N-9N-9
「……そうか。では、このままあの街に?」
「そうしたいと思っている」
ノースディンには予想のついていたことだった。クラージィはあの街で暮らしたいと言うに違いないと。
「あの春の夜に、お前やヨセフがいなかったら、私は二百年後の世界を見る事なんてかなわなかった。あの街にドラルクがいなかったら、私は結局野垂れ死にしたかもしれなかった。今さら神のお導きとは言うまいが、この僥倖を私は大切にしたい」
相手は己の心を曲げないあまり、一度は死に至った男だ。そこには裏表も妥協もなく。それこそが彼の美点とノースディンはわかっている。今さら誰が彼を止められるだろう? 手元に置いておきたいとノースディンひとりが願ったところで、どうにかなる話では無いのだ。
「わかった、クラージィ。お前は人間と吸血鬼の間を、たそがれ時を歩いていけ。行ってその先を見届けてこい。先は長い、巡り合わせによってはまた会うことも――」
「待ってくれノースディン。そうじゃない」
クラージィに言葉を遮られ、ノースディンは首を傾げた。
「ん?」
「説明が足りなかった、すまない。私はあの街に流れ着いたことと同じくらい、お前との再会を幸運に思っているんだ。命を奪いに行ったはずの相手と、いま、こうして膝をつき合わせて話ができる。こんなに嬉しいことはない。……だから時々は、ここにお前を訪ねることを許してほしい」
クラージィは少し遠慮がちに目を伏せた。ノースディンはクラージィの申し出に、務めて冷静な態度で応じた。
「もちろんだ。この家はいつでもお前を迎え入れよう。昨日お前が使った部屋だって、自由にしてくれて構わない」
「ありがとう」
クラージィがノースディンのことも気に掛けているらしい、そのことがノースディンには嬉しかった。
赤毛の娘は言っていた。望むことを言ったほうがいい。小娘に諭されたようでどうかと思うが、少しぐらいは正直になっても良いだろうか。
「なあ、お前は寝ていたから知らないかもしれないが、二百年って結構長いんだ」
「ああ」
「心の底で、ずっと気にしていた」
「うん」
「それがこのひと月で、あのいかれた街に取られてしまうみたいで、寂しい」
「お前も遊びに来たらいい。あの街はきっとお前のことも歓迎する。街じゅうの女性を誘惑するのでなければ、大丈夫だろう」
「な……!」
ノースディンが動揺する前で、クラージィは悪戯がうまくいった子供のようにくすくす笑った。
「なぜギルドマスターが警戒していたのか、ドラルクに聞いたんだ」
ノースディンは肩をすくめた。
「今からでも私を退治するかね? 悪魔祓い」
「まさか。もう退治されたんだろう? 面白い方法で」
「ぐッ……」
クラージィの表情から茶化すような気配が消えた。穏やかな視線がノースディンを見ていた。
「場所はそれほど問題ではないよ、ノースディン。私の心はお前のところにあるのだから。私の『血族』にしてただひとりのよすが。私がいま生きている、その理由があるところだ」
クラージィの言葉はノースディンがいままでに使ったどんな口説き文句よりも秀でていた。たとえそんな意図がなかったとしても。飾り立てられていなくても。クラージィの言葉はノースディンの心臓を刺した。
クラージィの言葉には、素直に信じられる力があった。二百年の空白も、物理的な距離も、これからは些細なこと。きっと時間と言葉が埋めていってくれるだろう。
「そうか……」
ノースディンは小さく頭を振って笑みをもらす。これまで他人をうつろな美辞麗句で操り、親友の前では言葉で自分を鎧ってきた。クラージィの正直さ、出した言葉を真実にする意志の強さ、それがノースディンには眩しかったのだ。こうも眩しく照らされしまっては。
「参ったな……」
書斎のドアが変な音を立てた。ドアノブが何度も半端に回って金属音を立てている。
「失礼」
ノースディンは息をついて、席を立とうとする。それより早く、ドアが細く開いた。隙間から流れるように入ってくるのは、使い魔の猫。猫はクラージィを一瞥し、ノースディンの机に飛び乗った。
「降りなさい」
「ニャー」
猫は返事だけして机の上に寝そべった。ノースディンは机から猫を抱き上げて座り直した。
「私の使い魔だ。他にも居るから、後で紹介しよう」
猫をクラージィに紹介すると、クラージィは身を乗り出した。
「猫が使い魔か! じゃあ、あの子もそうなのか」
「あの子?」
「もう一匹いるだろう。ブルーの毛で、胸の白い」
ノースディンは説明に困った。クラージィが眠ったか、眠ったように見せかけて死んではいないか急に心配になって、灰色の猫の姿に化けてこっそり様子を見に行ったらまだ起きていたなどと――ちょっと、言えない。
「あー、あれは幻の猫だ。気にするな」
「幻?」
「来客があると隠れてしまうんだ」
「そうか。信頼を得られるように努力しよう」
クラージィの返答は、一体誰の信頼を得たいと言っているのか。いかようにも取れて、ノースディンは内心落ち着かない。ノースディンは咳払いをした。
「それで。お前はいつまでここに居られるんだ? お前のことだ、次の仕事の予定が決まっていたり……」
「いや、まだ何も決めていない。シンヨコに住む以外は」
ノースディンは猫を床に降ろして立ち上がった。
「とりあえずお茶にしないか? 熱いお茶でも飲みながら、今後の予定を考えるとしよう」
「喜んで。ドラルクの師匠のお点前、期待する」
二人は書斎を出て、使い魔の猫が後に続いた。