ひとつになるもの ――午前の市場は、とかく喧騒を極めている。
四方八方、上から下から、絶えず聞こえる人の声に揉まれて、オズは何度目かわからぬため息をついた。歩きながら注意深く周囲を見渡すが、一向に目的のものは見つからない。
(……離れるなと言ったはずだが)
魔法舎の玄関で、今まさに出かけようとする晶に出くわしたのがおよそ一時間前。買い出しを頼まれたのだと言って、伴もなく外に出ようとする彼女を引き止め、同行を申し出たのはオズの方であった。
人で溢れかえった市場を前に、オズはまるで子どもを相手にするかのように晶に言い聞かせた。一人で遠くに行かないように、できるだけ傍を離れないように、と。素直な彼女はオズの言葉に気を悪くした様子もなく、「わかりました」と頷いた。……オズのすぐ後ろについて市場をまわり始めたはずの晶が忽然と姿を消したのは、そのわずか五分後のことである。
(雑踏に流されたか。それとも……)
数千年もの時を生きるオズから見れば赤子同然とはいえ、晶は立派な成人である。一寸先に未知の危険がある北の国ならともかく、比較的治安の安定した中央の国でそれほど心配する必要などない。
……だが、晶はただの人間ではない。月と戦う役目を背負わされた、この世界にたったひとりの「賢者」である。異界からやってきた彼女は、ときに幼子よりもこの世界を知らない。己に向けられる悪意や欲望、人間たちの抱く身勝手な期待に、晶はあまりにも無防備だった。
こんなことならば魔法で賢者に印の一つでもつけておけばよかった、とオズが考えたその時、どこからか子どもの泣き声が上がった。オズの目が反射的に泣き声の出どころを追って彷徨う。
大通りの両脇に所狭しと並んだ屋台と屋台の間。薄暗い路地のほど近くで、十にも満たないような幼い少女が泣いていた。周囲に親とおぼしき人影はなく、おそらくこの人混みに押し流されて親とはぐれてしまったのだろう。道行く人間たちは泣き声を上げる子どもをちらと一瞥こそするものの、誰一人として足を止めない。
以前の癖でつい子どもの泣き声に意識を向けたオズも、周囲の人間たちと同じように視界から少女を外そうとして――その刹那、探していた鳶色がひしめく色の群れから少女の前へと飛び出すのを見た。
断続的に聞こえていた泣き声がぴたと止む。誰も彼もが通り過ぎていた子どもの前でしゃがみ、目線を合わせて声をかける者がひとり。
オズは雑踏の合間を抜け、足早にその場へと近づいた。しゃくりあげる子どもを必死にあやす彼女のすぐ後ろで止まり、声をかける。
「賢者」
「あ、オズ」
しゃがみこんだまま頭だけを上に向けて、晶が応えた。困ったように眉を下げていること以外には異常がないことを確認して、オズは知らず息をついた。
「離れるなと言ったはずだ」
「すみません。探してくれていたんですね」
オズを見上げる顔が無邪気に綻ぶ。オズの危惧も懸念も、晶には微塵も伝わっていない様子だった。オズはため息の代わりに片手を晶の肩に乗せて小さく呪文を唱えた。ぱっ、と一瞬、淡く発光した己の身体に晶が首をかしげる。
「? いまの魔法は……あ、いえそれよりも。あの、オズ。この子、迷子みたいで……」
晶の視線がオズから幼子へと移ったので、オズもそちらに目を向けた。子どもは己の着ているスカートの裾をぎゅっと握りしめたまま、ぽかんとオズを見上げていた。先ほどまでポロポロと零れ落ちていた涙はいつの間にか止まっている。
「おにいさん、まほうつかい……?」
「…………ああ」
オズは子どもを見下ろしたまま、無愛想に答えた。子ども相手に隠すようなことでもなかったし、そもそも目の前で魔法を行使しておいて誤魔化せるほどオズは会話が得意ではない。
短い肯定を受け取った子どもの目が大きく開かれる。涙で潤んだ瞳が日差しを受けて、きらきらと細かな光の粒を散らした。子どもはどこか興奮した様子で、目の前の晶の袖を掴む。
「じゃあっ、じゃあおねえちゃんはけんじゃさま?」
「は、はい。そうですよ」
「わあ! けんじゃさまと、けんじゃさまのまほうつかい!」
頬を上気させて、子どもが晶の腕に抱きついた。さっきまで泣いていた子どもの急な変化に、晶が困惑混じりにオズを見上げる。オズは何か言ってやるべきだろうかと考えて、結局何も思いつかず黙り込んでしまった。
困惑する二人を置き去りに、子どもは思いつくままに喋り続ける。
「あのね、おかあさんがね、もうすぐお祭りがあるから市場にいこうって。おっきな市場だから、もしかしたらけんじゃさまにも会えるかもって! すごいすごい! 本物のけんじゃさまだ!」
「ううっ、曇りない……じゃなくて、お母さんと来たんですね」
「うん! ……でも、ひとがいっぱい、わーって歩いてきて、おかあさんがいなくなっちゃったの」
無邪気な好意にたじろぎつつも、晶は子どもの話を整理する。子どもは、晶の言葉で親とはぐれたことを思い出したようだ。きらきらと輝いていた瞳に翳りが落ちる。
ひとたび止まっていた涙が再び子どもの目元に大きな粒をつくった。今にもあふれて零れ落ちそうなそれを見て、先に動いたのは晶だった。腕を掴む小さな手に、そっと己のそれを重ねる。
「それじゃあ、一緒にお母さんを探しましょう!」
「……けんじゃさま、いっしょにさがしてくれるの?」
「はい。お母さんも探してくれているでしょうから、きっとすぐ見つかりますよ」
「……ありがとう、けんじゃさま!」
ぱっと笑った子どもが勢いよく晶に抱きつく。しゃがんだままの晶はよろめきながらもしっかりと子どもを抱きとめて、オズを見上げた。
「オズも、つきあってくれると嬉しいなー……なんて」
「…………おまえが望むのなら」
控えめにオズの協力を望む晶に、オズはため息まじりにそう返した。根っからの善人である彼女が迷い子を見捨てられるわけがない。どのみち、賢者をひとりにするわけにはいかないのだ。
まずは聞き込みからですかね、と、子どもの手を握って立ち上がった晶の後ろについて、オズは今しばらくこの喧騒に身を晒す覚悟をした。
◆ ◆
「み、見つからない……!」
子どもから母親の情報や買い物の目的を聞き、それを元に店を回った晶たちだったが、子どもの母親には一向に出会えなかった。否、まったくの無収穫というわけではない。「子どもを探している母親」の目撃情報自体はいくつもあったのだが、向こうも移動を繰り返しているようで全て行き違いになってしまったのだ。
このままでは埒が明かないとして、晶はいくつかの出店に「もし子どもを探している母親がいたら広場の方へ行くよう伝えて欲しい」とお願いして回った。いまは広場の中でも特に目に付きやすい中心部のベンチで、子どもと共に待機兼休憩しているというわけだ。
広場は完全な休憩スペースとして成立しているようで、軽食を売っている屋台がわずかにある他には店も出ていない。そのおかげで、大通りと比較すれば人はまばらで、視界も明瞭だった。
「賢者よ、これを」
「わっ、ありがとうございます」
オズが、手にしていた二つのコップを晶に差し出す。晶が受け取って中を覗くと、どうやら屋台で売られている果実水のようだった。広場につくなりオズがふらりと姿を消したのは、これを買うためだったらしい。
「子どもはこまめに水分を取らせなければならないと、以前フィガロが言っていた」
「そうなんですね。……あれ? オズの分は……」
「私はいい」
コップが二つしかないことに疑問を覚えた晶が問うも、オズは興味なさげに果実水から視線を外した。ふと、晶は休憩を提案したのもオズだったことを思い出す。彼にとって今の状況は、面倒を見る子どもが二人に増えただけにすぎないのかもしれなかった。そのことに思い至った瞬間、ちく、と痛みに似た違和感が晶の胸に刺さる。その奇妙な感覚にひとり首をかしげながら、晶は隣に座る子どもに果実水をひとつ差し出した。
「たくさん歩いて、喉が乾いていませんか。オズが飲み物を買ってきてくれたから一緒に飲みましょう」
「……ありがとう。けんじゃさま、まほうつかいさん」
小さな手が果実水を受け取る。子どもは両手で持ったコップを膝の上に置いたまま、口をつけようとしなかった。うつむいて、手の中の果実水に揺らめく影をじっと見つめている。
ぽた、と影に波紋が広がった。ほろほろと声もあげずに涙をこぼしはじめた幼子に、晶は驚いてベンチから降りた。子どもの目の前にしゃがんで、そっと顔を覗き込む。子どもはくしゃくしゃに顔を歪めて泣いていた。
「このまま……このまま、おかあさんに会えなかったらどうしよう……もうお家にかえれなかったらどうしよう……!」
子どもの悲痛な泣き声を聞いて、オズは思わず眉をひそめる。子どもはよく泣くものだと知っているが、この幼子の泣き声は妙にオズの心を引っかいた。幼い頃のアーサーの泣き方とは違う、けれど何かを思い起こさせるような気がしてならなかった。
晶も痛ましげに眉尻を下げて、ハンカチで子どもの涙をぬぐってやっている。しかし不意に、彼女の目元にきゅっと力がこもったのをオズは見た。
「……大丈夫。絶対、お母さんのところに帰れます」
「ぅ、でも…………」
「見つかるまで、一緒に探します。あなたがお母さんに会えるまで、私が手を握っています」
コップを持つ小さな手を上から覆うように握って、晶はそう言った。まっすぐに、幼子の涙に濡れた瞳を見つめて放たれた言葉には、どこか己に言い聞かせているかのような重みがあった。
晶の真剣な様子に、不安よりも驚きが勝ったのか子どもがぽかんと晶を見つめる。握られた手にほんの少しの力がこもった。子どもが何か言おうと口を開いたその時。
「アデル!!」
遠くから、子どもの名を呼ぶ声が聞こえた。弾かれたように顔をあげた子どもが、その勢いのままにベンチから駆け出す。
「おかあさんっ!」
「ああっ、アデル! 探していたのよ、見つかってよかった……!」
大通りの方から駆けてきた女性は、そう言って子どもを抱き上げた。子どもは女性の腕の中で、嬉しそうに身じろいでいる。――間違いない、子どもの母親だ。
オズは、弾き飛ばされたコップを魔法で浮かせたまま、そっとしゃがみこんだままの晶を盗み見る。晶はじっと親子を見て、安心したように息をついていた。その瞳に、隠しきれない寂しさを滲ませながら。
子どもの無事を確認して、ようやく人心地ついた母親が子どもを抱き上げたまま晶たちの方に近づいてきた。慌てて晶が立ち上がる。
母親と再会して不安が晴れた子どもが話したのだろう。母親は恐縮しながら、子どもを保護してもらった礼を賢者に伝えていた。何かお礼を、と慌てる母親を晶があたりさわりのない言葉で宥めている間、オズはじっと晶を見ていた。
なんとか母親を落ち着かせることができて、親子とはそこでお別れとなった。子どもは果実水を片手に、これ以上ない笑顔でぶんぶんと手を振っている。母親は最後まで丁寧に礼を述べて、子どもの手を引いて去っていった。
親子が大通りに消えていくまで小さく手を振って見送っていた晶の横顔に僅かな翳が落ちる。安堵と羨望、ひとり取り残されたような寂寥を綯い交ぜにした瞳は、親子でも市場でもなく、どこかもっと遠い場所を見ているようだった。
「……賢者?」
思わず、オズは呼びかけた。ぱち、と晶の目が瞬いて、親子に向けていた心がその瞳からふるい落とされる。けれど寂しさだけは、依然としてその瞳の奥深いところに滲んでいるようだった。
「……あの子、お母さんと会えてよかったですね。お母さんもすごく、心配していたみたいですし」
零れ落ちた言葉を拾って、オズは己があの幼子相手に抱いていた違和感の正体に思い至った。
……あの子どもは、晶に似ていた。突然家族と引き離されて、帰り方もわからない姿が。
魔法使いを導く賢者たる晶は、いつだって明るく気丈だった。役目の重さに疲弊する時こそあれ、彼女が弱音らしい弱音を吐いているところをオズは見た覚えがない。
けれどきっと。彼女が言わなかっただけで、あるいは誰も彼女に聞かなかっただけで、彼女の中にはあの幼子と同じ心があったのではないか。親を、家族を、元の世界を、恋しく思う心が。
「……つきあわせちゃってすみません。私たちも、はやく頼まれていたものを買って帰りましょうか」
黙り込んだオズを振り返って、晶はそう言った。その瞳に確かにあったはずの郷愁が、拙い笑顔でふたをされる。
「……晶」
「はい。なんでしょう、オズ」
なんと言葉をかけるべきか定まらないまま、オズは彼女の名を呼んだ。
「……手を」
「手?」
己の前に差し出された手とオズの顔を交互に見て、晶が首をかしげる。オズは構わず、思いついたばかりの言葉を吐いた。
「…………また、はぐれられたらかなわん」
都合のいい建前だった。先ほど晶と再会した際、オズは晶にささやかな加護と追跡の魔法をかけている。己の魔力を追うだけで晶にたどり着くのだから、わざわざ手を繋がなければならない理由など、どこにもありはしなかった。
晶はオズの手を見つめたまま、しばし逡巡していた。そして、普段オズが言葉を選ぶのと同じくらいの時間をかけて、そっと柔い手をオズのそれに重ねた。
「……ありがとうございます。オズが手を握っていてくれるなら安心ですね」
きゅっと握る手に力が込もって、晶が微笑う。息をついたのは、はたしてどちらだったか。
「じゃあ、市場に戻りましょう! あんまり遅くなるとネロのお昼を食べそこねちゃいますから」
繋がれた手をゆるく振って、晶は大通りの方へ歩き出した。つられるように、オズもその隣を歩く。
今日のごはんは何でしょうね、と笑う晶の横顔はすっかりいつも通りだ。しかし、その心から寂しさが完全になくなったわけではないのだろう。……それでいい、とオズは思う。
オズは賢者の、晶の魔法使いだ。彼女の父にも母にもなれやしない。彼女の胸の空白を埋めることもできない。
ならばせめて手を握っていよう。彼女がこの世界で彷徨うことのないように。これ以上何かを失わずにすむように。
互いの孤独を理解できぬまま繋いだ手の、温度だけが溶け合ってひとつになった。