溶けない氷はない 途絶えたはずの影を背負って、オクタビオは笑っていた。当時彼の頬に貼られていた白いガーゼは絆創膏となり、主張はこぶりになったものの、つけられた傷の大きさは変わらない。完治したって、ずっと残り続ける。アジャイから聞いた顛末が本当なら、彼に刻まれた傷は、簡単に癒えるものなんかじゃない。笑顔の中に潜められた感情は、どうあがいても、光の当たらない日陰でくすぶるそれだ。
戦場に流れる時の流れは、無慈悲かつ残酷だ。立ち止まる時があってはならない。躊躇も、遠慮も、存在する事が許されない、命の奪い合い。狂気の風が吹き付けるそこで、オクタビオの顔面を殴りつけてトドメを刺したのは他でもない俺で。割れたゴーグルの奥にあるエメラルドの目が、涙をこらえるようにゆっくりと閉ざされる有様を目に焼き付けたのも、他の誰でもない、俺だった。
試合を終え、ファンサービスを終えたレジェンド達が、思い思いに過ごそうと、シップ内へ向かう中。
「……、……」
みんなの後ろに続こうとした俺の袖を、オクタビオが引っ張った。無言で、弱々しい力で、引き留めるように。振り返れば、ゴーグルを持ち上げて露見した彼の眼差しが、追い縋るように向けられていた。袖を掴む手を握り取れば、ぎゅっと力が込められる。小さな震えが伝わってきて、頭を撫でてやろうと、そっと片手を持ち上げた。
「ッ、」
焦るように瞬きをして、少しだけ体を逸らす彼。反射的な反応に、俺の顔はますます深刻に歪んでいく。目線を合わせようとしない彼を、その場でゆるく抱きしめてやった。ほぐすための抱擁は、一瞬だけ。でも、その数秒にすら縋ろうと回されかけた片手が、離れていく体に行き場をなくして宙をかいて、あきらめるようにぶらりと垂れ下がる。ちがう、そうじゃない。俯く彼の繋いだ手の甲に、誓うような、謝罪を込めた口付けを降らせる。ひくりと指先が揺れて、縮こまる子供の心情が映し出されたようなその力ない指に、自分の指を細かに絡め合わせた。慣れているはずの恋人繋ぎは、俺の方が、どこまでも必死に。
「帰ろう」
ささやきに返された頷きに、声を出せない彼を引き連れて、帰路を辿った。
家に着いて、真っ先にシャワーを浴びた。一緒に入ろうか、という提案にすら無言が返され、途方に暮れる内心を誤魔化しながら、交代してシャワールームにこもった。タオルで頭を拭きながら、オクタビオが浴びるシャワーの音を遠巻きに聞く。気まぐれに響く義足の軋む音すら、今は心をさざめかせる。彼のにおいが香る寝室のベッドに座ったまま、何も手がつけられずにぼうっとしていると、しばらくしてドアが開かれた。下着だけを身につけ、影を帯びた表情のまま、のろのろとオクタビオが俺の元に歩み寄る。
「……オクタビオ」
俺の目の前で立ちすくんだのを見兼ねて、全ての不安をぶつけるような勢いで、彼をぎゅうっと抱きかかえた。ひょいと重すぎない体重を持ち上げ、シーツの上に彼を転がす。ゆったりと覆い被さろうと跨るだけで、オクタビオはぴたりと体を硬直させた。アジャイの言葉を思い出し、くちびるを引き結ぶ。怖がらさせたくはない。記憶を塗り替えたいだけだ。優しく上体を倒し、片腕は肘をついて、空いた手を傷跡の残る頬に添えさせる。ひゅ、と、薄く開いた彼のくちびるから、かすれた吐息がこぼれた。たったこれだけの仕草にすら息を呑むのかと、膨れ上がる感情に歯噛みしたくなる。
「ん、……」
そっとくちびるを塞いで、何度かついばむように角度を変えた。首裏に腕が回される。しがみつく力は、離れたくないと物言わず泣いているようで。忘れる作業を一人にさせないと誓ったのは、俺だけの彼との約束だ。思い出す事もないように、考える余裕を奪って、俺で思考をいっぱいにさせる。いつものルーチン、だけど今ばかりはガラス細工よりも繊細な、体温の共有。
舌を吸い上げて抜ける声は、あまくて、昏い。唾液を混ぜ合わせれば餌を求める雛鳥のようにごくりと飲み込み、懸命に舌を絡めようとするオクタビオ。段々と激しくなる口付けに紛れ込む、啜り泣くようなか細い声は、嗚咽混じりで苦しそうで。
「っは、はぁ、ッ、ぁ……っ、ふ、」
「……オクタビオ」
「ふ、ぅ、だって……」
そこで初めて、オクタビオの目尻から、明確な雫があふれだした。
「父さん、に……届かな、く、て、」
ぽろぽろと、大粒の涙が彼のこめかみを伝い落ちる。くしゃりと顔を歪めて、俺は彼を力一杯に抱きしめ、ごろりとそのまま横に転がった。後頭部に手を差し込み、肩口に目元を押し当てさせる。熱い雫が俺の肩をしとしとと濡らす。労わるように濡れたままの頭を撫でつければ、オクタビオの剥き出しの肩が、泣きじゃくるように跳ねた。大声で泣き喚く事もせず、どこまでも静かに、吐息を荒くするように泣いている。
俺があの時、殴りつけた事で、想起させてしまったなら。
「ごめん……ごめんな」
「ふ……っ、っく、ぁ、くり、くりぷ、と」
「大丈夫だ。もう、大丈夫だから」
嵐のように胸中に渦巻く濁りをいなして、耳元で穏やかに言い聞かせる。
「俺の事だけ、考えて。他は、何も考えるな」
「っう、ふ、……おれ、は」
「何も、考えるな。お前は今、」
ひとりじゃない。
耳たぶを舐め上げて言葉を吹き込めば、小さな喘ぎを聞く。それすら涙に濡れていて、彼の深く凍えた哀しみは、未だに彼を苛んでいる事がひしひしと伝わってきて。胸をぐっと押し上げる感情は、果てを知らない、慈愛と欲求だ。彼を愛せるのは、彼を埋めるのは、きっと。
「大丈夫。俺がいるから」
「……いつまで?」
拙い問いかけに、多くの言葉を費やして返答するのは、野暮というものだろう。少しだけ離れてから、その分できた隙間をぴたりと埋め尽くすように、俺はオクタビオのくちびるに噛みついた。溺れるような時が過ぎていく中で、二人きりで、光を探した。(彼が泣きやむまで、ずっと寄り添い続けていた)