ウスバカゲロウの恋「待て!おい!」
そう叫びながら類のドローンを追いかけているのは、見知らぬ少年だった。痩せっぽっちのその少年はドローンに引っかかった薄手の布を空飛ぶ機械から取り戻そうとしているのに、少しばかり身長が足りなくて届かないようだ。
「おい!返せ!」
ドローンに言っても仕方ないのになぁ、と操縦している類が少し離れたところから呑気に見ていたら、少年の足がもつれて派手に転んでしまっていた。
「!?」
流石にそんなことになるなんて思って無かったから慌てて駆け寄る。ケガをさせるなんて本意ではないから。
「すまないね。大丈夫かい?」
巻き付いた布を丁寧に取り払い、ほつれなどがないか軽くチェックした後畳んで差し出した。それは酷く薄くて柔らかい、手触りの良い布だった。白味がかった光沢が七色に光って虹のようだ。とても高価そうな布で、この目の前の少年が持っているには不釣り合いに見えた。
「ああ、ありがとう。」
ホッとした様子で差し出された手に、類はその布を渡さなかった。
「おい!」
「これ、本当にキミの?」
類の問いの意味を正しく受け取った少年は、その白い肌を怒りで真っ赤に染め上げて抗議した。
「どういう意味だ!」
「いや……。」
流石に盗んだのだろうと直接的に言うことは憚られた。
「それは大事なものなんだ。間違いな「ぐくぅ」っ。」
腹が鳴った。わりと喧騒でざわめいている屋外であるのに、類に聞こえる程はっきりとした音だった。
「ふふっ。ふふふ。」
あんなに怒って顔を赤くしていたのに、今度は周知で顔を赤らめている。そんな急速な変化が可笑しくて、類はつい声を上げて笑ってしまった。
「笑うな!」
そうやって又怒るから、尚更可笑しくなって涙まで滲んでくる。
「ふふ。ごめん。ごめんね。悪かったよ。」
まだ言葉の端っこが笑いに震えているせいで少年は不機嫌そうに頬を膨らませた。
「お詫びに何か食事でもおごるよ。」
そう提案すると、ぱぁ、とわかりやすく顔が輝く。よく見ると、少年は綺麗な顔立ちをしていた。
「おいで」
手を差し出して、とりあえずは立たせようと思ったのに、彼は眉尻を下げて自力で立ち上がった。
「タダでもらうのは良くないことだからな。」
「え?」
あんなにキラキラした期待に満ちた顔をしていたくせに。断られるなんて思わなくて類は目をぱちくりさせた。
「気にしてくれてありがとう。それで、その布は本当に大事なものなんだ。返してくれないか。」
心底困ったように頼まれているのだから
わかったよ、と言って返せばいいだけなのに、類はその布をぎゅうと握りしめてしまう。
「……。これ、返してあげるからごはん付き合ってくれないかい。」
何でこんなに必死になっているのか。もう目的がおかしくなっているのに、言葉が止まらない。少年に訝しげな顔をされても、まだ重ねてしまう。
「あと、それじゃあ、えっと。これ、これを持ってきて。それでご飯奢るから。……ダメ?」
さっきまで布を絡ませていたドローンを差し出す。結構な重量があるけれど、持って帰れないわけじゃない。でもどうしてももう少し一緒にいたくて、嬉しそうにご飯を食べる顔が見てみたくて、カッコ悪いくらいに類は必死になっていた。
「……。わかった。じゃあ。」
必死な類に絆されてくれたのか、少年はちょっと困った顔をしてドローンを受け取ることにしたようだ。両手を差し出してきた。
今度は類の顔が嬉しそうに輝いた。
誰にでもなく言い訳をすると、本当にご飯を奢るだけのつもりだった。
でも、ご飯を一緒に食べていたら、あんまり洗濯されて無さそうな首周りが伸びたTシャツとか、ちょっとペタっとして艶を失ってる髪の毛とかが気になってしまって、
「今日、帰るところある?」
と聞いてしまっていた。
躊躇うように目線を左右に動かしただけで明言はしなかったけれど、類にはそれで充分だった。
「うち、近いからおいで。お風呂もあるし、ゆっくり眠れるよ。」
お節介なのは重々承知だけれども、普段だったら自分のテリトリーに他人を入れることなんてしないのに、それでも、そんな『普段』を取っ払って誘った。その時は本当に親切心だったのだ。なんだか可哀想な感じのこの子に良くしてあげたいという、暖かい感情だった。
でも、そんな言い訳は本当に全くの無意味である。だって今現在、類は少年を、司を組み敷いているのだから。
何でこんなことになっているのか、類は自分でも理解できていないし、現状、脳が『可愛い』と『気持ちいい』に支配されててまともに思考が働かない。とにかくこの溜まりに溜まった『可愛い』と『気持ちいい』とを吐き出さないと、まともにものも考えられないって腰を振ってるあたり、もうどうしようもなく馬鹿になっているというのに。
二人でぎゅうって苦しいくらい抱きしめあって、名前を呼んで、欲を吐き出して、ようやく頭が冷えてから、類は飛び退って土下座した。
「ごめん。本当にごめんなさい。言い訳にもならないけど、本当に最初はそんなつもりで呼んだんじゃないんだ。」
謝る類を司は穏やかな顔で見ている。
「うん。大丈夫だから。」
それは許しではなく、諦めの声だった。
だから司は洗濯が終わっている筈の衣類を求めて立ち上がった。又、出て行くために。
「ありがとう、る」
「大丈夫じゃない!僕が大丈夫じゃないから、お願い、行かないで。」
立ち去る前に類がしがみついてきた。成人男性が全力でしがみついてきたらそうそうはがせるわけがない。おまけに泣いている。
深夜に男二人が真っ裸で、類は司に泣いてしがみついてる。なんだ、これ。
司は可笑しくなって笑ってしまう。昼間の類の様に、可笑しくてたまらない、といふうに涙を溜めるくらい笑っていた。
「つかさくぅん」
拗ねたように類が名前を呼んだ。
「ねぇ、お願い。僕と一緒に暮らして。」
出会ってまだ一日も経ってないのに、その言葉はまるでプロポーズだった。
「まるで、じゃなくて、正しくプロポーズだったんだよ。」
この話をすると類はいつもバツの悪そうな、子供っぽい表情をするから、それが可愛いと司は何度でも話題に上げてしまうのだ。
それから何度も季節はめぐり、時を重ね、穏やかに緩やかに、多少の波風はあったけれど、それでも幸せに過ごした。けれども、物事には始まりがあれば終わりがある。二人で育んだ幸せな日々に終わりが近づいていた。
「司くん、アレ、最期まで返してあげられなくてごめんね。」
今際の際まで気に病んでいることに、司の方こそ申し訳ない気持ちになる。
どんなに時を重ねても、どんなに幸せだと思っても、類の奥底にはいつでも司がいなくなってしまうのではないか、という疑いがあった。きっと善良な類のことだ。幾度となく返そうと思ったであろう。けれど、その疑念のせいで、今に至るまであのときの布を返せなかったのだ。
そうやって、罪悪感で雁字搦めにしたまま彼岸に送り出さなければならないことを、司は酷く悔いていた。
「オレと一緒にならなければ、そんな思いをしないで済んだのに。」
「それでも一緒にいたかったんだよ。」
わかって、というふうにシワシワになった手が司を力なく撫でる。砂時計はもうすぐ落ちきってしまう。
「類、類。――。」
返事はもう返ってこなかった。
類のクローゼットを開ける。一番奥の片隅にドローンがあった。あの時の、二人が出会った時のドローンだ。
ドライバーで蓋を開ける。中に、あの時の布が入っていた。あの時と同じ輝きを称えたそれは正しくは羽衣と呼ばれる。
本当はとっくに隠し場所なんて知っていたのだ。だけど司だって類と一緒にいたくて、決まりを破って知らんぷりをしていたのに、それはどこまで通じていたか。
「帰らないって言ったのにな……。」
色褪せず、虫にも喰われず、傷んでもいない布を取り出しキッチンへ向かう。
ガス台に火をつけ、布をかざすと火の粉が移った。
パチパチと舐めるように炎が羽衣を侵食していく。同時に司の指先が燃え始めたと思ったら、ボッと一際大きな炎があがった。
炎が司を燃やし尽くす。それは一瞬のできごとで、もう、後には何も残っていなかった。
それはまるで、恋に集る羽虫のような、潔く情熱的な最期だった。