天高く舞い上がる『アイツ』を見て、子供ながらに憧憬を抱いたあの感覚を、今でも忘れられない。どこまでも自由で、果てもなく奔放で、俺が追いかける前に居なくなっちまったけど。風に乗って気ままに飛び去る背中を見上げて、伸ばした手を下ろした時のやるせなさを、いつだって胸に刻んで、目に焼きつけた速さに恋焦がれてるんだ。
背中にぺたりと貼り付いた『アイツ』の影は、古い記憶の中でしか生きていなかったんだけどな。
もう一度会えるとは、思ってなかった。
◇
激戦区の盆栽プラザで命からがら生き延びて、激しい銃声の残響が耳の奥を揺らしている。二部隊分のデスボックスがプラザの屋上のクロスする通路に山のように積まれており、物資漁りもそこそこし終えたところだ。念のため、屋上広場の垂れ幕で部隊数を確認しようとドローンを飛ばす。そこでようやく、同じチームの彼の姿が、自分の近くに見えない事に気が付いた。どこにいる、という疑問はすぐに解消される。
屋上広場の一番高い段の上に、空のあたりを見上げているオクタビオの背中を、ドローン越しに見つけた。ひとまず安心しつつ、部隊数を確認して、事務的に無線でチーム員に伝える。ブラッドハウンドが即座に返事をするかたわら、オクタビオは上の空で、呆けたように了承を投げた。彼にちらりとカメラを向けて、彼のゴーグルの視線の先をたどる。部隊数の垂れ幕の上、屋上の更に上部のてっぺんに、一羽の鳥が止まっていた。小鳥やカラスよりは大きな体躯で、あまり見かけない種だ。灰色の大きな翼、白い首周り、わずかに黄色がかったくちばし。
(外来種か……?)
咄嗟に名前が出てこないが、一般的にアウトランズに生息する鳥類ではないことは確かだ。ちらとカメラをオクタビオに向けると、ぼうっと灰色の鳥を見上げている。俺はドローン視点から切り替えると、気持ち駆け足でオクタビオの元へと向かった。段の上で突っ立ったまま動かない彼は、片手に銃をぶら下げたまま、しまおうとすらしていない。隣に並んだ俺に対しても無反応で、それには特に気に留めず、俺はウィングマンの二倍スコープ越しに灰色の鳥を見据えた。恐らくは猛禽類だろう。精悍な羽と、強者を匂わせるワイルドな瞳。オリンパスの透き通ったスカイブルーの下で、きょろきょろとあたりを見回している。
「――間違っても撃つなよ? アミーゴ」
彼らしくない、内緒話をするような潜めたささやきをこぼすオクタビオに、ちらと目線を投げた。戦場で殺すべき相手は人間だ、何の関係もない動物を殺すなんて、まるで意味がない。それが分からないほど彼も馬鹿じゃないはずだ。それでもあえて口にしたんだとしたら、それは、執着の裏付けとも言える。
「撃つわけないだろ。あの鳥が気になるのか?」
なんてことはなく尋ねれば、彼は空いている脱力した手を、あの鳥に向かって、求めるようにそろそろと差し伸ばした。遠くの雲を掴み取ろうとしているような。そんな、絶対的に縮まることのない距離を認めた上で、期待と諦観が押し込められた、途方もなく人間らしい手のひら。
「俺の、星だ」
「星?」
「憧れなんだ。アイツは」
伸ばされた手が、ぎゅっと握り締められる。何を掴んだ訳でもないのに、力強く丸められた拳は、ふるふると震えていた。
「人工の街並みじゃ、到底生きられないのによ。断崖絶壁に巣を作る習性があるからって、たまに高層ビルに巣を作りやがるんだ。餌だって少ねえのに、逞しく生きてやがる。……自由に、果てのない空を飛び回って、その生を謳歌出来るんだ」
ぶらりと力無く垂れ落ちた手は、それでも彼の望みをさっきまで物語っていた。代わりに持ち上げられた銃は、命を奪うためだけに作られている。地面に縫い付けられた生き物が、泥水をすすりながら殺し合うだけの、それだけのために存在している。
顔を覆う装飾の下は、どんな表情を浮かべている?
「アイツは、自由で、速い。俺の掲げるモン、とっくに全部持ってる」
オクタビオがヘムロックを構え、灰色の鳥に照準を合わせた。撃つ気がないのは明白だった。その途端、彼の憧れの具現者は、彼の視線を振り切るように――気まぐれに見捨てるように、荘厳な翼を大きく広げた。優雅に飛び立ち、オリンパスの蒼穹の彼方へと飛び去っていく。あーあ、と色のない声で吐息をこぼすオクタビオ。空虚さを隠さない彼が、ふと霧に紛れて消えてしまいそうな雰囲気をまとっているものだから、俺はたまらずオクタビオをぎゅっと抱き締めた。
「お前だって、負けてないさ」
「は。そうかね」
「ああ。お前は、他でもない、俺だけの翼だ。誰にも……あの鳥にだって、お前の羽は折らせない。お前にしかできない飛び方を、俺は知ってる」
「口説き文句にしてはちゃちいな、アモール?」
「ちゃちいと思うか? 意味が分からないなら、今夜、嫌というほど思い知らせてやる」
僅かに体を離すと、ゴーグルの上から手のひらを被せて、マスクの先端にキスを落とす。そのまま剥き出しの首筋をぺろりと舐め上げれば、喉仏がひくりと上下した。
「本当、俺のことしか見てねえのな、あんたは」
困ったようなオクタビオの苦笑には、俺の知らない老衰した感情が滲んでいて。そこまで彼の心の芯を揺さぶる憧憬の鳥に、嫉妬すら覚えながら、覚悟しておけよ、と彼の耳元であまやかにささやいた。星に手が届かないと諦める子供を、遠ざかる星そのものが後悔するぐらいに、この手の中で可愛がってやる。そうして手中に収めて、そんな薄情な星よりも、俺だけを見るようになればいい。俺という存在は、彼のためだけに生きることも出来るんだから。
例えこの先の未来で、彼を裏切ることになろうとも。俺は、オクタビオを愛している。