好きだの嫌いだの、愛だの恋だの。
そんな甘酸っぱい感情も経験も、全てすっ飛ばして生きてきた僕にとって、それはまさに青天の霹靂だった。
あからさまな感情の揺らぎが透けて見えるその態度に、あぁ、この子は僕のことが好きなのかと、どこか遠いところでぼうっと実感する。
だから、そのまま近づいた距離も、触れた熱も、溢れ出た言葉も。全部が無意識で、偶然の産物であった。きっと別の日だったら、別の時間帯だったら、こんな結果にはなっていなかったと思う。
それでも確かに、その日の僕たちは熱を交わしたし、あれは俗に言う『愛だの恋だの』に含まれる行為であったはずなのだ。
だというのに、そうして続けられたはずの関係はひと月と経たずに終わりを告げられることとなる。
『俺と先生は、そういうのじゃないでしょ』
なんだよ、そういうのって。わけがわからない。きちんと説明しろと詰め寄ったところで、求める回答なんて何一つ返されることはない。
そうして偶然のように始まったはずの僕たちの関係は、恵からの一方的な遮断によって断ち切られ、またいつもの日常に戻されていくのであった。
「まぁーじで分かんないんだけどさぁ。ねぇ、そもそもこれって付き合ってたに入ると思う?」
「私に聞くなよ。回答がしづらい」
「じゃあ誰に聞けっていうのさ」
「本人」
「はい、アウト」
あれからまたまた時は流れ、涼しかった風も大量の湿気を帯びる季節となっていた。
偶然ポッとできた空き時間、なんとなしに訪ねた硝子の根城で吐き出した話題は、誰にも告げぬまま温め続けてきたホットなものであった。そう、誰にも話さないできたのだ。あの時のやりとりも、何もかも全部。だというのに、それを破って口にしてしまうほどには、今の僕の精神状態はあまりよろしい状態ではないということである。
まるで白昼夢でも見ていたかのように、僕と恵の関係は今まで通りに戻っていた。いや、そもそもあのひと月足らずが違う関係だったのかすら、今となっては疑わしい。ただ、あの時見た彼の瞳は間違いなく情愛を訴えていたし、僕もまたそれに応えるつもりで手を伸ばした。はずだ。
まぁ、その出来事を越えて何かが大きく変わったということは特になかった。ただ時折、戯れみたいに熱を分けて、視線の奥にあの日見た色を認めて。けれど今、どれだけ恵のことを見つめてみたって、あの時に浮かんでいた情も、恋慕も、その澄んだ瞳の中、どこにも見つかることはなかった。
「『そういうのじゃない』ってさ、どういう意味だと思う」
「そのままだろ。やっぱ違ったから別れましょうってことじゃないのか」
「てことはやっぱ、恵の中では付き合ってたことになってるよね?」
「だから私は知らないって」
「でもさぁ、あんだけ好き! って態度が見えてたのに、それすらなくなるっておかしくない? ……え、もしかして飽きた?」
「せめて吹っ切れたと言ってやりなよ」
「うわぁ……若いって怖い……」
椅子に座りながらぐいぃ、と背を伸ばし、そのまま上半身を横へと倒す。ズレたアイマスクの隙間から覗きみえる世界は、様々な色と気に溢れていて眩暈を起こしそうになる。それでも、記憶の中、思い浮かべる翡翠の色は思い出す度に鮮やかで。
あぁ、またあの色が見たいなぁ、なんて。
まだ半年も経っていないはずの過去に想いを馳せながら、僕はそのまま目を閉じて意識を飛ばした。
「え、今日の任務五条先生とだったんですか」
「なによ、僕とじゃ不満?」
「不満というか、そんな暇あるんですか。やることなんて山ほどあるでしょ」
「そうよー、忙しいのよ僕。だから今日はありがたぁーく教えを乞うんだよ」
「いや、任務形式で教えも何も──っおわ!」
「はい、到着〜」
「最後まで会話しろよ……」
結局あの後、惰眠を貪るはずだった僕の体は部屋の主によって廊下へと転がされてしまったため、感情の整理もできないまま悶々としたものを抱え続けることとなった。一度寝ればリセットされるはずだったのだ、これは全面的に硝子が悪い。そう思ったところで、再び眠気を引き寄せるなんてことはできやしない。結果、未練たらたらに手持ちの任務を捲りながら、それならいっそと無理矢理に恵をねじ込み合同任務にしてしまったというわけだ。
別にあれ以来、二人きりになることがなかったわけではない。とはいえ、高専から離れた場所で、夜で、周りに誰もいない、そんな環境下での二人きりは、どうしたってあの一ヶ月間を想像してしまうだろう。勢いに任せた今だからこそ作ることのできた時間は、けれど恵本人には一切響かなかったようで、はぁとため息を吐きながら仁王立ちされてしまう。ここまで清々しいと、やはりあの時見た恵は幻だったのではないかと本気で思ってしまいそうだ。
月明かりの綺麗な、夜の海であった。
僕たちは波止場の先端に立って、照らされている水平線と向かい合っている。雲が多く流れる空の中、時折零れる月明かりが一筋、水面に光の橋をかけては消えていくのを繰り返していた。人はこの光をムーンロードと呼び、そしてこの道を渡るべく海へと降り、そして沈んでいった。そんな思いの塊が、先日起こった恋人同士の心中によって膨れ上がったのだという。
なんとも皮肉なことだ。見るだけで綺麗だと心を動かされるような光景は、言い換えれば人の感情がたまりやすい場所でもある。少しずつ積み重なっていったそれらは、石が一つ投げ込まれるだけで大きな波紋を作り出してしまうのだ。
「……呪いの発生条件は雲ですか」
「お、正解。そ、ここのトリガーは水面への衝撃とムーンロードの二つが重なった時。まぁ、今流れてる雲が過ぎればしばらく月が隠れることもなさそうだし、一気に叩けるでしょ」
「わかりました」
それだけ言うと恵は再び口を閉じ、ただじっと隠れている月を見上げ続けた。何にも照らされることのないその横顔は、アイマスクを外したら夜に紛れてほとんど見えなくなってしまうのだろう。それでもやはり、あの色を見られない今の視界は惜しいと思えた。
「ねぇ、恵」
「なんですか」
「僕たちってさ、付き合ってたの」
ふとこぼれ落ちた問いかけの言葉。予想外だったのだろう、こちらを振り向いた恵はきょとんとした様子で目を丸くした後、すぐにその顔を歪めて前へと視線を戻してしまう。
「さぁ、どうでしょうね」
「えー」
「生憎と、俺はそういった経験が少ないもので。五条先生の方がわかるでしょ。どうだったんです?」
「分からないから聞いてるんじゃん」
「じゃあ、好きな方にしたらいいんじゃないですか」
そこまで言い、話は終わったと言わんばかりに恵は両目をすっと閉じた。その態度がやけに面白くなくて、僕はその横顔を少しの間眺めた後、腰を屈めて距離を詰める。すぐ間近まで顔を寄せたところで開かれた瞳の色は、やはりこの状態だと窺うことができない。
「いや、何ですか」
「じゃあ、僕たちは付き合ってなかったことにしよう」
「はぁ。わかりました」
「だから、これからもちゅーしていいでしょ?」
「いいわけないでしょうが」
「なんで」
「言ったでしょ。先生とはそういうのじゃないって」
「何よ、そういうのって」
「だって、先生は俺を好きじゃないから」
きっぱりと言われた言葉に、僕は一瞬頭が真っ白になるのを感じた。予想もしていなかったその一言に固まる僕をよそに、恵はなんともないといった顔のまま一歩、二歩と後ろに下がる。詰めた距離は再び開けられて、耳の奥へと静かな波の音が届き、聞こえた。
好きだの嫌いだの、愛だの恋だの。
そんな甘酸っぱい感情も経験も、全てすっ飛ばして生きてきた。
だから、そう。この子から向けられる感情はひどく新鮮で、それでいてどこか他所ごとのように受け止める自分がいた。そうできる僕を、この子は受け止められないのだという。
「……あー、そっかぁ」
「え、気づいてなかったんですか」
「それを求められているというところがね」
「……うわぁ」
「あ、今『大人って汚い』って思ったでしょ」
「自覚があるなら何よりです」
「若いなぁ」
「事実ですね」
そう言ってまたはぁ、とため息を吐く恵の表情にようやく柔らかさが戻ってくる。仕方がないようにと小さく笑う顔を正面で見つめると、何故だか喉の奥がぐぅ、と詰まるような感覚に陥った。
「あ、ほら。もうすぐ雲が切れますよ」
言いながら視線をあげる恵の表情が、少しずつ月明かりによって照らされていく。僕は自然とアイマスクを首元へと落としたが、彼はそれをこの後の準備として受け取ったらしく無反応であった。ごめん、この後のことなんて何も考えちゃいない。僕はただ、今から見えるであろうその色を見逃さないためにと、邪魔なフィルターを取っ払っただけだ。
だから僕は月に背を向けたまま、その問いかけを恵へと投げつける。
「じゃあさ、恵」
「なんですか」
「今でも、僕のことが好き?」
「さぁ」
雲が流れ、隠れていた月の全貌が空に現れる。伸びる光は波の上を走り、道を作り、僕らの足元を照らした。その先にある恵の瞳は、僕の視界の中でキラキラと、その鮮やかな色を映し出していく。
「どうでしょうね」
言いながら微笑む恵は、地面に転がっていた石を持ち上げると、海へと向かって勢いよく放り投げた。