感じられて、シンジの視線はぼんやりと熱を帯びてしまう。つい数秒前まで小さな子供のように表情を綻ばせていたカヲルだが、今この瞬間は危うい色気を纏っていた。
ああ、ここが喫茶店じゃなくて2人きりだったなら…………今すぐキスしてた、だろうな
シンジの生ぬるい視線はさくらんぼを啄むぷるりとした唇から、やけに白い首筋へと伝う。オレンジ色のインナーシャツはカヲルが普段から襟を引っ張って汗を拭いたり扇いだりするせいで撚れて胸元が見えてしまいそうだ。シャツから無防備に覗く鎖骨と胸元の陰のその奥をついつい見つめてしまうと、カヲルが突然身体をびくりとさせた。
「う゛…………なんか硬いの噛んで飲んじゃった……」
「ああ……種か。言えば良かったね」
噛みごたえに相当違和感を覚えたのか、ただでさえ真白な肌を更に蒼白とさせているカヲルにシンジは1つ溜め息を吐く。手元にあった自分の分のバニラアイスは溶けて崩れかけ、さくらんぼも不安定に傾いていた。シンジはそれを目にすると、少し考えてからその真っ赤な可愛らしい果実のヘタを摘んでカヲルに差し出してやる。
「僕のあげる。今度はちゃんと種出すんだぞ」
「え、いいの!?」
「今日は特別」
「ありがとう、シンジ君!!」
やれやれと気取って見せるものの、その心の内は果実を啄むカヲルを邪な目で見てしまったお詫びの気持ちと、またたく間にむくむくと膨らんだ思春期のイケナイ好奇心とが半々だった。