第二話
真っ白な壁にカーテンで仕切られたベッド。夕方にさしかかった保健室は、一つのベッドを除いて利用する生徒の姿はない。
シンと静まりかえった室内で、クルーウェルはベッド脇の丸椅子に腰かけながら、こんこんと眠り続ける生徒を見つめていた。
ふと、クルーウェルは廊下から聞こえてきた忙しない足音にゆっくりと立ち上がる。その音はどんどん大きくなり、やがて保健室の前で止まった。そして、勢いよくドアが開かれる。
「先生!ジャック君が倒れたって聞いたんスけど!」
「バッドボーイ。廊下は走るんじゃない」
窘めるクルーウェルの声を他所に、サバナクローの寮長であるラギーはまっすぐにベッドへと歩み寄る。真っ白で清潔感がある、けれどどこか消毒液くささを感じるベッド。そこに、ジャックは眠っていた。
「サイエンス部の生徒が、ハウルが植物園で倒れているのを発見してな」
息を整えながら、ラギーはクルーウェルの言葉に頷きを返す。
ジャックの顔には特に目立った外傷は見えない。ひとまずほっと息を吐き出した。けれど安心するのはまだ早い。
「けどわざわざ俺を呼び出すってことは、他にもなにかあるんスよね?」
そう、ラギーがここまで急いで来たのは、クルーウェルからの呼び出しがあったからだ。緊急事態でもない限り、いくら寮長といっても呼び出されることなどない。
本命は別にある。ラギーは確信を持ってクルーウェルへ向き直る。
「目立った怪我がないってことは喧嘩じゃない。貧血とか体調不良なら、ここで一晩過ごすだけ。俺を呼びに来させたってことは、それ以外のなにかがあるってことですよね」
その言葉にクルーウェルは一つ頷く。
「話が早くて助かる。少し長くなりそうだ。ブッチも適当な椅子に座るといい」
そしてクルーウェルはもともと座っていた椅子に腰かけた。
ラギーもあたりを見渡し、適当な椅子を一つ掴み、クルーウェルとは反対の位置に腰を下ろす。
室内には時計の針が動く音しかない。緊張感が肌に刺さる。クルーウェルはラギーを真っすぐに見据え、重い口を開いた。
「今回、ハウルが倒れたのは喧嘩でも体調不良が原因でもない。魔法のせいで眠っているんだ」
「魔法?」
誰かのユニーク魔法に誤爆したのか、はたまたジャック自身に恨みを持つ誰かの犯行か。しかしそれだけではこの状況の決定打に欠ける気がした。
「ただの魔法じゃない。厄介なのが、それをかけた相手は妖精であり、容易に解除できるものではないということだ」
魔法、学術、錬金術。これら全てに秀でている教師陣にも解除できない魔法というものはいったいどういうものなのか。ラギーには想像できない。
「一言でいうと、人の意識に介入する魔法だ」
「意識に介入……」
「そうだ。そして妖精が原因であることが一番厄介な点だ」
「ちょ、ちょっと待ってください」
ラギーは顔の前で手を上げ、クルーウェルを制する。
「ジャック君が精神干渉の魔法で倒れたのは分かりました。けど、なんで妖精だと面倒なんですか?」
「……妖精族と我々人間では、時の流れの速さが違うのは分かるな。彼らにとっての『少し』は、時に我々にとっての数日、もっとひどい時には数年の長さほどの違いがある」
授業で習った記憶がある。妖精族は人間と比べて寿命が長い生物であり、中には何百年と生きるものも少なくないと。
ラギーは背中に嫌な汗が流れるのを感じた。
「そしてその妖精がハウルにかけた魔法は、人の感情や記憶に関するものだった」
そこでクルーウェルは一度口をつぐむ。沈黙が二人の間に流れる。
「ハウルにかけられたのは、恋心を消す魔法だ。正確には恋をする感情、そして記憶を消す魔法。どうやらその妖精はハウルに恋をしていたらしくてな。自分ではない誰かを愛するハウルに、悲しみよりも怒りが勝ってしまったらしい」
「こい……ごころ」
ぽつりと出た言葉はふらふらと空気中を漂い、やがて行き場を無くして地に落ちる。
色々な情報が多すぎて理解が追い付かない。
「今、ハウルは記憶を少しずつ消されている状態だ。そしてそれら全てが消えるまで目が覚めることはない。たとえそれが数年かかるものだとしてもな」
数年、という言葉にラギーはハッとクルーウェルを見る。ようやく厄介だと言われた理由を理解した。人間と時間の流れが違いすぎる妖精。そしてジャックは数多くいる獣人族の中でも、特に愛情が深い狼の獣人族。完全に記憶が消えるまでにいったい何年かかるか分かったものではない。
「そこでお前を呼んだんだ、ブッチ。ここに来てもらったのは寮長としてだけではない。一年の頃から親しい関係を築いているお前なら、ハウルのその相手に心当たりがないかと思ってな」
その言葉に、ラギーはぐっと喉を詰まらせる。ジャックが想いを寄せている相手。その人を、ラギーが知らないわけがない。
その様子を見て、クルーウェルは確信を持った目でラギーを見据えた。
「どうやら知っているみたいだな。正直今すぐハウルの目を覚まさせるには、記憶に蓋をする魔法でその記憶を忘れさせる方法しかない。もちろん他にも何かしら手がないか調べてはみるが、望みは薄いものだと思ってほしい」
「……」
ラギーは顔を俯け、太腿の上で両手を握る。再び室内には沈黙が流れる。
ジャックの目を覚まさせるには記憶を失わせる必要がある。しかしそれを当事者であるジャック以外が決めるのはあまりにも事が大きすぎる。そして既に結ばれている相手がいるのならば、なおさら他人が簡単に決めていい話ではない。
ラギーは椅子から立ち上がり、今まで閉じていた口を開く。
「時間を……少しでいいんで時間をください。それ以外にも方法があるかもしれないのなら、俺はそれに賭けたい、です。数日だけでもいいんです。それでも、どうしても見つからなかったら……俺から話してみます」
「あぁ」
そしてラギーはクルーウェルに一礼をし、背を向ける。チラリと見えた表情は固くこわばっていた。
ドアに手がかけられる。ドアが開く音でさえ、この重くのしかかる空気を変えることはできない。
「ブッチ」
「……はい」
呼びかけられたラギーは振り返ることなく、その場に留まる。その背に苦々しい声がかけられる。
「すまない。嫌な役回りをさせる」
ピクリと指先が動いた。数秒間何もない時間が流れ、やがてラギーは振り返ることなく口を開く。
「いえ。……先生が声をかけてくれたのが俺で良かったッス」
失礼します。最後まで振り返ることなく、ドアは閉められた。そしてここへやって来た時とは打って変わって小さな足音が、ゆっくりと離れていく。
保健室の電気に照らされたジャックの顔は、まるでただ寝ているかのように穏やかだ。
クルーウェルはその寝顔を見て、大きくため息を吐いた。