小さな幸せそよそよ、ふわふわと穏やかな風が頬を撫でて通り過ぎていく。同時に鼻をくすぐる柔らかくて甘い香り。春らしく霞がかった青空からはチチチ、と雲雀の鳴く声が響き渡っている。
そんな中を清麿が歩いて向かう先は、この本丸の春の風物詩とも言える一面に広がる黄色い海、菜の花畑だ。景趣とはまた違う、審神者が趣味で植えたというこの菜の花たちは清麿が本丸に配属された時から既に見事な景色を見せてくれていた。そしてそれは今年も変わらず、辿り着いたそこは暖かな春の訪れを知らせてくれている。
「うん…今年も綺麗に咲いてくれて良かった。君たちの景色は勿論だけれど、匂いも僕はとても好きなんだよ」
優しい気持ちになれるからね、と清麿が告げれば菜の花たちはまるで応えるかのように風に揺れて甘い匂いを届けてくれる。
「ん、いい匂いだ。ところで僕の可愛い親友を隠してしまっていないかい?ここに来ていると思うのだけれど」
そう言って清麿はきょろ、と一面の花畑を見渡す。けれどそこに探している親友の姿はなく、そよ風に揺れる花々と、その匂いに釣られてやってきた蝶々達が舞うだけだ。
ちょうど一刻程前だろうか。水心子と共に昼餉を食べ終わり、さて久しぶりの非番、午後は何をして過ごそうかと清麿が思案していた時に『菜の花畑に行ってくる』と、水心子から申し出があった。
行っておいで、と快く見送り自分は自室で積み上げられた本を読んでしまおうと読書に没頭していれば、歌仙が八つ時だからとおやつを持ってきてくれるまで時間の経過をすっかり忘れてしまっていた。それと同時に、この長い時間水心子が帰ってきていないことにも気付く。
水心子は菜の花畑を特に気に入っていて春になればよく足を運んでいる。あの空間でのんびりするのが好きだと言う水心子が長時間滞在するのは別段珍しいことではないのだが、歌仙が作ったお菓子。しかも水心子が特に好んでいる練り切りがあるとなれば早めに呼び戻すのが良案だろうと、清麿は菜の花畑に足を運び今に至る。
そう、今に至るのだがその肝心の水心子の姿が見当たらない。
「水心子、いるかい?」
普段あまり大きい声は出さない清麿も、いつもより少し大きめの声で呼び掛けてみる。しかし返事はなく、聞こえてくるのは変わらず風のそよぐ音と鳥の囀りだけだ。
「水心子ー!」
今度はもう少しだけ大きく。けれど返ってくる声は無い。こういう時、本丸中に響き渡る長谷部の怒号や大包平ほどの声量があったら便利なんだろうな、と何となく思ってしまう自分に少しだけ笑ってしまう。
さて、どうしたものかと清麿がもう一度辺りを見渡せば花々の合間合間に小路があり、花畑の中を散歩出来るようになっていることに気が付く。これも花が好きな審神者の配慮なのかもしれない。
水心子はこの小路の先にいるのだろうか。とにかく、ここに居ても埒が明かないと清麿が花畑の奥へと続く小路に足を踏み入れた時だった。
「わっ!」
「うわっ…!」
突然小路の合間から、ばっ、と両手を上げて何者かが飛び出してくる。完全に気を抜いて油断していた清麿は思わず一歩飛び退いて、どくどくと速まる心拍数を落ち着かせるように手で胸元を押さえながら飛び出してきた相手に目を向ける。
「ふふ、大成功だな」
見れば、そこにあったのは悪戯な笑みでくふくふと笑う水心子の姿。その様子はまるで無邪気な幼子のようで、清麿は思わず大きなため息を吐いてしまう。
「はぁ~…もう、水心子…そういうのはナシだって」
「こんなに近くにいたのに気配に気付かない清麿が悪い」
「えぇ、僕のせいなの?」
とんでもなく理不尽な言われようで思わず苦笑してしまうが、結局そういうところも愛おしいと感じてしまう自分は相当水心子に甘いのだろうなと清麿は自負しつつ未だ速まっている鼓動を落ち着かせようと、ふぅ、と息を吐く。
「ほんと、びっくりして折れちゃうかと思ったよ」
そう言って水心子をぐいと抱き寄せれば仕返しにもならないが、こつんと額同士を合わせる。そうすると水心子も挟まれて乱れる前髪を気にすることなく額をぐりぐりと押し付けてくる。
「たまには私だって清麿に悪戯したくなることもあるからな」
「もう。悪い子」
ふふん、と満足気に笑うその唇にキスを落とし、下唇をそっと食む。そして小鳥のように啄むような口付けを何度も繰り返して顔を離せば花が綻んだような笑みで幸せそうに笑う水心子と目が合う。先程まで悪戯に笑う姿を見せていたというのに、と清麿は目を細める。
「水心子、幸せそう」
「清麿が一緒だからな。清麿は幸せじゃないのか?」
「まさか。幸せすぎるくらい幸せだよ、水心子が一緒だからね」
そう返せば水心子は良かった、と甘えるように頬を寄せてくる。その姿がどうにも愛おしくて抱きしめる力を強めれば水心子は苦しい、と言いながらも嫌がる素振りはせず大人しく身を委ねる。
「じゃあ、幸せな水心子にもうひとつ幸せのお裾分け。なんと今日のおやつは歌仙が作った練り切りだよ」
「えっ、本当!?」
「うん、だから水心子を呼びに来たんだ。この前万屋で買ったお茶と一緒に頂こうよ」
抱きしめた体を離し手を差し出せば水心子は素直に手を取り握り返してくる。
楽しみだな、と笑う水心子はまるで周りに咲く菜の花ように愛らしく、けれどどの花よりも明るく咲き誇っていて。思わず見蕩れてしまえば水心子からは「見すぎだ」と怒られてしまった。
本丸への帰路、穏やかな風と雲雀の囀り。そして柔らかな匂いに包まれながら二振りは手を繋いで歩く。おやつも早く食べたいけれど、今のこの幸せな時間が少しでも長く続けばいいと、そっと心で願いながら。
「ねぇ、水心子。菜の花の花言葉って知ってるかい?」
「え?うーん、花言葉まではちょっと分からないな」
「僕もさっき本で読んだのだけれどね。菜の花の花言葉はね……」