Δ神ナギ習作 ひと様の家を訪ねる際は菓子折を。
よくしらないひとの家にむやみに行かない。
青年の頭の中では二つの教訓がぐるぐると回っていた。部屋の主が彼を壁際に追い詰めている。
「ね、ちょっとでいいんだ。味見程度だよ」
部屋の灯りは逆光になり、部屋の主の痩せて背の高い姿に影が落ちている。四角い縁の眼鏡の奥で、赤い眼が光る。
「あの時の君の血、ほんとにおいしそうな匂いがして――」
部屋の主が大きく口を開け、牙の先がちらと見える。この部屋の主は吸血鬼だったのだ。青年の頬にもつれ気味の長い髪が、首筋に生温かい吐息が触れる。青年は壁に背中を押しつけたまま、なすすべもなく固まっている。せめて菓子折の代わりに血液ボトルを持ってきていれば、状況は変わっただろうか?
部屋のドアが開いた。
「あれ? シンジ取り込み中?」
入ってきたのは、黒いシャツ姿のこれまた細身の背の高い男。右眉の上で分けた前髪以外に、特徴と表情に乏しい顔が壁際の二人を見ている。
「ミッキー……」
部屋の主は青年から離れた。黒いシャツの男は部屋の主の肩を叩く。
「人間から直吸いすると吸対に捕まるぞ。今の隊長、すごく鼻の利くダンピールらしいから、逃げるのは難しいだろうな」
それから青年に視線を向けた。その眼も赤い色をしている。
「君、もしかしてコイツに『よく来てくれた!』って言われた?」
青年は声を出す代わりに繰り返し頷いた。
「名乗れよ、シンジ」
黒いシャツの男に促され、部屋の主は背筋を伸ばした。白いカットソーにジーンズ姿の吸血鬼は、両腕を広げる。
「わ、我が名は吸血鬼・アナタもステキなアシスタント! 僕に迎え入れられた者は原稿が上がるまで僕のアシスタントだ!」
「そういうわけだから。かわいそうだけど、締切まで頑張ろーね」
黒いシャツの男はそう言って、部屋に並んだ作業机の一番奥の席に座ると、液晶パネルの電源を入れた。
* * *
「へえ、この子が、あの」
「そうそう! 路地裏で倒れてたから救急車呼んでさ。出血が酷くて――傷はもういいの、アシさん?」
「はい」
アシスタント、略してアシさん。部屋の主・アナタもステキなアシスタントこと神在月シンジは青年をそう呼んだ。
「退院して、菓子折持って命の恩人を訪ねたら、アシスタントにされるわ吸血を迫られるわ、と。アシくん災難続きミキね」
冗談めかして笑う黒いシャツの男はミキと名乗った。
「ミッキーは僕の能力とは関係無しに手伝いに来てくれるんだ」
神在月を中央の席に、青年とミキはそれぞれ左右の席について、液晶タブレットを操作する。青年は見よう見まねで、画面の指定された箇所に枠線を引く。入院中に伸びた髪をかき上げる。
(アシさん……アシさん……いまあなたの心に直接語りかけています……枠線が引けたら共同作業メニューから変更を反映するのですよ……)
「あ、はい」
青年は口頭で返事をしてからぎょっとして隣を見る。神在月はウインクをして舌を出し、親指を立てて見せた。
「……枠線できました」
青年がなるべく冷静に報告すると、吸血鬼たちから驚きの声が上がった。
「もう!?」
「デジタル・ネイティブは覚えが早いね。きみ専属アシやらない? 70年くらい」
「いえ、俺、退治人になるんで……」
「えっ」
「マズいな、俺ら狩られるじゃん」
「そんな無差別に狩りませんよ。俺が狩るのは――」