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いくつかのドアの前を通り過ぎて、教えられた部屋に入る。壁際にクローゼットと整えられたベッド、それから正面の書き物机をはさんで、本棚、姿見。掃除の行き届いた居心地の良い部屋だ。ベッドの上には新品のパジャマまで用意されている。
クラージィは柔らかいベッドに腰を降ろし、行儀悪く仰向けに倒れた。指で唇に触れる。まだ血と体温の味が口の中に残っている。なかなか牙の入らない肌の弾力も。
意外なことに――いや当然なのか、その味と感触は不快なものではなかった。自分で予想していたほどの抵抗も忌避もなく、かえって困惑するほど円滑にことは済んだ。
(いや、円滑……ではなかったな)
ノースディンは何も言わなかったが、かなり痛かったのではないだろうか。元から青白い顔が真っ白になっていた。その場に残してきてしまったのはまずかったように思う。心配だったが、棺までついていくのはさらにまずかろうとクラージィは思った。ドラルクからは、棺のありかは吸血鬼の社会において大変繊細な話題と聞いている。
(明日になったら謝ろうか)
クラージィがぼんやり考えていると、部屋のドアノブがカタカタと不自然に動き出した。クラージィは起き上がり、ドアを開けた。一匹の猫がドアノブを器用に前脚で挟んでいる。猫はドアノブから前脚を離し、後ろ脚で立ったまま固まった。
灰色の短い毛をした綺麗な猫だ。猫のこういう毛色をブルーと言うらしいが、どこで聞いた知識だったか。胸の毛だけが白く、ちょうど古風なクラバットでも着けているかのようだ。ノースディンが飼っているのだろうか。
「ひょっとして、この部屋は君の縄張りだったのかな?」
猫は固まったまま、赤い眼でクラージィを見あげている。
「この家のご主人の計らいでここを借りるけど、すまないね……ご主人のそばに行ってあげて欲しい。体調がすぐれないだろうから」
猫は前脚を床に降ろしてあくびをすると、ふいと背を向けて去って行った。クラージィは苦笑いした。
クラージィは用意してあったパジャマに着替え、ベッドに入った。それから室内を一瞥した。来客用の寝室に机や空の本棚は置かないのではないか。これは家族を住まわせるための部屋だ。
(『血族』か……)
部屋数の多い家だ。耳を澄ますと、家屋全体のあまりにもひっそりとした空気がクラージィを包んだ。
* * *
クラージィが起きたときにはすでに夜になっていた。
「おはよう、いや、おはようじゃないなノースディン」
「いい夜だ。ずいぶんよく眠っていたようじゃないか?」
ノースディンは書斎で机に向かって、ちょうどスマートフォンの通話を切ったところだ。顔色はすっかり元通りだった。ノースディンは立ち上がって、壁を埋める本棚の前に置かれていた椅子を机の傍に動かした。クラージィはすすめられるままに椅子に座る。
「どうだ、一人前の吸血鬼になった感想は?」
ノースディンは机に戻って、背もたれに腕を掛けて横向きに座った。
「噛まれるととても痛いのを思い出した。あの後は大丈夫だったのか? ひどい顔色をしていたが」
「ご覧の通りだ」
ノースディンは両手を広げて見せる。
「傷ももう塞がっている。気にする事じゃない」
クラージィは頷いて、ノースディンの言葉の続きを待った。
「……」
「……」
気まずい沈黙にふたりは顔を見合わせた。先に口を開いたのはクラージィだった。
「昨日までのひと月は半人前だったということになるが……その間にいろんなことがあった。いろんなものを見たよ、ノースディン」
知らず、クラージィの口から笑みが漏れる。対するノースディンは少しムッとした顔でクラージィを見ていた。
「ふざけた街だ。大変だったろう」
「そうだな、驚きに押し流されるばかりのひと月だった。ドラルクが元気に人間と暮らしている、それだけでも大変な驚きだ」
「あれは楽しければ死んでも良いと思っているんだ。享楽ここに極まれり、だな。心のままに生きている」
「ドラルクはともかく、あの街の住人は良きにつけ悪しきにつけ、自分の心に従って生きている。退治人が吸血鬼の依頼を受けたり、少女が公僕として頑張っていたり、吸血鬼がニンニクラーメンを追求していたり、誰彼構わずジャンケンをしたがる吸血鬼がいたり」
「お前あのジャンケンハゲにも遭遇したのか」
「ケンはあれでも、親切ないいひとだぞ。やり過ぎると人間同様しょっ引かれる、というのも教えてくれたし」
「何があった!?」
クラージィが、ジャンケンには勝ったから安心して欲しいと説明しても、ノースディンは少々動揺していたようだった。
「そうしてあの街は回っている。人間も吸血鬼もそれほど違いはないという真実が、そこにはあるよ。二百年で、人と吸血鬼は隣人になれた」
「二百年かかって、あの街だけだ」
ノースディンは渋い顔をしていたが、クラージィは確信を持って言った。
「次の二百年には、同じような街がもっと増えるだろう」
「ム……」
「私が見たものはあの街のごく一部だ。私の知らない問題がきっとあるし、これからも起きるだろう。人間と吸血鬼がそれをどう乗り越えるのかを、私は見たい」
「新たな抗争の時代が来るかもしれないぞ」
「そうなる前に私は、せめて自分にできることをしようとするだろう。だが、そうはならないと信じている」
「あー、つまり……」
ノースディンは眉間を押さえた。
「お前は気に入ったんだな? あの街が」
「そうだな」
クラージィは静かに答えた。