N-8N-8
入浴と着替えを済ませたクラージィを、ノースディンは暖炉の前で迎えた。すでに夜明けの近い時間だ。窓にはカーテンが引かれている。
「もうニンニク臭はしないな、ひと安心だ」
「……血を吸わないとダメか?」
相変わらずクラージィは視線だけを壁に向けている。理由がわかっているとはいえ、視線を合わせて貰えないまま会話をするのがノースディンには少々辛かった。
「嫌なのか? 血が」
「そういうことでは無いんだが……パック詰めの血液しか飲んだことがないので、血が出るまで噛みつくのが、ちょっと」
「いや、血を出すために噛むんだぞ? 痕も残らん、安心して噛め。手首か、首筋か、どっちがいい?」
「普通は?」
「首だな」
「じゃあ、それで」
ノースディンはタイを外してシャツの襟を少し広げた。クラージィから顔を背けて首の側面を晒し、頸動脈のあたりを指で叩いて示す。
躊躇するような息遣いがあったあと、数歩近づく足音。
「……失礼」
正面から背中へ腕が回され、両肩をしっかり掴まれる。巻きの強い髪が頬に当たり、プツ、と肌に牙の刺さる音がした。牙の先が皮下に食い込んでいく。
「いッ……!」
ドラウスめ、『結構』なんてもんじゃないぞ。ノースディンは歯を食いしばり、息を止めて痛みに耐える。牙をたてるべき位置がずれている。出血が少ないせいで、おそらく必要以上に強く深く噛んでいるのだ。
クラージィが誰かを噛むのは初めてだろうから、上手くいかないのは仕方のないことだ。ノースディンは考える。ここは『親』として見守って……何度も噛み直すんじゃない!
試行錯誤するうち、クラージィは何とか適切な位置に牙を刺すことに成功したようだった。傷口からあふれた血はノースディンのシャツを染めて、胸から腹へ流れ落ちていく。
ようやく痛みから解放されて、ノースディンは荒く息をついた。少し遅れて、視界が暗くなる。よろめきそうになるところを、どうにか踏ん張って姿勢を保つ。クラージィがノースディンの首から顔を離し、軽く咳き込んだ。
「吸えた……と、思う」
クラージィは唾液と血で汚れた口元を手の甲で拭った。
ノースディンの足元がふらつき、クラージィが咄嗟に支えた。ノースディンは支えられながら近くの椅子に辿り着き、腰を下ろした。床に膝をついたクラージィの赤い眼が、すぐ傍でノースディンの顔を覗き込んでいる。
「顔色が悪い」
「大した事じゃないさ、少し休めば治る。それより」
ノースディンは両手でクラージィの頬を包んだ。
「顔をよく見せてくれないか、クラージィ」
クラージィはノースディンの掌の間でくすぐったそうに目を細めた。
ノースディンの口から笑みが漏れた。
* * *
クラージィに台所から持ってこさせたボトル入りの血液をノースディンは少しずつ飲みくだす。
「吸血鬼の怪我には、血を飲むか、傷口に浴びせるかだ」
「なるほど」
ふらつきも収まったし、噛んだ跡からの出血も止まっている。クラージィはまだ心配しているようだった。
「もう休んだほうがいいんじゃないか?」
夜明けの淡い光がカーテンの端から入りこんで壁に滲んでいる。
「そうだな。部屋を用意してあるから、お前もそっちで休むといい」
ノースディンは部屋の場所をクラージィに伝えた。
「ノースディンは?」
「私は、自分の棺がある」
「そうか。おやすみ、ノースディン」
「おやすみ、クラージィ」
クラージィが退室した後も、ノースディンはしばらくそのまま座っていた。着ているシャツは噛まれた側の生地が血で濡れて、肌に貼り付いている。
「本当にシャツ一枚ダメになったな……」